他の記事を読む

◆31 民俗学の視点から覗きみれば

2006/01/06    魯ひとの云く

 
 第三弾『日蓮弟子考』の執筆のからみもあって、日蓮滅後の弟子たちの動きを追っているが、最近気が付いたことがある。それは、民俗学、民俗宗教学がテーマとし、課題としてきた事例が、そこに非常に多いことである。これは、日蓮滅後、その信仰観が民俗的なものと急速に同化していったことを意味しているのではないかと思われる。

 さらには、日蓮が乗り越えた顕密仏教、本覚思想からの大きなゆり戻しがあったのではないか。そのことは、必ずしもマイナスに考える必要はない。日蓮仏法のオリジナルなものと、本覚思想のせめぎあいのなかで、日蓮仏法が純化された面もあったのではないか。それが『御義口伝』の成立を考える重要な視点ではないだろうか。

 ともあれ、さまざまな視点が見えてくる。従来、日蓮門下の門流史が滅後の弾圧、六老僧の分裂、正統争いといった、どちらかというと政治的な視点ばかりが強調され、宗教的、思想的な視点からの考察があまりにも貧弱ではなかったであろうか。

 いま、ざっと気が付いた民俗学的な事例をピックアップしてみよう。

 1、日蓮が所持していた立像仏の件。日蓮はこの仏像の功徳について語ったことは一度も無く、弟子たちに、この仏像を拝ませたという根拠はなんら見出せないにも関わらず、滅後、日興以外の弟子たちがこの仏像にこだわりを示したこと。

 2、また、この仏像が海中から出現したとされている件。海中から出現したらしいことは御書にも触れられているが、はたしてもともと御書に記されていたのか、後世付加されたのか、今は断定できないようだ。このような類似事例は、善光寺や浅草寺の本尊伝承にもみられる。

 3、富士門徒のいわゆる「最初仏」の件。「其の故は弘安二年に板本尊彫刻し、此の次でを以て、末代未聞不見の者の為に御影を造立申し度きの望みありて、先づ一躰三寸の御影を造立して、袖裏にいれて大聖人に奉り、免許を請ひたまふ。聖人此の像を掌上に置き之れを視、笑みを含み許諾。茲に因て日法、等身の御影を造立したまふ。滅後に造立と思ふべからず」日精『日蓮聖人年譜』富要5-145

 この文は日蓮の御影を造るに最初仏として最初に三寸の小さな御影をつくり、それから等身大の御影を造ったと言う伝承。そして小さな御影を秘仏として秘蔵したという伝承を伝えるものである。ここには法隆寺の百済観音と体内秘仏救世観音の関係、清澄寺本堂の虚空蔵菩薩像とその体内に収められた虚空蔵との関係などの事例と共通したものがみられる。

 4、開眼とヨリシロ。東大寺大仏の大掃除ススハライの時の閉眼供養は有名であるが、仏像の魂を抜いたり入れたりできるという発想、これは仏教本来の生命観からは出てこない。これはむしろ神々が降臨するヨリシロの発想ときわめて似ている。このヨリシロの発想から日蓮の曼荼羅本尊を理解するということがおこなわれている。いわゆる本尊開眼の発想がそれである。

 5、葬送儀礼。日蓮は葬送儀礼については、何も述べていない。葬送儀礼において、拝読される御書は、葬送のために書かれたものではなく、本意から離れて転用されている。

 6、数珠。日蓮が数珠を用いたことは、御書にもみられ否定できない。しかし、それが不可欠の法具とされたという根拠はなく、仏教本来の発想から理論付けることも不可能である。また元来数珠は仏教のものではなく、ブッダは使っていない。もとはバラモン教や密教に由来するものである。しかるに、日蓮滅後、数珠が三衣として特殊な理論付けがなされ、不可欠の法具とされていった。

 7、産湯伝承において、虚空蔵菩薩が肩に幼児を載せて現れ、両親にこの子を授けるといったという話。これはキリスト教の大天使ガブリエルがイエスの両親の前に現れた話にきわめて類似している。(『産湯相承事』の初見はキリスト教伝来以前という。しかし、『産湯相承事』の原型に果たしてこの話があったのであろうか)

 8、その他、略す。

 ともあれ、仏法が生活に密着した形で広まっていく限りにおいて、民俗的要素が付加されていくのは必然的でやむをえないものがあろう。生活のなかで信仰が問い直されていくことは多い。そのことをとやかくいうつもりはない。変に民俗学趣味に流れることも自戒せねばなるまい。

 ただ、そういうふうに民俗的要素が化儀面で多く見られるということは、化法、思想面でも多くの付加が入ったと考えるのは無理なことではなかろう。そういう面を浮き彫りに出来ればと考えている。


●関連記事



ブログ・indexへ