種種御振舞御書(御振舞抄)--現代語訳----訳 魯の人
はじめにしかし、一般に流布している現代語訳や通解は誤訳や誤解が多く、とても読者の皆さまに推挙する気持ちが起りませんでした。 それならば、なおのことの『日蓮自伝考』の著者自身が「種種御振舞御書」をいかに読んでいるのかを提示しておく必要があると考えましたので、ここに著者自身の現代語訳を掲げることにしました。 決して、これが決定版だと思っているわけではありません。皆さまの御批正を受けましてさらによいものができればよいと考えています。 なお、各段落に付けた章節のタイトルは対応する『日蓮自伝考』の章節名です。必ずしも各段落の内容に合致するものではありません。 また、なぜ、そのように訳したのかを明らかにするため、注記として訳注や語注を章節ごとにつけました。 さらに詳しいことや、突っ込んだ考察は、『日蓮自伝考』本文で展開しています。発刊なりましたら、ぜひご購読いただければ幸いです。 2006/02/24 魯の人 拝
もくじ本抄段落 対応する『日蓮自伝考』の章節 □◆第一段 第一章 「立正安国論」とこころ(御書全集 p909 L1〜p910 L2) ◆一の一 一節 「立正安国論」と白楽天 ◆一の二 二節 賞罰と十一通御書 ◆一の三 三節 自らの存在意義を見失った鎌倉幕府 ◆一の四 四節 迫害と門下の育成 ◆【注記】 □◆第二段 第二章 弟子への呼びかけ(御書全集 p910 L3〜p911 L3) ◆二の一 一節 受難の喜びと殉教 ◆二の二 二節 法華経の行者と五義 ◆二の三 三節 信仰者の生き方を問う受難の時 ◆二の四 四節 師弟に共有されるロマン ◆【注記】 □◆第三段 第三章 「侍所」でのたたかい(御書全集 p911 L3〜p911 L14) ◆三の一 一節 日蓮とテロル ◆三の二 三節 自界叛逆の道理 ◆【注記】 □◆第四段 第四章 草庵を襲うあらし(御書全集 p911 L15〜p912 L15) ◆四の一 一節 文永八年九月十二日 ◆四の二 二節 法華経第五の巻と少輔房 ◆四の三 三節 平頼綱に言い聞かせたこと ◆四の四 四節 良観の祈雨失敗 ◆【注記】 □◆第五段 第五章 八幡への諫暁(御書全集 p912 L16〜p913 L10) ◆五の一 一節 市中引き回し ◆五の二 二節 八幡諌暁の意味するもの ◆五の三 三節 諸天善神の誓状 ◆五の四 四節 天照太神・正八幡 ◆【注記】 □◆第六段 第六章 竜口であったこと(御書全集 p913 L11〜p914 L15) ◆六の一 一節 四条金吾と熊王について ◆六の二 二節 法華経身読の歓喜 ◆六の三 三節 頸の座と光り物 ◆六の四 九節 依智の本間邸と酒 ◆【注記】 □◆第七段 第七章 依智の星下り(御書全集 p914 L16〜p916 L3) ◆七の一 一節 鎌倉よりの立文と北条宣時 ◆七の二 二節 依智の星下り ◆七の三 三節 時宗邸での騒ぎ ◆七の四 四節 土牢の人々 ◆【注記】 □◆第八段 第八章 佐渡塚原に立つ(御書全集 p916 L4〜p917 L9) ◆八の一 一節 塚原の堂と阿仏房 ◆八の二 二節 日蓮と不軽菩薩 ◆八の三 三節 三障四魔のとらえ方 ◆八の四 四節 仏法と「難」 ◆八の五 五節 「第一の善知識」 ◆【注記】 □◆第九段 第十章 塚原での問答(御書全集 p917 L10〜p919 L1) ◆九の一 一節 佐渡での生活 ◆九の二 二節 佐渡の念仏者たちの謀議 ◆九の三 三節 塚原問答の発端 ◆九の四 四節 問答に集った念仏者たち ◆九の五 五節 問答の緒戦 ◆九の六 六節 問答の実態 ◆九の七 七節 祖師の現証を責める ◆九の八 八節 本間氏への謎かけ ◆【注記】 □◆第十段 第十一章 「開目抄」のこころ(御書全集 p919 L2〜p920 L4) ◆十の一 一節 「開目抄」執筆と「御振舞抄」 ◆十の二 七節 二月騒動 ◆十の三 八節 本間重連の帰依と本間氏の主従関係 ◆十の四 九節 日蓮と天照・正八幡 ◆十の五 十二節 「日蓮がひかうればこそ」 ◆十の六 十三節 予言的中と人々の反応 ◆【注記】 □◆第十一段 第十二章 佐渡の人々(御書全集 p920 L5〜p921 L1) ◆十一の一 一節 受難を乗り越えた佐渡の人々 ◆十一の二 四節 北条宣時の偽教書 ◆十一の三 七節 赦免状到着と佐渡からの帰還 ◆十一の四 八節 帰還の道中 ◆【注記】 □◆第十二段 第十三章 「鎌倉へ打ち入りぬ」(御書全集 p921 L2〜p922 L18) ◆十二の一 一節 「平左衛門尉に見参」 ◆十二の二 二節 「還著於本人」 ◆十二の三 三節 「入道殿事にあひ給いぬ」 ◆十二の四 四節 阿弥陀堂法印の祈雨 ◆十二の五 五節 弟子たちの不信と師匠の眼 ◆十二の六 六節 悪風の現証 ◆【注記】 □◆第十三段 第十四章 弟子たちに問う(御書全集 p923 L1〜p925 L1) ◆十三の一 一節 身延に入る ◆十三の二 二節 蒙古の襲来 ◆十三の三 三節 「一定悪比丘のあるなり」 ◆十三の四 四節 日蓮と持経者のちがい ◆十三の五 五節 隠された現証 ◆十三の六 六節 総罰ということ ◆十三の七 七節 誰が法華経の行者なのか ◆十三の八 八節 「法華経の行者をそしりしゆへに」 ◆【注記】 □◆第十四段 第十五章 結びの章(御書全集 p925 L2〜p925 end) ◆十四の一 一節 悲哀と第六天の魔王 ◆十四の二 二節 身延の草庵 ◆【注記】種種御振舞御書(御振舞抄)現代語訳 訳 魯の人□◆第一章 「立正安国論」とこころ(p909 L1〜p910 L2)◆ 一 「立正安国論」と白楽天さる文永五年の閏正月{*01}、西の戎{*02}である大蒙古国から、臣従しなければ武力で日本国を襲うという国書{*03}を送ってきた。これによって、日蓮がさる文応元(1260)年に勘文{*04}として幕府に提出した「立正安国論」の予言{*05}が、今や少しも違うことなく的中した。ゆえにこの「立正安国論」は唐の白楽天{*06}が皇帝を諫めた楽府{*07}よりも勝れ、釈尊の未来記{*08}にも劣らないといえる。末の世において、これを超える不思議があるだろうか。◆ 二 賞罰と十一通御書もし賢王や聖主の御世であるならば、国難を前もって知らせた功績により、日本第一の恩賞{*09}」が行われ、本来死後に贈られる大師号{*10}さえも生前に授与されてもおかしくはない。当然、さらに詳しくとお尋ねがあり、蒙古が攻めて来た時の防戦について相談を受け、蒙古調伏の祈りなども依頼されるはずと思われることなのに、幕府からは何の音沙汰もなかった。そこでその文永五(1268)年の末十月に十一通の手紙{*11}を書いて、幕府や有力寺社に重ねて警告を発した。また、もし国に賢人がいるならば「立正安国論の予言が的中した。まことに不思議なことである。これはただごとではない。天照太神と正八幡宮{*12}がこの僧(日蓮)について日本国が助かるように取り計らわれたのではないか。」と思われたであろう。しかし、そうではなくて、ある者は日蓮の使いの者に悪口をし、ある者はだまし、ある者は日蓮の手紙を受け取りもせず、ある者は返事もしなかった。ある者は口先で返事はしてもお上へ取り次ごうとはしなかった。 ◆ 三 自らの存在意義を見失った鎌倉幕府これは異常なことである。たとえこの十一通の手紙が、日蓮の私(わたくし)ごとであったとしても、国主{*13}に連なって一国の政治を司どる立場にいる人々は、それをお上(執権時宗)に取りついでこそ政治の道に叶う行為であろう。まして他国が襲ってこようとしていることは、幕府にとって存亡に関わる重大事になるのみではなく、それぞれの人々にも直接生き死にかかわる大きな嘆きが起こるべきことである。にもかかわらず、この忠告を用いないのはともかく、悪口を加えるとはあまりに常軌を逸したことであろう。 これはひとえに日本国の上下全ての人々が、一人残らず法華経の強敵となってから長い年月が経過して大きな災禍が積み重なり、大鬼神が各人の身に入ったために判断力を奪われ、その上に蒙古の国書を突きつけられて正念(たましい)を抜かれて狂っているのである。 ◆ 四 迫害と門下の育成前例を引くならば、殷(いん)の紂王(ちゅうおう){*14}は、忠臣此干(ひかん)が死をもって諫めたのに、それを用いないばかりか、彼の死体の胸を割って恥ずかしめた。結果として、周の文王の子・武王に亡ぼされてしまった。呉王(夫差){*15}は伍子胥(ごししょ)の諫めを用いずに、かえって伍子胥を死なせた。そのため呉王夫差は越王勾践(こうせん)の手にかかって亡ぼされてしまった。 鎌倉幕府は、紂王や呉王と同じようになるだろうと、ますます不憫に思われて、日蓮は、名を惜しまず命も捨てて強盛に立正安国の道理を主張し続けた。それに対して、あたかも風が強いほど波も大きいように、竜が大きければ雨が烈しいように、幕府は、ますます日蓮に仇をし、ますます憎んで、幕府の寄合で日蓮の処分を詮議した。首を刎ねよとか、鎌倉から追放せよとか、日蓮の弟子檀那等については、武士で所領のある者は所領を取り上げて首を斬れとか、あるいは牢に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどという声が飛び交ったのである。 ◆ 【注記】{*01}閏正月 旧暦で用いる閏月、この閏月を後の月ともいう。太陰暦の一年は三五四・三六日、太陽暦三六五日との間で十一日の誤差が生じる。