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◆42 梵文法華経の十如是

2006/10/10    魯ひとの云く

 

 ちょっと古い本であるが本田義英著『仏典の内相と外相』を入手した。昭和九年に弘文堂書房というところから出た本である。内容はというと、法華経の十如是が梵文にはなく、鳩摩羅什が『大智度論』にもとづいて付加したものであるという学説を最初に唱えた本である。

 この見解に対する最近の学界の見解は、たとえば菅野博史のものなら『法華経―永遠の菩薩堂―』 p84 以下で紹介されている。しかし、その学問的成果を軽んずるわけではないが、私はまた別な見解を持つ。

 方便品の十如是の部分に相当する梵文和訳は次のようになっている。 「すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。」(岩本裕訳『法華経』岩波文庫 上-p69)

 それで、本田義英は、「漢訳法華経」の十如是は、鳩摩羅什が『大智度論』をもとに意訳拡充したのだという説を立てたのである。

 『大智度論』32
「復た次に、一一の法に九種有り。一には<体>有り。二には各各<法>有り、眼・耳は、同じく四大の造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功なきが如し。又火は熱を以て法と為し、而して潤おすこと能わざるが如し。三には諸法各の<力>有り、火は焼くことを以て力と為し、水は潤すことを以て力と為すが如し。四には諸法は各の自ら<因>有り。五には諸法は各の自ら<縁>有り。六には諸法は各の自ら<果>有り。七には諸法は各の自ら<性>有り。八には諸法は各の<限礙>有り。九には諸法は各の<開通>の方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法は凡て九事有り。

 此の法には各各体法に有って具足することを知る、是を世間の下如と名づく。此の九法は終に変異して尽く滅に帰することを知る、是を中如と名づく。譬えば、此の身は生ずるに不浄より出で、復た澡浴し厳飾すと雖も終に不浄に帰するが如し。是の法は有に非ず、無に非ず、生に非ず、滅に非ず。諸の観法を滅して<究竟>清浄なる、是れを上如と名づく。」(T25-298c)

 以上九種法のうち、体、力、因、縁、果、性、は十如是にそのまま重なる。また、その意味内容から以下のように、法(作)、限礙(相)、開通(本末究竟等)と一致する。後、如是報に相当するものが欠如しているが、果報という言葉もあるように果の中に包摂されているとみることもできる。

 また、下如、中如、上如という補足は、後の三転読誦という天台の口伝を予感させる。

 さらに『大智度論』には、訳語としての如是の繰り返し例もある。
 『大智度論』24(T25-239b)
「仏は是の衆生の種種の性相は、所謂趣向する所に随って、是くの如く偏に多くを知りたまう。如是貴。如是深心事。如是欲。如是業。如是行。如是煩悩。如是礼法。如是定。如是威儀。如是知。如是見。如是憶想分別。」

 以上の件を考え合わせると、十如是は、鳩摩羅什の勝手な増補とは決して言えないのではないだろうか。むしろ法華経の本意に通じた鳩摩羅什が、自らの立場から、伝来の「梵文法華経」に不足を感じ取り、その不足を補ったと思われるのである。

 この辺りの事情について『蓮と法華経』の松山俊太郎は、下記のように考察している。

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「私の見るところでは、『大智度論』の作者とされる龍樹や、『法華経論』の作者とされる世親は、ともに大学匠でありながら、『法華経』の本質を掴んではいません。その原因は、<法華教団>の滅亡のために、『法華経』の<秘密の口伝>が、二人の耳まで届かなかったからだと考えられます。この<秘伝>の亡佚のために、中央アジア出身の羅什三蔵は、『法華経』梵本の文面に<不充足>を感じざるを得ず、漢訳するに当たって、いささかの粉飾を敢えて施しましたし、その羅什訳『妙法蓮華経』に基いて、天台智ギ(★豈+頁)は、インドの原作者たちが思いも掛けなかったような、壮麗な思想体系を築き上げました。

 もしインドの<法華教団>が後代まで存続していれば、教団の内部で保持してきた知識をもとに、『法華経』の<注釈書>や<解説書>が著されたはずですから、好くも悪しくも、『法華経』の解釈は、インド色の強いものに狭められたでしょう。そうなると、智ギ(★豈+頁)の思想体系も、まったく成立しなかったか、成立しても現存のものとは全く違っていた可能性が大きいと思います。

 ……さらにいえば、天台智ギ(★豈+頁)の業績は、『法華経』の秘奥まで見抜いていないために、あえていえば<創造的誤解の産物>といった観がありますが、日蓮は、そのインド人では達成できなかった部分を吸収するとともに、鍵なしで鍵の掛かった扉を自在に開けるようにして、<不生不滅の妙法蓮華経>まで洞察しています。」(『蓮と法華経』p225〜227) 松山俊太郎著『蓮と法華経』第三文明社 2000年刊

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 今一度、付言すると「梵文法華経」には脱落があるという説である。

 私は残念ながらサンスクリットは読めないので梵文和訳を使うが、一本では満足できず、次の四本を合わせ読んだ。

 岩本裕訳注『法華経』上中下、ワイド版岩波文庫 2001年
 長尾雅人等訳『法華経』I II、中央公論社 昭和63年
 中村瑞隆訳『現代語訳法華経』上下、春秋社 1983年
 中村元の現代語訳『法華経』東京書籍 2003年(ただし、これは部分訳)

 これらを読み合わせて、「梵文法華経」に対して強く感じるのは、やはり内容的な脱落感である。そこには漢文独特の持って回った言い方は無いので分かり易さはあるが、気の抜けたビールを飲んでいるようでまるでパンチがない。

 羅什訳の「法華経方便品」では十如是のあと
爾時世尊 欲重宣此義
「爾の時、世尊は重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく、世雄は量るべからず」と、いわゆる世雄偈に入っていくのであるが、ここで「重ねて」と十如是の義を敷衍して述べられていくことに注意すべであろう。

 梵文和訳でも
「そこで、世尊はその意義を重ねて示そうとして」とあって、その構造はかわらない。しかし、いったい何を重ねて説こうとしているのであろうか。そこで「世雄偈」以下で述べられるのは、開三顕一や開示悟入、二乗作仏であるがそれらの法義は十如是を踏まえないと、何の「実」もない。「我が昔の願いし所の如きは今は已に満足しぬ」とは、とても言えないと思う。梵文和訳では「余の決意通りに余の誓願は完全に満たされた」とあるが、この文にもまったく「実」が示されていない。この文脈のまま「寿量品」に入って発迹顕本しても何も開けてこないように思われる。

 けっきょく、私たちは日蓮の立場から法華経を読んではじめてその「実(一念三千)」を実感できるのであって、そこから梵文法華経を読み返すことによってより法華経が理解できるように思われる。それを梵文法華経の立場から法華経には十如是が無く、一念三千は天台の誤解だなどといったら、仏教から一切の「実」が消えてしまうのではないだろうか。

 文献学の研究成果を私たちは謙虚に学ぶ必要がある。ただ文献学に振り回されると、信仰実践には何の価値もなくなり、冷ややかな批判の対象でしか見えなくなってしまう。もしそうなら、ブッダが説いたもの、仏法は虚無の底に沈んでしまうことになる。ゆえに私たちはあくまで日蓮の振る舞いを通して法華経を読んでいきたい。

 なお、「羅什訳法華経」の現代語訳はレグルス文庫に三枝充悳のものがある。


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