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◆37 「日蓮阿闍梨」再考

2006/03/04    魯ひとの云く

 
 『日蓮伝再考』において、私は蓮長から日蓮への改名説を批判して、日蓮の名はむしろ阿闍梨号に由来するのではないかとの説を提示した。(同書 p120)

 この私の説への批判として、日蓮の弟子への名づけは、諱に日号として「日」字を分与し、阿闍梨号は別の名を授与しているから、日蓮の名は諱とすべきではないかという説が出ている。

 しかし、師匠なり親が弟子や子に名前をつける場合、必ずしも、自分の諱や本名からつけるとは限らない。自分の雅号や屋号、あるいは通称からつける場合もある。また逆に親の号を子や弟子が苗字にしてしまう例もある。堺の商人田中与兵衛は、父の阿弥号「千阿弥」から「千」を苗字とした。千利休の父親である。

 ゆえに、必ずしも師匠の諱→弟子の諱、師匠の阿闍梨号→弟子の阿闍梨号とはならない。師匠の阿闍梨号から一字とって弟子の諱としても不自然ではない。

 また、阿闍梨号は弟子が一人前になってから付ける名前であるから必ずしも師匠が名づけるとは限らない。むしろ当時では、弟子が一人前になる頃には師匠はすでに亡くなっているということはごく普通のことだと思われる。

 さらに言えば、日蓮大聖人の弟子で、師匠から阿闍梨の資格を認知された例はあるが、阿闍梨号を日蓮大聖人から命名されたと確定できる例は一例もない。では弟子の阿闍梨号を見てみよう。

1、入門以前に阿闍梨であったと見られる例

弁阿闍梨日昭   …おそらく房号(※1)から
大進阿闍梨          …おそらく房号(親の官職)から
大和阿闍梨(一説に日昭とも) …おそらく房号(国の名)から
助阿闍梨           …おそらく房号(親の官職)から

2、入門後、阿闍梨に昇進したと見られる例

三位阿闍梨(三位房)     …房号(親の官職)から
大国阿闍梨日朗(筑後房)   …おそらく房号(※2)から
伯耆阿闍梨日興(伯耆房)   …房号(国の名)から

3、滅後の日興筆「御遷化記録」にみえる例

弁阿闍梨日昭         …先述
大国阿闍梨日朗        …先述
白蓮阿闍梨日興        …おそらく房号(※3)から
蓮華阿闍梨日持(甲斐公)   …おそらく房号(※4)から

4、滅後、阿闍梨になったと思われる例

一周忌ころか
佐渡阿闍梨日向(佐渡房)   …房号(国の名)から
伊予阿闍梨日頂(伊予房)   …房号(国の名)から
中老世代
卿阿闍梨日目(卿公)     …房号(親の官職)から
帥阿闍梨日高(帥房)     …房号(親の官職)から

 日蓮大聖人の弟子の房号は、一人前になってから弟子入りした例を除いて国の名や親の官職から来ていることは『日蓮伝再考』でも触れた(同書 p270)。さらに弟子方の阿闍梨号を検討すると、そのほとんどが、房号を引き継いでいることがわかる。ということは、日蓮大聖人が弟子に阿闍梨の資格を認定し認知するにあたって、積極的に号(阿闍梨号)を授与したとはみられない。特異な例は、大国(日朗)、白蓮(日興)、蓮華(日持)の3名だけである。入門以前の弁(日昭)と合わせて考察してみよう。

 ※1、弁(日昭) …一説に「弁」の名は諱・成弁(または弁成)に由来するという。しかし、それが本当に日昭の諱であったのかということについては一考を要する。なぜならば、社会の通念として諱は尊いものとされて大事にされた。その名を師匠といえども半分に切って「弁殿」などというだろうか。とすればもう少し軽い房号で「成弁房」とも考えられる。しかし、それでも不審は残る。日蓮大聖人が房号であろうと弟子の名前をちょん切って表記するだろうか。少なくともその例は他に見えない。「成弁」云云の話は根拠に乏しく伝説の域を出ない。

 日蓮大聖人が日昭を呼ぶ場合、次の表記が見られる。1弁阿闍梨、2弁殿、3弁公、4弁房である。後世の伝承よりも御書の表記を重んじて考察するならば、「弁阿闍梨」の「弁」は、やはり「弁房」という房号からとったものというべきであろう。

