◆34 我が心を震撼せしめよ2006/01/18 魯ひとの云く昨日(一月十七日)は神戸淡路の大震災から十一年目であった。私は、毎年この日、この時刻はいつも起きている。どうしても眼がさえて眠れないのだ。といっても、大阪の我が家はそんなに被害を受けたわけではない。 直接的な被害は、多少屋根瓦がずれたこと、仏壇の仏具が飛んできたぐらいであろうか。神戸の人々のことを思うと、語るのもはばかられる。しかし、心に受けたインパクトは決して小さなものではなかった。このことは、やはり語っておきたいと思う。 大地震というと、正嘉元(1257)年、今から749年前にも鎌倉が壊滅するほどの大地震が起こった。正嘉の大地震である。それを機縁に日蓮が「立正安国論」を著したことは、周知のことである。 そして、その震災からちょうど十一年後、文永五(1268)年、蒙古の来牒があって鎌倉の幕府を震撼させた。日蓮は、幕府など十一箇所に使いを派遣して諌暁の手紙を出した。 このことから、日蓮の自伝たる「種種御振舞御書」が書き出されている。このことの意味は決して小さくはないと思う。だから私は、『日蓮自伝考』の執筆中、ずっとこのことを考えていた。 けっきょく、それは人々の執着することに動揺をおこさせ、疑いを生じさせる「動執生疑」と関係があることに気がついた。まさに日蓮の言う法華経本門は、天台のそれとは違って「動執生疑」から始まっているのである。 心を震撼せしめよ。全て、そこからことは始まる。 そういう意味からは、正嘉の大地震は、日蓮仏法が生まれ出ずる大きな「瑞相」であったのだ。また、そのように日蓮は語っている。 私たちが体験した、あるいは見聞した、あの日、あの大震災が単なる災害に過ぎないとしたならば、そこには罹災者たちの救いはない。しかし、そこから私たちが、本当に目覚め、日蓮仏法の真実を知ることができるようになるとしたら、正法興隆の大きな「瑞相」であるとするならば、震災によってあの日亡くなられた方々の犠牲は、それこそ尊い殉教の誉れと同じ質を持ってくることになる。 私は長い間、日蓮大聖人が正嘉の大地震を「瑞相」とみなし、「大悪は大善の来るべき瑞相なり」(御書 p1467)と言い切ったことの本意がよくわからなかった。 けっきょく、日蓮が述べていたことは、大悪が大悪のままで終るのか、それとも大悪が「瑞相」として浄化されるのかは、私たち一人ひとりの生き方に深く関わっているということではないだろうか。 ここに日蓮仏法の卓越性があり、日蓮仏法の極意がある。そのように私は思う。それが神戸の震災から、私が学んだことである。 我が心をして、震撼せしめよ。
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