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◆32 身延離山の伝承と断絶

2006/01/09    魯ひとの云く

 
 大石寺六世日時の作になる『三師御伝土代』(伝四世日道)のうち「日興上人御伝草案」(富要5-8)の身延離山の記事は次のようになっている。

 「大聖御滅後六人ノ上足、奏状を捧ゲ給フに、五人は天台の沙門ト云云。興上は日蓮聖人弟子某ト申状書キ畢ヌ。これに依つて五人は一同して、興上一人正義を立つ。鬱憤して不和の間 、波木井殿も五人の方に心寄せなるによつて、興上は身延山出テ給ヒて南条次郎左衛門時光が領、駿州富士上野の郷ニ越エ給フ」

 よく読んでもらえば分かることであるが、これは身延離山の史実といささか違うようである。

 ここでは波木井実長が五老僧に心を寄せたから、日興上人が離山したようになっている。これでは離山の原因は実長の変心ということになる。しかし、日興上人は実長の変心というより、離山の根本は日向の師敵対であり、実長の日向与同は従因に過ぎないとしていた。

 だから日興の『弟子分帳』には、波木井実長をして「背き畢んぬ」とは書いていない。日興は最期まで波木井実長を捨てていないのである。

 さらに、実長は五老僧に与同したのでないことは、むしろ日昭、日朗、日頂、日持、富木常忍等の重鎮は、実長を忌避しており、それが原因で彼らは日蓮の三回忌に身延に登山せず、それぞれが自分のところで三回忌の法要を行っていた。

 この問題に関しては日興は、五老僧に対して、実長の信心には問題がないことを保証して、不和の解消に腐心していた。したがって、五老僧の問題とも日興の離山とは直接関係がない。

 日向を除いた四老僧と日興の対立が鮮明になるのは、むしろ日興上人の身延離山以降のことではなかったか。

 結局のところ、身延離山に対する『三師御伝土代』の日時の知識は、『五人所破抄』に基づいているようで、直接離山に関わった人から取材したものではなく、形式的なものに過ぎない。離山の真実は、この時点ですでに忘れ去られていたのである。

 それは、うがった見方をすれば、大石寺日時たちが、五老僧とも身延日向の後継者たちとも直接対峙することがなかったからではないかと思われてならない。この頃の大石寺日時たちが対峙していたのは、保田日郷の後継者たちで、日興門流の中で消耗戦を演じていたのではなかったか。

 ようやく身延離山の全体像がみえてくるのは、要法寺日辰らによって北山にあった日興の文書が公開されてから以降のことと思われる。この時に公開されたのが「美作房御返事」や「原殿御返事」である。これは、要法寺日辰や保田日我の時代になって、ようやく日興門流としてのアイデンティティが問われるようになったからではないだろうか。

 しかし、残念なことは、この頃、要法寺日辰や保田日我をリードしうる学匠が大石寺にはいなかったことであろう。日有の前にも日有の後にも、日寛が現れるまで、残念ながら大石寺には、これという人材がみられない。

 ともあれ真実は、日蓮滅後100年、200年と忘れ去られていったものもあるが、逆に100年経たねば見えなかったもの、200年経たねば見えなかったもの、300年経たねば見えなかったもの、700年、800年経たねば見えないものもあるということである。

 だから機械的に、100年以上経ってから出てきた文書は信用しないとか、150年以上経ってから出てきた文書は信用しないとか、といった議論はまったく学問的ではない。そもそも滅後50年なら信用できるとかいう根拠は何なのか。

 結局、時間の経過が問題なのではなく、御書へ肉薄し、厳しく、そのアイデンティティが問われる中でしか真実は見えてこないということであろう。

 いま、問われているのは、創価学会のアイデンティティであり、日興門徒のアイデンティティであり、日蓮仏法のアイデンティティである。これに正面から取り組もうとせず、鶴の一声をじっと待っているようでは、永遠に何も見えてこないだろう。

 歴史は忘れ去られるものであり、歴史は蘇るものである。これは私たち自身の歴史にもいえることなのだ。


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