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◆36 「節分談義」

2006/02/05    魯ひとの云く

 
 去る二月三日は節分。あちこちで豆まき風景が見られた。この「節分の豆まき」というと、もうずいぶん大昔になってしまったが、日達法主の時代に、日達法主が節分について説法しこたとがある。当時、その話を聞いて、深い失望感を懐いた。

 日達法主の云く「世間と違い、本山では鬼はいないから、節分の豆まきは『鬼は外』とは言わない。『福は内』『福は内』とのみ言うのである。これが本山の伝統である。」と。

 魯ひとの思えらく、仏法は善悪不二だから、本山とて、鬼がいないわけがない。さらに本山ともあろうものが、福を外から呼び込むとは笑ってしまった。

 一切が御本尊から発し、一切が御本尊に帰すのであるならば、「福は外」と言って、一切衆生に福運を分け与え、福を送り出してしかるべきだ。「鬼は内」と言って、世間の悪を収束せしめるべきだ。

 それを「福は内」「福は内」では、あまりに幼くて、ここには、日蓮仏法の精神が生きていない。残念ながら、大石寺の伝統なるものが、いかに根が浅いかをこんなところにも暴露してしまっている。この時に感じた暗い予感は、やがて現実のものとなった。

 これは、別に日達法主や大石寺への揶揄ではない。私たち自身の問題でもある。自らの内にある悪を凝視せよ。


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