 この「弁」の人名は古典文学などにもよく登場する。「弁内侍」(べんのないし)がその例である。「弁」とは律令制では太政官に属する役所、役人のことである。「弁内侍」は後深草帝に仕えた女官であるが、父親が太政官の役人であったので「弁内侍」と呼ばれたものであろう。

 日昭の時代では、官職は名目的なものになって、その役所と関係の無い地方の武士たちもおおっぴらに名乗っていた。名跡化して恩賞がわりに授与されたり、売買されていたのである。日昭の父親は印東祐昭といわれる。その信憑性はともかくその父親が太政官役人の下級官職をもっていたとしても不思議は無い。

 このような一字名というのは日蓮大聖人の弟子においてもまま見られる。助阿闍梨の助、帥房日高の帥、卿公日目の卿などである。

 ※2、大国(日朗) …日朗の房号は筑後房であるが、これは国の名からきている。この「大国」とは「筑後国」意味ではないかと考えられるのである。

 律令制では、諸国を面積や人口、生産力などで四等級(大国、上国、中国、小国)に分けているが、第一等級を「大国」とした。この制度が始められた延喜式によると筑後国は第二等級の「上国」に属しているが、この格式は決して不変のものではなかった。鎌倉時代では農業技術が格段に進歩し新田開発が盛んになされていた。筑後の国というと福岡県南部から有明海にいたる筑後川の流域にある。九州第一のこの大河の流域にあるこの筑後国が他国を圧して豊かな国土であったことは否定できない。当時文字通りの「大国」であり、諸大名の垂涎の的であった。こういうことを考えれば、筑後国が当時「大国」の格式を持っていた考えることができる。

 そういうところから、筑後房に対して、その成長を称賛して「大国房」と呼びかけていたと考えられなくもない。その直後に「阿闍梨」の資格認定があり、「大国阿闍梨」と呼ばれたのではなかったか。このような推測を試みる理由は、伯耆房日興の例と似た形跡がうかがえるからである。

 ※3、白蓮(日興) …有名な二箇相承では「白蓮阿闍梨日興」とあるが、真蹟現存の「五大の許御書」では「伯耆阿闍梨」とみえる。ここでは文字通り房号がそのまま阿闍梨号となっている(二箇相承の真偽判はきわめて宗教的次元の問題なのでここでは論じない)。

 ただ、日興が白蓮阿闍梨として在世中に認定されていたらしいことは、日昭、日朗、日持が加判した「遷化記録」で明らかである。しかし、池上本門寺に日興筆(偽筆)として伝わる「身延山久遠寺番帳事」に「白蓮房」「蓮華房」とあることが気にかかる。偽筆とはいえ、日興を執筆者として、加判の入門順位も間違えていない。ここで特に日興を貶める意図はみられない。

 日朗の「大国房」の場合と同様に日興・日持の功を顕彰して、日蓮大聖人が最晩年、日興・日持をそれぞれ「白蓮房」「蓮華房」と呼ばれた時期があったのではないかという推測は、決して無理なことではない。

 これは、阿闍梨の資格を認定するのは誰かという問題に関わってくると思われる。単に師匠一人が認知すればよいというものではなかったはずである。当時の叡山における認定システムは見失われているが、それでも複数の教師(和合僧の指導者)による認定が必要だったのではないか。

 そもそも阿闍梨は、弟子を教導する師範を意味する。天台宗・真言宗では伝法灌頂に入壇し密教の血脈を相承した者を「伝法阿闍梨」とした。承和十年(843)真紹が初めて補任されて以来官許制であった。しかし十世紀末ごろからは、寺ごとの定員によって認定されていた。「寺分阿闍梨」という。

 また、よく誤解されるのに「一身阿闍梨」の例がある。これは高位の貴族の子弟がその人一代限りに授与されるもので、天延元年(973)天台宗の尋禅が補任されたのを初めとする。日蓮大聖人および日蓮門下の阿闍梨とは関係がない。

 ゆえに、日日蓮大聖人は弟子の阿闍梨認定にあたって、まず弟子の房号を改めたり、日号を授与したりして和合僧内の阿闍梨資格者に推挙したのではないか。そして彼らの同意を経て弟子の阿闍梨の地位が正式に認定されたと思われる。

 晩年の日蓮は特に自らの滅後のことに腐心していたであろうから、そのような合議の手順を大切にしたと思う。その名残りが「大国阿闍梨」や「白蓮房」「蓮華房」の名として伝わったのであろう。