その誤差を解消するために、おおよそ三十三か月に一回、閏月を挿入する。また、二十四節気の「中気」を含まない月を閏月とする原則があり、閏月の位置は一定しない。中気とは、雨水、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、処暑、秋分、霜降、小雪、冬至、大寒をいう。{*02}西の戎 中国の中華思想では、周辺諸国を野蛮国とし、それぞれ北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)といった。自国を中心とした世界観はどこの国にもあり、日本でもこの表現を慣用した。蒙古は日本より西方にあるので西戎(せいじゅう)(西のエビス)といった。 {*03}国書 『日蓮自伝考』に全文引用。 {*04}勘文 政府の諮問機関の機能を合わせ持つ陰陽寮や大学寮では、天変地位があると古典籍から過去の事例や文言を多く引いて意見書を提出した。この意見書の様式を勘文という。日蓮は、この勘文の様式に則って「立正安国論」を造り意見書として幕府に提出したのである。多くの経典を列挙してあるのはその様式に則っているからである。 また、正式な勘文の様式を踏まえ、勘文を提出する手順を踏んでいるから、幕府は立正安国論を受理せざるを得なかったのである。 {*05}「立正安国論」の予言 他国侵逼難(他国の侵略)、自界叛逆難(同士討ち)が特に強調された。 {*06}白楽天 日本文学にもっとも影響を与えた唐の詩人、政治を監視する役職である左拾遺という任にあって政治を諌めたが皇帝に疎まれ江州へ左遷される。政治を風刺し人民の窮乏を訴えた彼の詩文は「新楽府」五十編としてまとめられている。 {*07}楽府 音曲をつけて歌われる詩文。白楽天のものは特に新楽府と呼ばれた。 {*08}釈尊の未来記 仏典のうち、未来を予言する経文をいう。中世においては特に大きな意味を持ち、聖徳太子や藤原定家などに仮託された未来記が盛んに取り沙汰されていた。 {*09}恩賞 正確には「勧賞(けんじょう)」御振舞抄では「権状」と表記する。朝廷や幕府から武勲、功績に応じて与えられる褒美、賞与のことであり、それを獲得するために中世の武士たちは命を賭けていた。 {*10}大師号 最も徳が高いとされる高僧に朝廷から与えられる死後の贈名(諡号)のこと。 {*11}十一通の手紙 北条時宗、宿屋入道、平頼綱、北条弥源太、建長寺道隆、極楽寺良観、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺の十一か所に送った諌暁の手紙である。 {*12}天照太神と正八幡宮 中世、鎌倉武士に最も尊ばれていた神である。正八幡と八幡大菩薩は日蓮において微妙な使い分けがなされているので注意が必要である。『日蓮自伝考』で考察している。「正八幡大菩薩」なる合成語は誤訳。 {*13}国主 日蓮は「国王こくおう」と「国主こくしゅ」を使い分けている。「国王」は伝統的な「主権者(王)」であり、「国主」は実権を握り、実際に政治を動かしている者である。当時の「国主」を幕府の最高権力者執権北条時宗と見ていることがわかる。 {*14}殷の紂王 王朝の最後の王で、古来愚王の代表として語られる。 {*15}呉王(夫差) 春秋時代の呉の王。越王勾践とともに臥薪嘗胆、呉越同舟の故事として有名。 □◆第二章 弟子への呼びかけ(p910 L3〜p911 L3)◆ 一 受難の喜びと殉教日蓮は悦んでいう。法華経の道理を説くならば身命に及ぶ受難があることは、はじめから承知{*01}していたことである。古来の聖人もそうであった。雪山童子{*02}は半偈を求めて鬼神に身を投げ与え、常啼菩薩{*03}は法を求めて身を売り、善財童子{*04}は求法のために火の中に飛びこみ、楽法梵志{*05}は仏の教えを書き残すために自分の身の皮を剥いで紙とし、薬王菩薩{*06}はひじを焼いて燈明とした。不軽菩薩{*07}は正法を説いて増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者{*08}は檀弥羅王(だんみらおう)に首を斬られ、提婆菩薩{*09}は法論に勝って外道に殺された。◆ 二 法華経の行者と五義これらの身命を賭した弘経はどのような時に為すべきなのかと経文によって{*10}考えてみれば、天台大師は『法華文句』{*11}に「時に適って行ずるのみ」と述べ、それを受けて章安大師は『涅槃経疏』{*12}に「時によって取捨の判断をなし、固定的に理解すべきでない」と記している。つまり法華経は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時によってその修行の方法はさまざまな差別ができる。釈尊が記していう{*13}には「我が滅後・正法・像法二千年をすぎて末法の始めに、この法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。その時には悪王や悪僧等が大地の微塵よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもって競い起って来るが、けっきょくはこの題目の行者にせめられることになる。そこで、かの僧たちが在家の檀那等に呼びかけて、題目の行者に対して悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れよ、あるいは所領を取り上げよ、あるいは流罪にせよ、あるいは首を斬れなどといって来るが、行者が退転せずに法華経の題目を弘めるならば、これらの仇をなす者は、国主は同士打ち{*14}をはじめ、餓鬼のように互いにその身を食い合うのである。そして遂には他国から攻められる{*15}であろう。これはひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四天王等が、法華経の敵である国を他国から攻めさせるのである」と説かれている。 ◆ 三 信仰者の生き方を問う受難の時各々日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆病になってはならない。大難が起こった時には親のことを心配したり、妻子のことを心配したり、所領を顧みてはならない。なぜならば無量劫の昔から今日まで、親や子のために、所領のために命を捨てたことは大地の微塵の数よりも多い。しかし法華経のためには未だ一度も命を捨てたことはない。過去世にも法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出たときには退転して終ってしまった。それは例えば、せっかく湯を沸かしながら冷たい水にいれてしまったり、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。各々は、今度こそ未練を断ち切って修行をやりとおしなさい。この身を法華経に奉げるのは、石を黄金に変え、糞を米に変えるのと同じである。◆ 四 師弟に共有されるロマン釈尊滅後より二千二百二十余年を経た今日までの間に、迦葉(かしょう)・阿難(あなん)等の四依の尊者{*16}や、馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)等の大乗の論師{*17}、または南岳・天台等の中国の人師{*18}、妙楽・伝教等の法華経の宣揚者{*19}でさえも、未だに弘通していない法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まって行くべき瑞相を受けて、今、日蓮がその先駆をきったのである。日蓮が一党の者たちよ{*20}、二陣三陣と続いて大法を弘通して、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教をも越えて行きなさい。わずかの小島の主にすぎない日本の国主たちが威嚇するのに怯えてしまうようでは、退転して地獄に堕ちた時に閻魔王の責めをいかにしのぐのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは最低に情けない人々である」とよく弟子たちに申しふくめた。◆ 【注記】{*01}はじめから承知 「開目抄」 p200 に詳述される。「これを一言も申し出すならば(中略)今度強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ。」立教開示に先立ち、この根本逡巡を突き抜けて法門を説きはじめたのである。{*02}雪山童子 出典、涅槃経巻14(T12-p449) {*03}常啼菩薩 出典、大智度論巻96(T25-p732),般若経巻398(T6-p1059) {*04}善財童子 出典、華厳経巻45(T9-p688) {*05}楽法梵志 出典、大智度論巻16(T25-p178)、同巻49(T25-p412) {*06}薬王菩薩 出典、法華経薬王品第23(法華経 p581) {*07}不軽菩薩 出典、法華経不軽品20 (法華経 p554) {*08}師子尊者 出典、付法蔵因縁伝巻6(T50-p321) {*09}提婆菩薩 出典、提婆菩薩伝(T50-p186) {*10}経文によって 「勘える」という字は、「勘文」の「勘」であるから、ここでは経文によって考えるとするのが適当であろう。 {*11}『法華文句』 「適時而已」(T34-p0118c) {*12}『涅槃経疏』 「取捨得宜不可一向」(T38-p0084c) {*13}釈尊が記していう ここは引用文ではなく、法華経や「立正安国論」に引用された大集経などの意を取ったものである。 {*14}同士打ち 自界叛逆難 {*15}他国から攻められる 他国侵逼難 {*16}迦葉・阿難等の四依の尊者 釈尊滅後人々の拠り所となった {*17}馬鳴・竜樹等の大乗の論師 大乗仏教の理論を大成した {*18}南岳・天台等の中国の人師 理論的に法華最勝を確立した {*19}妙楽・伝教等の法華経の宣揚者 天台滅後に法華最勝を宣揚した {*20}日蓮が一党の者たちよ 「わとうども」「和党ども」とも表記されることがあるが一門の人々に親しみをこめて呼びかける言葉である。「我が党」とするのは誤訳。 □◆第三章 「侍所」でのたたかい(p911 L3〜p911 L14)◆ 一 日蓮とテロルそういうわけで、念仏者・律僧{*01}・真言師たちは、自分の智慧ではどうすることも出来ず、問注所へ訴え{*02}出ても思わしくないので、卑劣なことに幕府高官の夫人や尼になった未亡人たちに取り入っていろいろ策謀をめぐらし讒言した。「日蓮は故最明寺入道殿(時頼)と故極楽寺入道殿(重時)を無間地獄に堕ちたといい、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏殿等{*03}を焼き払えといい、道隆上人・良観上人等{*04}の首を斬れといっている。それでは、問注所の調べで問題がなくとも、日蓮の罪は免れ難いではないか。」と。そこでお上(時宗){*05}が「ただ日蓮がそのようなことを本当に言ったのかどうか、直接尋問せよ」ということで(九月十日に){*06}侍所{*07}へ召喚された。物々しいなかで取調べの役人{*08}が「お上(時宗)の命令はそういうことだ」というから、日蓮はあえて弁明せず「たしかに逐一そのように言った。但し、故最明寺殿、故極楽寺殿が地獄へ堕ちた云云の話は正確ではない。日蓮が説く法門は最明寺殿、極楽寺殿が御存生の時から申し上げ、お耳にも入れていたことである。」 ◆ 二 自界叛逆の道理「結局のところ、日蓮が申した事がらは、この国日本の前途を思ってのことであるから、世を安穏にたもとうと思われるならば、彼の諸宗の法師たちをも召喚して日蓮と対決させ、公平にどちらが道理であるか、問い糺すべきであろう。そうしないで道隆や良観たちのいうままに理不尽に日蓮を罪におとすならば、必ずこの国に後悔することが起こるであろう。」「なぜかというと、日蓮が幕府の処罰を受けるならば、幕府は仏の御使いを用いないことになる。そうなれば、梵天・帝釈・日天・月天・四天王のお咎めがあろう。具体的には日蓮を遠流や死罪にしたのち、百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条氏一門の間で同士討ちが始まるであろう。その後には他国侵逼難といって四方から殊に西方から攻められるであろう。その時、日蓮を罪におとしたことを後悔することになろう。」と侍所の所司{*09}である平左衛門尉(頼綱)に対して強く言い切った。ところが平左衛門尉は、かつて太政入道(平清盛){*10}が狂った時のように、少しもまわりをはばかることなく怒り狂ったことであった。 ◆ 【注記】{*01}律僧 原語「持斎」は斎戒(戒律)を持った法師を意味し、当時、戒律復興運動の流れの中で、宗派、寺院にとらわれず、戒律を掲げる僧侶がいた。日蓮においても禅宗の僧侶を指して持斎と呼んでいる場合もある。しかし、「種種御振舞御書」など、ほとんどの御書では叡尊や良観等の西大寺派の真言律宗の僧侶を指している。当時厳密な意味で律宗という宗派はなかったが、日蓮が「律国賊」としたのは特に叡尊や良観等の西大寺派の僧侶だったので、ここでは分かり易く「律僧」と訳す。{*02}問注所へ訴え 文永八(1271)年七月、良観たちは行敏を使って問注所に訴状を提出するが、日蓮の反論「行敏訴状御会通」(御書 p180)にあい、それに再反論することができず、訴訟は沙汰止みになった。 {*03}建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏殿等 これらの寺社は北条得宗家や幕府有力者の帰依が篤く、当時特に勢力があった。なお大仏殿は原文では「大仏寺」となっている。 {*04}道隆上人・良観上人等 北条時頼、北条重時など当時幕府有力者が最も帰依していた僧侶である。 {*05}お上(時宗) 幕府の役所(侍所)にいて、「上」の言葉が意味するものは、時の執権北条時宗以外にありえないと思われる。(既出する「上件」という言葉と混乱している学者もいるが、「上件」とは先に述べたことという意味であり、ここでいう「上のをおせ」とは「お上の命令」という意味である。) {*06}(九月十日に) 文永八(1271)年九月十二日の「一昨日御書」(御書 p183)から逆算すれば、この日が九月十日であることが知れる。 {*07}侍所 通説では、ここを問注所としているが、問注所の一件は既に沙汰止みになっており、そのために超法規的に侍所が出てきたのである。故にここは法廷ではなく、強権的な尋問の場である。日蓮が自らの弁明を放棄せざるを得なかった理由がそこにある。 {*08}取調べの役人 原語「奉行人」を通説では裁判所「問注所」の役人と解釈しているが誤訳である。当時の「奉行人」は、一般名詞の奉行する人、役人といった意味である。『吾妻鏡』では、勲功の奉行人、保の検断奉行人、雑務の奉行人、問注奉行人、地奉行人がみえ、『鎌倉年代記』には、裁判奉行人、関東奉行人、得宗家奉行人、侍所奉行人、六波羅奉行人、得宗公文所奉行人がみえる。注意すべきは侍所にも奉行人がいたのであり、問注所の判事と考えるのは間違いである。 {*09}侍所の所司 侍所の所司とは副官であるが、長官は執権時宗であるから、実質的に侍所を統括していたのは平左衛門尉頼綱である。この頼綱が中心になって尋問しているのであるから、この場が問注所ではありえず、侍所であることが分かる。 {*10}太政入道(平清盛) ここで源平合戦の平清盛の狂乱の話が引き合いに出されていることから、平家の物語が、当時広く語られていたことがわかる。 □◆第四章 草庵を襲うあらし(p911 L15〜p912 L15)◆ 一 文永八年九月十二日さる文永八(1271)年 九月十二日、幕府の処分を受けた。その時の日蓮逮捕の様子も尋常ではなく、法を無視したものといえる。それは了行{*01}が謀反を起したとされ、大夫の律師良賢{*02}が倒幕を企てたとされ、逮捕された時にも超えたものと言えよう。そのありさまは平左衛門尉が大将{*03}となって、数百人の兵士に胴丸{*04}を着せて、自分は立烏帽子をかぶって{*05}眼を怒らせて声を荒げていた。大要この出来事の意味を考えてみると、太政入道平清盛が天下を執りながら専横を重ねて国を亡ぼしたのに似ていよう。ただごととも見えない異様な光景であった。 日蓮はこれを見て思った。「常日ごろ、念願していたことはこれである。なんと幸せなことだろう。法華経のためにこの身を捨てる事ができるのだ。臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し石で宝珠を買い求めるようなものではないか。」と。 ◆ 二 法華経第五の巻と少輔房さて、平左衛門尉の第一の家来のごとき少輔房{*06}という者が駆け寄って、日蓮が懐に入れていた法華経の第五の巻{*07}を取り出し、それで日蓮の顔を三度なぐりつけて、さんざんになげ散らした。また残り九巻の法華経を兵士たちがなげ散らし、あるいは足で踏みつけ、あるいは巻物を身にまとうように引き散らし、あるいは板敷の間や畳の間など、家の二三間に散らさない所がないありさまであった。◆ 三 平頼綱に言い聞かせたことこの時日蓮は大音声で言った。「なんと面白い見ものであることよ。平左衛門尉が物の怪に憑かれたように狂って{*08}いるありさまを見よ。殿方は、ただ今日本の柱を倒しているのであるぞ。」と呼ばわれば、その場の大将から兵卒まで皆、正気に返ってあわててしまったのは滑稽であった。日蓮の方こそ処分を受けたのであるからおじけづいて見えるはずなのに、そうではなくて逆になったので、「この逮捕は何かの間違いだったのか」と思ったのであろう。兵士たちの顔色が変わったのがよく見えた。十日に侍所に召喚された時と十二日の逮捕の夜、日蓮は、真言宗の過失{*09}や禅宗・念仏宗の間違い、良観が雨乞いを祈って降らすことができなかったことなどを具体的に平左衛門尉たちに言い聞かせていた時に、あざけってどっと笑い、あるいは怒り狂ったことなどは煩わしいので書かないでおく。 ◆ 四 良観の祈雨失敗この時に話したことを要約して述べよう。六月十八日から七月四日まで、良観が雨乞いの祈祷をしながら、日蓮に阻止されて降らせることができず、汗を流し涙だけを降らして雨が降らなかった上に逆風が吹き続けたこと、この良観の祈祷の間、日蓮は三度まで使者をつかわして、「一丈の堀を越えられない者がどうして十丈二十丈の堀を越えられようか。和泉式部{*10}が恋多き身で、しかも良観が在家に勧めている八斎戒{*11}で制止している和歌を詠んで雨を降らせた故事もある。