他の記事を読む

◆05 うつ病は「身の病」

2004/11/07    魯ひとの云く


 うつ病についての相談をよく受ける。この問題は、私にとっても他人事ではありえず、また、多くの人にとっても同様ではないかと思う。ただ、この問題を考える時に、天台のいわゆる「病の六因説」はそのまま有効なのかというと私は、はなはだ疑問に思っている。少なくとも、うつ病は「業病」ではありえない。

 また、一口に「心の病」と言うけれど、御書で説かれている「心の病」とは、正邪の判断が出来なくなることを指している。現在、私たちの身の回りで使われる「心の病」とは同じ言葉でも意味が違うことに注意すべきだと思う。

 「うつ病」の人が正邪の判断がつかないなんてことはない。正邪の判断がつかないのはむしろ健常者の方が多い。また、業病ではないというのは、「うつ病」は必ず治る病気だからである。

 繰り返しになるが、「うつ病」は御書で説かれる「心の病」ではない。

 では、仏典の中に、それを求めるとすれば、どう言うものなのであろうか。もし、私の独断が許されるなら、それは、維摩経に説かれる「一切衆生病むゆえに我病む」に一番近いと思う。

 笑ってはいけない。社会の病がそのまま個人の中に投影されているというべきなのである。このことは、現場で治療に当たっている医師たちも同様のことを述べている。皆さん御存じの於保ドクターなんかも、登校拒否、引きこもり、うつ病などの背景として共同体の崩壊を一番に挙げている。

 昔なら、家庭に問題があっても、学校や職場が避難場所としてあった。学校や職場に問題があっても、地域や仲間がそれをフォローしていたのである。そういう機能が今の社会から、いつの間にか消えてしまっている。

 東哲の友岡氏も、この国の歴史の中には、障害者や肢体不自由な人を社会全体で育んでいこうという発想があったことを、エビス信仰の歴史を分析する中で、指摘している。そういう社会、共同体がここに来て一気に崩壊しているのである。

 そうなると、その軋轢を、そこにいる生真面目な人がしょいこんでしまうことになる。うつ病になったり、引きこもってしまう人は、たいていそういう生真面目なひとであることがわかる。要領のよい人はうまくすり抜けてしまうから、うつ病にはならない。ここで誤解しないで欲しいのは、うつ病の人は精神的に脆いのでは決して無いということである。

 むしろ精神的に強く、色々な困難をに立ち向かっていこうというタイプの人の方が、うつ病になりやすいといわれる。つまり、今の時代は、少なくとも今の日本社会においては「うつ病」になる人の方がまともなのだということである。私が、「一切衆生病むゆえに我病む」といったのはそういう意味である。

 じゃあ、どうしてこの問題を解決していくか。正直なところ、私にもその回答を出す能力はない。しかし、少なくとも二つのことが挙げられる。一つは「うつ病」の自覚症状がある人と、その身辺の人の問題である。(たいていの場合はその家族)この問題は患者さん個人の問題だけではない。両者はきちんとした専門家の治療とケアを受ける必要があると思われる。

 そして、それは恥ずかしいことでも何でもない。胃腸の病気や風邪と同じである。「うつ病」は「身の病」である。精神科や心療内科、皆「身の病」のお医者である。ホルモンの代謝がくるったり、自律神経が過敏になったり、失調したり、発熱したり、そういうことでしょう。

 だから、腕のよい医者を見つけることも必要であろう。その場合、医者が学会員であるとか、有名であるとかは関係ないと思う。少なくとも「うつ病」を信心と結びつけて「ああだこうだ」という医者がいるなら避けたほうがいいと思う。

 二つは、その人を取り巻く社会の問題である。壊れちまった社会を立て直さなければならないということである。人間は社会的動物であってみれば、社会なしに健康で文化的な生活を営める道理がないではないか。ただし、「社会が悪い」と百万言を費やしても社会がよくならないのは皆さまごぞんじの通りである。

 こわれちまったものを立て直すのは大変なことである。私は、町内会やPTAや商店会、労働組合などの活動などにも参加してきたが、その内実は大変なものがある。今も現役の地域役職をやっているが、立て直しを言われながら、皆ばらばらだから、立て直しのメドも発たないでいる。その点、創価学会はまだよいと思う。

 「まだよい」というのはあんまり良くないともいえるが、それでも信心という一本筋の通ったものがある。これは他にはないものであるし、ここにのみ一切を開いていける糸口があると私は思っている。

 地縁社会がなかば崩壊状態にあるが、創価学会は結社社会ではあっても、すでに地縁社会に代行しうる広がりをもっている。結社社会の強い結びつきがあり、かつ地縁社会の広がりを持っている。学会組織は現代社会の危機的状況のなかで唯一希望がもてるところなのである。

 しかし、敢えて「あんまり良くない」と述べたのは、現実の組織は、一見、この問題に対してあまりにも無力にみえるということである。学会本部にはもっと前向きな分析と対策を期待したいと思っている。しかし、えらいさんの動きを待っているわけにはいかないし、現実に遭遇する具体的な悩みをテコにして、学会員ひとりひとりが、病める人々の避難場所になれるように努力していていきたいし、そういう組織にしていきたいと思う。

 かつて言われた「創価学会は病人と貧乏人の集まりだ」という名誉ある栄光の地位を、今一度、取り戻したいと思っている。そのためには、私たちがもっと勉強しなくてはならないことがある。

 「うつ病」についての正しい知識も必要であるし、正しいカウンセリングやケアの知識も必要なのだ。少なくとも、頑張れなくて、落ち込んでいる人に「頑張れ、頑張れ」と言い続ける愚かさは失くすべきであろう。「題目挙げろ、題目挙げろ」というのではなく、「一緒に題目あげようか」といって、たとえ十分でも一緒に挙げること、いきなり「十時間唱題」なんて言わず、少しでも続けることの方が大切だと思う。そのように相手の気持ちに負担がないように智慧を出していくことも大切だと思う。

 ともあれ、私は、今、病んでいる人、今苦しんでいる人は、将来、多くの人々を救っていけるかけがえの無い人材ではないかと思えて仕方がないのである。本当の痛みと苦しみを知った人ほど強く優しくなれるものだからである。

 今、病んでいる学会員さんは、今の創価学会にとっても、将来の創価学会にとっても大切な、大切な人材なのである。どうか、苦労をいとわず、皆で大切に育ててほしい。難しいことをいわず、今自分に出来ることはなにか。自分のできることからはじめよう。

             魯の人 拝 2003/06/23


●関連記事



    からぐらの風・indexへ