 ともあれ、日興は日蓮大聖人滅後、「白蓮」の署名を専ら用いていたが、御本尊書写には用いなかった。また、晩年には、「白蓮」の署名を廃して専ら「日興」の署名を使うように変化している。もし、「白蓮阿闍梨」の号が日蓮大聖人によるものであるならば、御本尊に白蓮と署名してもおかしくないし、晩年に至って書簡などの署名を変える必要もなかったと思われる。

 ゆえに私は「白蓮阿闍梨」の号は師匠日蓮大聖人の命名ではなかったと考える。

 ※4、蓮華(日持) …他に考察に値する史料は見ないが、先に示した「身延山久遠寺番帳事」に「蓮華房」とみられることから、日興の考察に準じて考えられたい。

 以上のようにみてくると、日蓮大聖人の弟子の阿闍梨号はすべて房号をそのまま持ってきたと考えることができる。ようするに積極的に号を授与したとは見なせないのである。

 さらに言うならば、日蓮大聖人と弟子の師弟関係を明瞭に示すものとして、真蹟の御本尊があるが、この御本尊の授与書に弟子の阿闍梨号を記した例は一体もない。これはどういうことであろうか。つまり阿闍梨号は師弟関係の必須の条件ではないということである。

 私は先に、阿闍梨号は元来、密教系の地位であった。日蓮大聖人は自由に布教活動するための社会的ステータスとしてその資格を獲得したのではないかという見解を『日蓮伝再考』で述べた。

 日蓮大聖人が晩年に至ってようやく、弟子たちに阿闍梨の認定をおこなったのも、同じように日蓮大聖人の滅後、弟子たちが後継者として布教活動がやりやすくなるようにとの配慮から社会的ステータスとしての阿闍梨の認定をおこなったと思われる。

 日蓮仏法においては、阿闍梨の地位には何の価値もない。日蓮大聖人の弟子の地位は仏法の上から価値あるのは「名字即位」であり「法華経の行者」の地位のみである。

 阿闍梨どころか、大僧正も、僧都も、律師も、禅師も不用である。さらにいえば日号だって必須ではない。日蓮大聖人の真蹟御本尊をつぶさに見ればよい。日号がある人も、無い人もいる。俗名で記された例もある。日号がなければ信心が劣るのであろうか。南条時光には日号を付けられなかった。時光の法号は「大行」である。

 日蓮大聖人が信徒に付けられた敬称としても、「聖人」「上人」「賢人」といった称号がみられるが、それは信心の称賛と激励の意味であって決して「上人号」といわれるような位階、格式ではなかった。その証拠に僧俗の区別なくつけられている。信徒には「居士位」「講頭」などという格式をつけられた例もこれまた一例も無い。

 にもかかわらず、現今の僧侶は、阿闍梨号のみならず院号を欲しがり、大徳位を求め、大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、律師といった位階を求め、さらに上人号やら贈上人号なるものまで争っている。この姿はいったい何なのか。そんな彼らから居士位や講頭の書付をもらっても日蓮大聖人の前で通用するのであろうか。

 日蓮大聖人の仏法を実践しようとするならば、「法華経の行者」と呼ばれることこそが第一義、最高の名誉、「今生人界の思い出」たるべきであろう。

 ところで、このように所論を固めると逆に、では御書には「日蓮阿闍梨」とともに「日蓮房」の表記も多く見られることから、「日蓮房」から「日蓮阿闍梨」が派生したと言えるとの疑問が起こるかもしれない。

 しかし、日蓮大聖人の本来の房号は「是聖房」であったことは真蹟のうえで確定している。ただ「是聖房」の名は日蓮の名乗りを挙げてからは全く使わなくなっている。

 けっきょく日蓮大聖人は「日蓮阿闍梨」と肩書きで呼ばれるより、「日蓮房」と平僧のように肩書きなしで呼ばれる方を好まれたのではないかと私は思う。

 だから日蓮大聖人の場合は、阿闍梨号→房号と下がっていったが、弟子たちは、房号→阿闍梨号と上昇志向が強かったということであろうか。師弟のコントラストは際立っている。まあ、いずれの社会にも上昇志向の強い人が多くいる。今あえて、それを非とするつもりはない。

 以上、日蓮の名が日蓮大聖人が自ら名乗った阿闍梨号に由来するとした私の立論に対する批判への答えとする。


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