能因法師{*12}が破戒の身でありながら、歌を詠んで雨を降らせた話もあるのに、どうして良観たち二百五十戒を持った人々が百人・千人と集って、七日も二七日(十四日)も祈祷を続けたのに、雨が降らない上に大風まで吹くのか。このことからわきまえなさい。祈祷に参加した良観たちの往生は叶う道理がないぞ」と責められたので良観が泣いたこと、良観がこれを逆うらみして高官やその女房たちに取り入って誹謗中傷したことなどを、一つ一つ取上げて申し聞かせたところ、平左衛門尉たちが良観の味方をしながら、弁護しきれなくなってついに沈黙してしまったことなどは煩瑣になるのでここには書かずにおく。◆ 【注記】{*01}了行 北条氏に排除された将軍頼経の側近、『日蓮自伝考』で考察している。{*02}大夫の律師良賢 北条氏に滅ぼされた三浦氏の子、『日蓮自伝考』で考察している。 {*03}平左衛門尉が大将 侍所所司たる平頼綱が直接出向いて指揮を執っているのであるから、この時の動員は中途半端なものではなかったろう。日蓮が記す「数百人」という数字は決して大げさとは思えない。『日蓮自伝考』で考察している。 {*04}胴丸 歩兵用の軽量の鎧。防御力は比較的弱いが機動力を重視して、この頃、多く使われるようになった。 {*05}自分は立烏帽子をかぶって ここで「ゑぼうしかけして」として表現されているのは誰であろうか。胴丸を着た「兵者」か、それとも平左衛門尉であろうか。当時の武士たちは元服すれば皆烏帽子(折り烏帽子)を付けていた。ことさらに「ゑぼうしかけして」と表現されるのは、その烏帽子がその場の大将を意味する正装用の烏帽子(恐らくは立烏帽子)で目立ったからであろう。ゆえにこれは大将としての平左衛門尉のことと分かる。そして後に続く「眼をいからし声をあらうす」もまた平左衛門尉のことなのである。 {*06}少輔房 「第一の郎従」という表記は明らかに揶揄であり、元日蓮の弟子で反逆した者であろう。『日蓮自伝考』で考察している。 {*07}法華経第五の巻 この中に三類の強敵が説かれた勧持品13が含まれる。 {*08}物の怪に憑かれたように狂って 「ものにくるう」の「もの」とは「物の怪」のことであろう。仏法の立場からは「悪鬼入其身」の姿といえる。 {*09}過失 原語「失(とが)」は頻出す言葉であるが、一般的には「過失」と訳し、法律に関することは「罪」と訳した。 {*10}和泉式部 『日蓮自伝考』で考察している。 {*11}八斎戒 在家に日時を決めて一日だけ守るように勧めた八項目の戒律。 {*12}能因法師 『日蓮自伝考』で考察している。 □◆第五章 八幡への諫暁(p912 L16〜p913 L10)◆ 一 市中引き回し{*01}そういうことがあって十二日の夜は武蔵守(北条宣時){*02}の預りとなったが、夜も更けてから、日蓮の頸を斬るために鎌倉の宣時邸を出発した。若宮小路に出た時(下馬札にさしかかった時){*03}、四方を武士が取り囲んで緊張している中で日蓮は「みんな騒ぎ給うな、ほかのことはない、八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬から降りて大音声で次のようにいった。◆ 二 八幡諌暁の意味するもの「問おう八幡大菩薩はまことの神なのか。かつて和気清麻呂{*04}が首を斬られようとしたときは身のたけ一丈の月と顕れて守護し、伝教大師{*05}が宇佐八幡で法華経を講じられたときは紫の袈裟をお布施として授けられた。今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。日蓮が説いているのは日本国の一切の衆生が法華経を誹謗して無間地獄に堕ちようとしているのを助けるために申している法門である。また大蒙古国からこの国を攻められるならば、天照大神・正八幡{*06}といえども、どうして安穏でおられようか。 ◆ 三 諸天善神の誓状その上、釈尊が法華経を説かれたときには、多宝仏・十方の諸仏・諸菩薩が集って、日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになった。また無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集った。その時に釈尊から『ここに集った各々は、法華経の行者に対して粗略な守護はしない旨の誓状を立てよ』と迫られたので、一人一人誓状を立てたではないか。そうであるからには日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願を果たすべきであるのに、どうしてこの日蓮の大難の場所には来合わせないのか」と朗々と申しわたした。◆ 四 天照太神・正八幡そして最後には「日蓮が今夜首を斬られて霊山浄土へ参った時には、まず、天照大神・正八幡こそ起請を破った神であると名指しで教主釈尊に申し上げよう。それでは自らの立つ瀬が無いと思うならば、大急ぎでお計らいあるべきだ」と叱りつけてまた馬に乗った。◆ 【注記】{*01}市中引き回し 種種御振舞御書には「市中引き回し」のことは、直接述べられていない。このことについては、『日蓮自伝考』で考察している。{*02}武蔵守(北条宣時) 北条時房の孫、朝直の子。大仏(おさらぎ)家を称す。佐渡の守護職。竜口での処刑や佐渡配流における日蓮の身柄を預かっているのはこの人である。この人のことは『日蓮自伝考』で考察している。 {*03}若宮小路に出た時(下馬札にさしかかった時) おそらくここは中の下馬と称される場所であろう。日蓮はこの下馬の機会をうまく捉えて八幡の諌暁に及んだと思われる。 {*04}和気清麻呂 天平五年(733)〜延暦十八年(799)道鏡が皇位を望み宇佐八幡の託宣を受けたとの主張を阻止したことから道鏡の恨みを買い大隅に流され、抹殺されようとしたが、道鏡失脚により復活し天皇側近となった。 {*05}伝教大師 延暦二十三年(805)、最澄が入唐祈願のために九州の宇佐八幡で「法華経」を講じた際に、八幡より紫の袈裟を賜ったという。 諌暁八幡抄(御書 p579)に詳述される。 {*06}天照大神・正八幡 日本国の総鎮守として古代・中世に重んじられる。日蓮が天照大神・正八幡を語る意味については『日蓮自伝考』で考察している。 □◆第六章 竜口であったこと(p913 L11〜p914 L15)◆ 一 四条金吾と熊王について由比が浜に出て御霊社{*01}の前にさしかかったとき、また言った。「しばらく待たれよ殿方、ここに知らせるべき人が居る」と。そして中務三郎左衛門尉(四条金吾)という者のところへ熊王という大童子{*02}を使いにやった。そこで四条金吾が急いでやって来た。◆ 二 法華経身読の歓喜「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界においてキジとなったときはタカにつかまれ、ネズミとなったときにはネコに食われた。あるいは妻子を守るために命を失ったことは大地微塵の数よりも多い。だが法華経のためにはただの一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい庶民の子と生まれて、父母への孝養さえ思うように出来ないでいる。まして国の恩(社会の恩)を報ずべき力もない。今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那に分けようと申してきたことはこれである。」といったところ、四条金吾の兄弟四人が馬の口に取り付いて御供をし腰越竜の口{*03}へ行った。 ◆ 三 頸の座と光り物竜口に着いた。ここだなと思っていたら、思ったとおり急に兵士たちが騒がしくなって頸の座に引き据えられてしまった。四条金吾は「今が最期です」と涙を浮かべて追腹を切る準備をはじめた。日蓮は笑いながら「不覚な殿さんだなあ。こんな嬉しいことは無いんだから笑いなさいよ。以前から約束していたことでしょう」と言った時、江の島の方角より月のように光る物が、まりのように東南の方角より西北の方へ光り渡った。十二日の深夜、未明のこととて人の顔も見えなかったのに、光り物のせいで月夜のように人々の顔もよく見えた。太刀取りは目が眩んでその場に倒れ臥し、他の兵士たちは、驚き恐れて遠くまで逃げ去り、馬に乗っていた者は、馬から下りて跪いた者や、馬に乗ったままうずくまっていた者もいた。 日蓮は「どうしたのか殿方よ。このような重罪人から、離れてはいけないではないか。もっと近くへ寄って来なさい。寄って来なさい。」と大きな声で呼びかけたが、誰も駆け寄ってくる者はいない。「このまま夜が明けてしまうと困るでしょう。さあ、さあ、首を切るのなら早く切ってしまいなさい。夜が明けての処刑は見苦しいではないか。」と勧めたが誰も返事をする者がいなかった。 ◆ 四 依智の本間邸と酒かなり時間が経ってから{*04}役人が「相模の依智という所へお入り下さい」という。ところが誰も依智への道を知る者がいない。「誰か案内せよ」と言っても案内する者もないので、しばらく休んでいると、ようやくある兵士やって来て「こちらがその依智への道です」といったので道にまかせて進んだ。正午ごろに依智というところへ到着して本間六郎左衛門の屋敷へ入った。本間家では酒を取り寄せて{*05}、護送の兵士たちに飲ませていた。やがて護送の兵士たちが帰ることになり、日蓮のもとに来て頭を下げ合掌して次のように言った。「日蓮の御房は、どのようなお方なのでしょうか。我らが信仰してきた阿弥陀仏を誹っていると聞いていましたので憎み申し上げておりましたが、直接に拝顔して昨夜来のお振舞いを拝見しました所、あまりにも尊いので、長年唱えてきた念仏は捨てることにしました。」といって火打ち袋から念仏の数珠を取り出して捨てる者があり、「今後は念仏を申しません」と誓いを立てる者もあった。ここで六郎左衛門尉の家来たちが日蓮の身柄{*06}を受け取った。一段落したので四条金吾も帰っていった。 ◆ 【注記】{*01}御霊社 鎌倉権五郎を祭った神社{*02}熊王という大童子 従来説のように熊王を子供と見るのは間違いである。『日蓮自伝考』で考察している。 {*03}腰越竜の口 当時腰越と竜口は同一場所の地名であった。 {*04}かなり時間が経ってから 「はるか計りありて」を読み過ごしてはならない。処刑を中止してから、兵士たちは次の判断が下せず、鎌倉の執権のもとに判断を仰ぎに走ったとみなしうる。それで相当の時間を費やしたのである。 {*05}酒を取り寄せて 従来説のように日蓮が酒を飲ませたとするのは解釈に無理がある。全体のながれから、酒を飲ませたのは本間氏だと知れる。 {*06}日蓮の身柄 「番をばうけとりぬ」とは日蓮の身柄を引き受けることである。日蓮の身柄は、平頼綱から北条宣時、本間重連の代官右馬太郎へと手渡されていく。 □◆第七章 依智の星下り(p914 L16〜p916 L3)◆ 一 鎌倉よりの立文と北条宣時その日の午後八時ごろに鎌倉から、上(執権時宗)の使者ということで立て文(命令書)を持ってきた。首を斬れという再度のお使いかと兵士たちが思っていたが、本間重連の代官で右馬允{*01}という者が立て文を持って走ってきてひざまずいて言った。「斬首は今夜であろう。なんとも情けないと思っておりましたのに。このようなお悦びの手紙が参りました。手紙の宛先の武蔵守(宣時)殿は今日午前六時ごろに熱海の湯{*02}へ出かけてしまいましたので、こちらで早合点して殺めてしまうようなことがあっては大変だと思い、まずこちらへ急行して来たとのことです。」鎌倉からの使者は「わずか四時間で馬を跳ばして来ました。そして今夜のうち熱海の湯に急行します。」といって日蓮の前に顔を出して退出した。{*03}追状(立て文)には「この人は罪のない人である。今しばらくすれば赦されるであろう。早合点して間違い(斬首)を起しては後悔することになる。」と認めてあった。 ◆ 二 依智の星下りその夜は十三日であった。兵士たち数十人が、日蓮に与えられた住坊{*04}のあたりと大庭にならんで見張っていた。九月十三日の夜であるから月が大きく輝いていたので、夜中に大庭に出て月に向かって、法華経の自我偈を数遍読誦してから、諸宗の勝劣をただし、法華経の要文を挙げて「そもそも今の月天は法華経の会座に列席している名月天子ではないか。宝塔品で仏勅を受けられ、嘱累品で仏に頂を撫でられて『世尊の勅のとおり法華経の行者を守護する』と誓状を立てた天子ではないか。仏前の誓いは日蓮がいなかかったならば実行する機会もなく虚しいものになってしまうところであった。今やっと日蓮が現れて経文どおりに難を受けるという事態になったのであるから、急ぎ、悦んで難を受けている法華経の行者にも代わり、仏勅を果たして仏前で誓った宿願をやり遂げるべきではないか。どうしたのか、今仏前の誓いを果たした験(しるし)がないのは不思議なことである。法華経の行者である日蓮を罪に陥れたこの国に何の験しるしも現れないならば、日蓮が赦免されてももはや鎌倉へも帰ろうとは思わない。たとえ験(しるし)を現さないにしても嬉し顔で澄み渡っているのはどうしたわけであるか。大集経には『日月は明るさを失う』と説かれ、最勝王経には『三十三天がおのおの瞋(いかり)を生ずる』と記されているではないか。「どうしたのだ月天、どうしたのだ月天。」と責めたところが、その験であろうか、天から明星のような大星が下ってきて前の梅の枝にかかったので、兵士たちが驚いて皆縁側から飛び降り、あるいは大庭に平伏し、あるいは家の後ろへ逃げてしまった。やがて天がたちまち曇って大風が吹いてきた。また江の島が鳴るのだというが、空が鳴りひびくありさまは大きな鼓を打つようであった。 ◆ 三 時宗邸での騒ぎ夜が明けると十四日である。朝六時ごろに十郎入道{*05}という者が来て言った。「昨夜の八時ごろに相模守殿(時宗)の館で大きな騒ぎ{*06}があった。というのは今度の日蓮の処刑の件で陰陽師{*07}を呼んで占わせたところが、『大いに国が乱れることになります。それは日蓮の御房を処分したからである。いそいで釈放しなければ世のなかがどうなるか判りません』と答申したので、『すぐ釈放されますように』という人もあり、また『いや、日蓮が百日の内に戦さが起こると申しているから、本当かどうか、それを待つべきだ』という者もあって大激論となったからです。」と。◆ 四 「土牢」の人々依智に滞在すること二十日余。その間、鎌倉では、放火が七、八件あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者たちが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」と言いふらしたので、侍所{*08}ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子たちを鎌倉に置いてはならぬとの名目を立て二百六十余人の名が記された。さらに「その弟子たちは皆遠島へ流すべきだ。すでに投獄された弟子たちは首を斬られるべきである。」との流言が聞こえてきた。ところが放火などの真相は律僧や念仏者の謀略であった。その理由等は煩雑になるので書かないでおく。◆ 【注記】{*01}右馬允 右馬寮の四等官の内、第三位の官。本間重連の家人で、当主が佐渡の領地にいる間、依智の屋敷の代官を務めていた。{*02}熱海の湯 伊豆半島の付け根にある温泉地。日蓮を闇に葬ることを計った責任者である北条宣時は、処刑失敗を知ると責任を逃れるために湯治と称して遁走したのである。 {*03}日蓮の前に顔を出して退出した 立文は宣時宛てのものであり、使者がその立文を日蓮に見せるということは異例なことであり、使者の同席なくしてありえないことである。使者は日蓮に立文を見せおわると、すぐさまそれを持って本来の宛先である熱海の宣時のもとに走り去ったのである。 {*04}住坊 在家の屋敷に坊があるのは不審であるが、日蓮が抑留された家屋に日蓮は一ヶ月近く逗留しており、僧侶である日蓮がそこを坊と称するのは自然なことである。 {*05}十郎入道 佐渡御書に見える大蔵塔の辻十郎入道と同一人物と思われる。『日蓮自伝考』で考察している。 {*06}大きな騒ぎ 『日蓮自伝考』で考察している。日蓮の釈放をめぐっての幕府内での激論のことである。 {*07}陰陽師 吉凶、天変地異について諮問するために幕府に使えていた陰陽道の専門家。 {*08}侍所 鎌倉にあって放火や殺人などを取り締まる役所は侍所であり、平左衛門尉頼綱の管轄であったことがわかる。 □◆第八章 佐渡塚原に立つ(p916 L4〜p917 L9)◆ 一 塚原の堂と阿仏房同十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に六郎左衛門(本間重連)の屋敷の後方にある塚原{*01}という高台になった野原に着いた。そこは京の蓮台野のように死人を捨てる場所{*02}であって、そこにある一間四面の堂{*03}が日蓮が住む場所と定められた。その堂は仏像もない荒れた建物であった。屋根は板間が合わず、四方の壁は破れている。そこから部屋の中まで雪が降り積もって消えることがないありさまであった。こういう所に敷皮をしいて、部屋の中でも蓑を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・霰(あられ)・雷電(いなずま)が絶え間なく、昼は日の光もさしこまず、心細い住居であった。彼の李陵{*04}が胡国に入って巌窟(がんくつ)に閉じ込められたのも、法道三蔵{*05}が徽宗皇帝の弾圧を受けて顔にかなやき(焼印)を押されて、江南に流されたのも只今日蓮の身の上のことと思われた。◆ 二 日蓮と不軽菩薩ああ嬉しいことである。須頭檀王{*06}は阿私仙人に使われて法華経の功徳を得、不軽菩薩は増上慢の比丘たちに杖で打たれて一乗の行者といわれた。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遭った。釈尊滅後二千二百余年の間、恐れ多いことではあるが天台智者大師も「一切世間多怨難信」{*07}の経文を身読されることはなかったし「数数見擯出」{*08}の明文を身読したのはただ日蓮一人のみである。「一句一偈、我皆与授記」{*09}に当たるのは日蓮である。無上の菩提を得ることは疑いない。相模守殿(時宗)こそ善知識である。平左衛門尉(頼綱)こそ釈尊における提婆達多である。念仏者は瞿伽利尊者{*10}。律僧たちは善星比丘{*11}である。釈尊の在世は今にあり、今は釈尊の在世である。法華経の肝心は「諸法実相」と説かれ「本末究竟等」と述べられているのはこのことである。◆ 三 三障四魔のとらえ方『摩訶止観』の第五に「行と信解が偏り無く実践できたら三障四魔が紛らわしい形で次々と起こってくる」と述べられている。また「三障四魔の働きは、猪が金山を擦って光らせ、沢山の河川が海に入り、薪をくべれば火を盛んにし、風が吹けば求羅{*12}が大きくなるようなものである」等と説いている。この釈の意味は、法華経を教えのとおりに機に適い、時に適って信解し修行すれば七つ(三障と四魔)の大事が出てくる。その中に天子魔といって、第六天の魔王が国主や父母、あるいは妻子や檀那、あるいは悪人等にとりついて妨害したり、あるいは行者の好むところをついて法華経の修行を邪魔し、あるいは行者の嫌がることをして邪魔するのである。◆ 四 仏法と「難」たとえどの経を行ずるにせよ、仏法を修行するかぎりは、それぞれの経典の分に従って難や障害があるものである。その中でも法華経を行ずるならば、強く激しい障害が起こる。法華経を教えのとおりに時と機に適合して行ずるならば、特に強く難があるのは当然である。故に、『摩訶止観』の注釈である『弘決』{*13}の八には「もし衆生が迷いから離れず、仏の教えを求めていないと知れば魔はこの人に対して親のような思いを抱く」等と説かれている。釈の意味は、人が善いことをしても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなれば、魔王が親のつもりになって社会の中でその人を優遇し供養する、それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊敬する僧をあらゆる人が供養するようなものである。だから、謗法の国主たちに敵(かたき)とされるのは、こちらが正法を行じている証拠である。 ◆ 五 「第一の善知識」釈尊のためには提婆達多こそが第一の善知識であった。今の世間を見ると、人を良くするものは味方よりも強敵が人を大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉の北条一門の繁栄は、和田義盛{*14}と隠岐の法皇(後鳥羽上皇){*15}によるのであり、この二人がいなかったならば、どうして北条氏が日本の国主となれたであろうか。故にこの二人は北条一門のためには第一の味方なのである。同じように日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信{*16}であり、法師では良観{*17}・道隆{*18}・道阿弥陀仏(道教){*19}であり、さらには平左衛門尉(頼綱)・相模守(時宗)である。これらの人がいなければ、どうして日蓮が法華経の行者になれたであろうかと悦んでいる。◆ 【注記】{*01}塚原 一般に古い墓地の集った野原と解すむきもあるが、現地に行けば分かるように、ここは大きな古墳のように全体が高台になった岡である。故に日蓮は「山野」とも表現している。{*02}死人を捨てる場所 現代でも「野辺送り」の言葉が残っているように、古代、中世では一般庶民には「野捨て」の風習があった。 {*03}一間四面の堂 一間四方の建物ではなく、一間四方の身舎(もや)の四面に庇が張り出した複合的な建物である。なお、塚原の堂を一般に「塚原三昧堂」と呼ぶのは後世の呼称である。 {*04}李陵 前漢の武将。石虎将軍李広の孫。武帝の時、匈奴と戦って捕われ、その地にあること二十余年で没。帰陣しないことを裏切りとみた武帝によって彼の家族は殺されるが、その李陵を友人の司馬遷が弁護して宮刑に処せられる。それが機縁となり、膨大な歴史書である『史記』が書かれた。 {*05}法道三蔵 中国宋代の僧。永道と称す。宋の徽宗が老荘の学を崇拝し、「仏」の称を改めて道教風の名称に変更する等の勅を下した。永道はこれに反対し上書したが、逆に帝の怒りをかって道州(湖南省道県)に流された。この経緯は『仏祖統紀』(T49-p471)に書かれているが、その際に顔に焼印を押されたという話は出ておらず、どこから来たのかは未詳。やがて赦されて、都に帰り「法道」の名を下賜された。 {*06}須頭檀王 すずだんのう。提婆達多品12に説かれる。須頭檀王は正法を求めて国王の位を捨て、千年のあいだ阿私仙人に仕えて成仏したが、その時の阿私仙人が提婆達多とする。 {*07}「一切世間多怨難信」 安楽行品14「一切世間に怨多くして信じ難く」(法華経 p443) {*08}「数数見擯出」 勧持品13「数数擯出せられ」(法華経 p420) {*09}「一句一偈、我皆与授記」 法師品10「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せば、我れは皆な与めに当に阿耨多羅三藐三菩提を得べしと授記す」(法華経 p354) {*10}瞿伽利尊者 くぎゃりそんじゃ。提婆達多を師匠として舎利弗・目連を誹謗して生きながら地獄に堕ちたとされる。 {*11}善星比丘 ぜんしょうびく。一説には釈尊の出家前の子として生まれ、釈尊に帰依して出家したが、悪友によって悪見を起こし地獄に堕ちたとされる。 {*12}求羅 からぐらのこと。ブログ『魯の人の云く』「風益求羅」参照。 {*13}『弘決』 妙楽がまとめた『摩訶止観』の注釈書。『摩訶止観輔行伝弘決』 若知衆生不出生死不慕仏乗。魔於是人猶生親想。(T46-p406a) {*14}和田義盛 鎌倉幕府草創の重鎮。初代の侍所別当。源頼朝没後、北条氏と対立、1213年挙兵したが敗死。これによって北条氏は覇権を確立した。 {*15}隠岐の法皇(後鳥羽上皇) 第八十二代の天皇。1221年、承久の乱を起して北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に流された。これによって鎌倉幕府は力を全国に及ぼし、北条政権は安定した。 {*16}東条景信 安房東条郷の地頭。東条松原の法難で日蓮を傷つけた。これによって日蓮は、郷里および清澄寺のしがらみを断ち切り自由な立場になった。 {*17}良観 幕府と経済的に密接な関係にあった極楽寺の寺主長老。日蓮は、その真言理論を打ち破ることによって三大秘法の教義を確立した。 {*18}道隆 北条時頼の尊崇を受けた建長寺長老。良観と共に日蓮弾圧の黒幕となった。彼らの讒言によって、日蓮は法華経身読が可能となり発迹顕本を成就した。 {*19}道阿弥陀仏(道教) 鎌倉における念仏の領袖。念阿良忠とともに日蓮の論敵となった。日蓮は「立正安国論」でもって、これを打ち破ることによって、法華経を宣揚し、日蓮仏法を根付かせた。 □◆第十章(第九段) 塚原での問答(p917 L10〜p919 L1)◆ 一 佐渡での生活このような状況で過ごしていたが、庭には雪が積って人も通わなくなり、堂には荒い風のほかは訪れる者がなかった。日常は、眼には摩訶止観・法華経をさらし、口には南無妙法蓮華経の題目を唱へ、夜は月星に向い、弟子たちに{*01}、諸宗の教義の間違いを指摘し、法華経の深義を講義している間に年を越した。◆ 二 佐渡の念仏者たちの謀議どこでも人の心の愚かしさは同じようなもので、佐渡の国の律僧や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房たち数百人が寄り合って謀議していたと聞いている。「有名な阿弥陀仏の大怨敵で、一切衆生の悪知識たる日蓮房が、この佐渡の国に流されてきた。何の落ち度がなくても佐渡の国に流された者が生涯を全うしたことはない。たとえ生き延びたとしても元の国に帰れたことはない」また「流人を打ち殺したところで罪にはならない。塚原という所にただ一人でいるという。いかに剛健であろうと、屈強な者であろうと、人目のない所であるから皆で寄ってたかって射殺してしまおう」という者もいた。また「日蓮がどんなにおとなしくしていても必ず首を切るベき重罪人であるが、相模守殿の奥方が御懐妊なのでしばらくお情けで生きている。どのみち切られてしまうと聞いている、だからさっさと殺してしまえばいい」と。また言うには「六郎左衛門尉殿(本間重連)に掛け合ってもし切らないならば、我々で切ってしまおう」と。◆ 三 塚原問答の発端多くの意見が出た中で、最後の意見に落ち着いて本間氏の守護所に数百人が押しかけた。六郎左衛門尉(重連)は彼らに言った。「お上より殺してはならないという副状{*02}が下っていて、軽んずべき流人ではない。過失があって死なせてしまうならば重連が大きな罪を受けることになる。それよりは、ただ法門をもって責めればよかろうと言ったので法論問答が行われることになった。そこで念仏者たちは、ある者は浄土の三部経、ある者は摩訶止観、ある者は真言の経典等を、召し使っている小法師の首に掛けさせ、あるいは脇にはさませたりして、正月の十六日に集った。◆ 四 問答に集った念仏者たち佐渡の在地の者だけではなく、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より佐渡に来ていた僧侶たち{*03}もやって来て、塚原の堂の大庭や、まわりの山野を数百人が取り巻いていた。そこに審判役たる六郎左衛門尉兄弟一家、さらには法論に関係のない{*04}百姓の入道たちまで、数え切れないほどの人が集った。念仏者は口口に悪口を言いつのり、真言師は顔色を変えて怒りを表し、天台宗は自分が勝つと叫んでいた。在家の者たちは「これが有名な阿弥陀仏の敵(かたき)だ」と罵り騒わぎ、その響きは大地が震動し、雷が鳴り響くようであった。◆ 五 問答の緒戦日蓮はしばらく騒がせておいた後、「皆さん、静かにしなさい。法門の御為に、ここに集ったのでしょう。悪口等を言っているようでは意味がありません」と言った。それを聞いて、六郎左衛門を始めとして監督に当たっていた武士たちは「その通りだ」と言って、悪口していた念仏者の首をつかんで人垣の外へ放り出した。◆ 六 問答の実態さて問答の様子はというと、彼らが言い立てる止観・真言・念仏の法門について、一つ一つに彼らの言い分を、確認し、承知させてから、その矛盾を詰めていったから、一言二言で口を閉じてしまった。政治の中心である鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも学解の浅い者たちであるから、その実態が分かるであろう。利剣をもって瓜を切り、大風が草をなびかせるようなものであった。仏法の理解が浅いだけではなく、自語相違に気がつかず、あるいは肝心の経文を忘れて論義し、正しい釈を忘れて勝手な論を振り回している。◆ 七 祖師の現証を責めるまともな議論が出来ない人々であるから、ダメ押しに切り口を変えて、祖師たちの現証を取り上げて責めた。念仏の善導が柳の木より落ちて死んだという話{*05}、弘法大師が三鈷を唐の国から高野山まで投げたという話{*06}、弘法が他宗の高僧たちを大日如来に現じさせたという話{*07}等を取りあげ、それが妄語である理由、あるいはいかに狂っているかを一つ一つに責めたところが、悪口で逃げたり、あるいは言葉を失って口を閉じ、あるいは蒼白になって沈黙した。なかには「念仏は間違いであった」と認める者もいた。あるいはその場で袈裟・平念珠{*08}を捨てて「念仏をやめる」と誓いを立てる者{*09}もあった。◆ 八 本間氏への謎かけ誰の目にも勝敗が明らかになって、集った人々が皆それぞれ帰っていった。監督役の六郎左衛門尉も座を立った。その一家の者も帰った。ここで日蓮は、仏法の不思議{*10}を一つ言っておこうと思って、六郎左衛門尉を大庭より呼び返して言った。「いつ、鎌倉へ上る予定ですか」と。彼が答えて言うには「下人たちに野良仕事をさせて七月の頃を予定しています」と答えた。日蓮は言った。「弓箭とる者(武士)は、公(主家)の御大事に臨んで所領を貰うことこそ、田畠を作るというのではありませんか。いまや戦さが起ころうとしているのに、急ぎ鎌倉に上って手柄をたて恩賞を貰わないのですか。何といっても貴殿{*11}は相模の国では名のある侍{*12}ではないか。田舎で田を作っていて、戦さに遅れたら、武士として恥であろう」と。それを聞いて、どのように思ったのであろうか。慌ててものも言わず帰っていった。傍で聞いていた念仏者や律僧・在家の人々は何の話なのかと怪しんだ。◆ 【注記】{*01}弟子たちに 佐渡の冬は曇天続きで月星は見がたい。単に月星に語りかけたというより、同行の弟子たちに講義していたのではないか。『日蓮自伝考』で考察している。{*02}副状 この副状と称するものが伝来している。ただし本物かどうかは不詳。日朝『元祖化導記』などに引用あり。 {*03}越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より佐渡に来ていた僧侶たち 法論のために越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々からやって来たと読むのは時間的にも、季節的にも無理がある。当時の佐渡は交易の中継点でもあり、諸国から商人や僧侶がやって来ていた。それらの人々が法論に参加したのであろう。『日蓮自伝考』で考察している。 {*04}さらには法論に関係のない 「さならぬもの」は難語である。原文はどうあったのか。本間一家の後に続くからあるいは審判を意味する語であったか。今は「さ‐ならぬもの」と解して「関係の無いもの」と訳した。 {*05}善導が柳の木より落ちて死んだという話 善導が柳の木で往生を望んで首をつったという話が当時の念仏者の著作に出でいたようで、そのために当時、これへの批判は破壊力があったと思われる。 {*06}弘法大師が三鈷を唐の国から高野山まで投げたという話 高野山の由来の記によるという。 {*07}弘法が他宗の高僧たちを大日如来に現じさせたという話 弘法の弟子真済の『孔雀経音義』に記される。 {*08}平念珠 いらたか念珠。扁平でジャラジャラ大きな音がする。山伏などが用いる念珠。『日蓮自伝考』で考察している。 {*09}「念仏をやめる」と誓いを立てる者 佐渡で日蓮門下になった僧侶に山伏房がいる。あるいはこの僧侶のことか。 {*10}仏法の不思議 仏法の智慧による洞察力。ここでは自界叛逆難の予言。 {*11}貴殿 「和殿原」この「和」は変体仮名の「わ」であろう。「わ殿原」「わ御房」「わ御前」「わ党ども」など、人称代名詞の前について親しみを籠める場合に使う。 {*12}相模の国では名のある侍 本間氏が名のある武士であることは『平家物語延慶本』に出る。『日蓮自伝考』で考察している。 □◆第十一章(第十段) 「開目抄」のこころ(p919 L2〜p920 L4)◆ 一 「開目抄」執筆と「御振舞抄」さて皆帰ったので、去年の十一月から勘えていた「開目抄」という文二巻を書き上げた。これは、もし首を斬られるならば日蓮の不思議を留めて置こうと思って構想したものである。この「開目抄」の心は、「日蓮によって日本国の有無(存亡){*01}は決まるのである。譬えて言うならば家に柱がなければ立つことが出来ず、人に魂がなければ死人同然である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門尉(頼綱)はこの日本の柱を倒してしまった。そのために、今は世の中が乱れて、それという企てもないのに夢のように流言が出てきて、北条一門が身内同士で殺し合いを起した。ここまでくれば、やがて他国から攻められるのも確実である。そのことは「立正安国論」に詳しく{*02}述べたとおりである。このようなことを「開目抄」に書き付けて中務三郎左衛門尉(四条金吾)の使に持たせてやった。◆ 二 二月騒動その論調の激しさに、傍についている弟子たち{*03}も、激しすぎると思ったようであったが、日蓮の勢いに何も言い出せないようであった。その後、二月十八日に島(佐渡)に船が着いて、鎌倉に戦さ{*04}が起ったことを伝えた。京でも戦さ{*05}があったという。その騒動は大変なものであるという。六郎左衛門尉(重連)はその夜、早舟をしたてて本間一族を率いて渡って行った。◆ 三 本間重連の帰依と本間氏の主従関係本間重連はその直前、日蓮のもとに来て、日蓮に掌をあわせて「われらをお救い下さい。去る正月十六日のお言葉を、どうであろうかと今まで疑っていましたが、いくらもたたず三十日の内に符合してしまいました。そうとなれば、残る蒙古も必ず攻め寄せて来るでしょう。念仏は無間地獄であるというお教えも間違いがないと思われます。今後はキッパリ念仏を止めて日蓮の御房に帰依します。」と誓った。しかし、日蓮は「貴殿がどのようにおっしゃろうと、国主たる相模守(時宗)たちが、日蓮を用いない以上、日本国の人々は日蓮を用いないでしょう。日蓮の道理を用いなければ国は必ずや滅びることになるでしょう。◆ 四 日蓮と天照・正八幡日蓮は何の力も持たないけれども{*06}法華経を弘めているのであるから釈尊の御使なのです。わずかの領域を護っている天照太神・正八幡{*07}などという神は、この国では重んじられているが、梵天・帝釈・日天・月天・四天王に対すれば小神にすぎない。それでも世間では、この神に仕える神人などを殺せば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどと言っている。太政入道(平清盛)や隠岐に流された後鳥羽上皇たちが滅んだのはこのためとされる。日蓮への弾圧はそのような神人への過誤とは比較できない大罪である。日蓮は教主釈尊の御使いであるから、天照太神・正八幡宮といえども頭を垂れ手を合せて地に伏して拝すべきなのである。◆ 五 「日蓮がひかうればこそ」法華経の行者に対して梵天・帝釈は左右に控え、日天・月天は前後を照して仕えるのである。このような日蓮を仮に用いたとしても、おろそかに扱うならば、かえって国が滅びることになる。まして敬うどころか数百人の手で辱しめ{*08}、二度まで流罪にした。もはやこの国が滅びることは疑いないけれども、しばらく日蓮が諸天善神を制止して「この国を助けたまえ」と日蓮がひかえていたからこそ今まで安穏であった。それなのに度を越せば罰があたるのは当然である。またこの期に及んで日蓮を用いないというならば大蒙古国から懲罰の討手が挙がり日本国は滅ぼされるであろう。これはこの国の実務を統括する平左衛門尉(頼綱)が自ら招いた災いである。ことが起これば、貴殿もこの佐渡の島も安全でいられるはずがない。」と言い切ったので、驚愕して{*09}帰っていった。◆ 六 予言的中と人々の反応さて、これを伝え聞いた在家の人々がいうには「日蓮の御房は神通の人なのであろうか、ああ怖ろしい、怖ろしい、今後は念仏者を養うまい。律僧にも供養すまい」と。念仏者や良観の弟子の律僧たちが言うことには「この御房は謀反の仲間に加わっていたのであろうか。」と。そうした騒々しさもしばらくして収まり世間は静かになった。◆ 【注記】{*01}日本国の有無(存亡) 存亡と訳した方が一般に分かり易いであろう。しかしこの「有無」にはもう少し本質的な意味合いがあるように思えるので、今はこのような二重表記にとどめる。{*02}「立正安国論」に詳しく 自界叛逆難、他国侵逼難のことである。 {*03}傍についている弟子たち 日興、日向のことと思われる。 {*04}鎌倉に戦さ 二月騒動、評定衆筆頭の名越時章、教時兄弟が討たれた。 {*05}京でも戦さ 執権時宗の実兄、六波羅北方探題北条時輔が討たれた。 {*06}何の力も持たないけれども 「幼弱のものなれども」現代語では大人にこのような表現はしない。逆に言えば、中世では(日蓮においては)、大人に対してもこのような表現があったことを銘記すべきである。 {*07}正八幡 大隅八幡宮。当時一般に、八幡大菩薩の本地は阿弥陀仏だと言われていた。そこで日蓮は、同じ八幡でも本地を釈迦仏とする正八幡を引き合いに出し、本地垂迹説の本意を正したのである。『日蓮自伝考』で考察している。 {*08}数百人の手で辱しめ 原文には「数百人に憎ませ」とあるが、当時、日蓮を憎んでいたのは数百人ではきかない。例えば白麦御書では「上一人より下万民までに・にくまれて」p1541 としている。そのことから言えばこの「数百人」はあまりにも少なすぎ、何か具体的なことを意味する数字であると思われる。その後すぐ二度の流罪に話が及ぶことから言えば、おそらくは「市中引き回し」のことを述べているものと思われる。つまり引き回しの時に日蓮に群がって嘲笑し、辱しめた者のことであろう。 {*09}驚愕して 原文「あさましげ」は、現代語の「あさましい」とは違い、驚いて、驚愕してなど、心中大きな衝撃を受けたことを表す言葉である。 □◆第十二章(第十一段) 佐渡の人々(p920 L5〜p921 L1)◆ 一 受難を乗り越えた佐渡の人々また念仏者が集って謀議をこらした。「こうしておれば我々は飢え死してしまう。どうにか作戦を立てて日蓮という法師を消してしまおう。既に在所{*01}の人々はほぼ日蓮になびいてしまった。どうすればいいものか。」と。そこで念仏者のリーダーである唯阿弥陀仏、律僧のリーダーである性諭房{*02}、さらに良観の弟子である道観たちが鎌倉に赴いて佐渡の守護職である武蔵守(宣時)に訴え出て讒言した。「日蓮がこのまま佐渡の島にいるならば、諸宗の寺々は一宇も残らず壊されてしまうし、僧侶も一人残らず飢え死にしてしまいます。阿弥陀仏を火にくべたり、河に流したりしています。そして夜も昼も高い山に登っては、日月に向かって大声をあげてお上(執権時宗)を呪詛しております。その呪詛の声は一国に響き渡っております。」 ◆ 二 北条宣時の偽教書武蔵前司(宣時)はこれを聞いて「お上へは申し上げるまでもあるまい。まず在所の者で日蓮房に帰依する者があるならば、在所を追放{*03}するか、あるいは牢に入れよ。」と幕府のものではない私の命令{*04}を下した。また偽の命令書が出された。このような偽の命令書が三度{*05}まであった。その間の弾圧による門下の大難を詳しく述べる余裕がないので、このことを心で以て推し量り{*06}なさい。概略をいえば、日蓮の住房の前を通ったと言っては信徒を牢に入れ、あるいは日蓮に物を供養した言っては在所を追い出し、日蓮を信ずる下人の身分の者{*07}からはその妻子を取り上げるなどの残酷な弾圧があったのである。◆ 三 赦免状到着と佐渡からの帰還このような弾圧を加えておいてから、宣時がお上(執権時宗)へ日蓮の処分について申し上げたところ、謀みとは違って、去る文永十一(1274)年二月十四日の御赦免となり、赦免状が同三月八日に佐渡の島に到着した。念仏者たちは慌てて謀議をこらし「日蓮ほどの阿弥陀仏の御敵で、善導和尚や法然上人を罵るほどの悪僧が、幕府の処分を受けて、たまたま佐渡の島に流されて来たのを、御赦免になったからと言ってこのまま生かして帰すのは、腹立たしいことだ」と言ってさまざまな謀略を企てた。しかし、どういうことであろうか、願ってもいないのに順風が吹いて来て佐渡の島から出航した。情況が悪ければ海が荒れて百日、五十日を経ても出航できない。たとえ順風であっても、一谷の在所から三日はかかるところを、わずかの時間で渡ったのである。 ◆ 四 帰還の道中このことを知った越後の国府(直江津)や信濃の善光寺{*08}の念仏者・律僧・真言師たちが群がり集った。「佐渡の島の法師たちは、日蓮を今まで生かしておいて還すとは、なんと愚か者であることよ。我々は断じて善光寺の生身の阿弥陀仏{*09}の御前は通さない」と謀議したけれども、越後の国府からは、多くの兵士たちが日蓮を護衛して善光寺を通過したので彼らも力が及ばなかった。◆ 【注記】{*01}在所 「国」(くに)という言葉は、日本国という広義の意味の他、佐渡国、安房国といったレベルから、さらに小さく在所(ムラ=生活圏)にいたるまで多義的に使われる。ここでは、在所の意味で使われている。例えば「国を追われる」といっても佐渡から追放されるというようなことは有りえない。{*02}性諭房 既出の「生喩房」と同一人物と思われる。 {*03}在所を追放 例えば阿仏房がその在所から追われている。 {*04}私の命令 当時、守護職には幕府から流人を預かり、監視及び保護の義務があったが、それ以上の罪科、罰則を科す権利はなかった。宣時の行為は越権行為であるばかりではなく、公文書の偽造に当たる。 {*05}偽の命令書が三度 「窪尼御前御返事」(虚御教書事)に「さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ」p1478 とある。 {*06}心で以て推し量り 同様の文が、「法華行者値難事」p967 にもある。 {*07}下人の身分の者 当時、下人の妻子は主人の所用に帰属したので、主人の機嫌をそこねた場合、妻子を取り上げられることがあった。 {*08}信濃の善光寺 長野市にある。 {*09}生身の阿弥陀仏 善光寺の本尊仏について、当時そのような伝承がなされ、全国的な信仰を集めていた。それだけに日蓮への敵意は他に比して強烈であった。 □◆第十三章(第十二段) 「鎌倉へ打ち入りぬ」 (p921 L2〜p922 L18)◆ 一 「平左衛門尉に見参」こうして三月十三日に佐渡の配所を立って{*01}同三月二十六日に鎌倉へ討ち入った{*02}。四月八日、平左衛門尉(頼綱)に対面した。幕府では以前と打って変わって威儀を和らげて礼儀正しく対応した。ある入道は念仏について問い、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問うた。平左衛門尉は法華経以前の経に得道が有るか無いかを問うた。これらには一つ一つ経文を引いて答えた。 平左衛門尉はお上(執権時宗)の御使いのようで居ずまいを正して「大蒙古国はいつ攻めて来ようか」と尋ねた。日蓮は答えて「今年中に必ず来る。それについては日蓮が以前から勘えて『立正安国論』で進言していることがあるが御用いがない。それでは蒙古への対応を考えても、病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます重くなるようなものである。さらに真言師に蒙古調伏の祈祷をさせるならば、かえってこの国は戦さに負けることになるだろう。」と謹んで申し上げた。 ◆ 二 「還著於本人」「真言師・総じては当世のすべての僧侶たちに祈祷させてはならない。各々は仏法の正邪をご存じないので申し上げていることが分からないのであろうか。また、どのような不思議があってのことであろうか。他のこととは違って、日蓮が申すことだけはお用いにならない。あとで思い合わせた時にわかるように歴史的な事実を申し上げておく。隠岐に流された法皇(後鳥羽上皇)は天子であり、流した権大夫殿(北条義時)は民にすぎない。子が親に仇なすのを天照太神は受容れるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡が用いるだろうか。それなのに如何なるわけで公家は戦に負けたのであろうか。この理由は他でもない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の誑惑を真実と思って、それをもとに叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉の調伏を祈祷したので『還著於本人』{*03}といって、その過失が祈祷した方へ還って著き、公家は負けたのである。武家は真言のことなどは知らないで調伏の祈祷も行わなかったから勝ったのである。 今、真言の祈祷をするならば、また『還著於本人』の道理により、祈祷をした幕府が同じ憂き目をみることになるであろう。 ◆ 三 「入道殿事にあひ給いぬ」蝦夷は生死の理を知らない者であり、安藤五郎{*04}は因果の道理を弁えて堂塔をたくさん造った善人である。それなのにどうして安藤五郎は首を蝦夷に取られたのか。これを以って考えるに、この真言の御房たちに祈祷をさせるならば、真言の僧侶を推挙した入道殿{*05}は必ず何か事に遭うと思われる。恐れ多いが申し上げておく。そのときになってから『そうは言わなかった』と仰せなさるな」としたたかに言い切った。◆ 四 阿弥陀堂法印の祈雨さて、宿所{*06}に帰って聞いたところによると、幕府は同四月十日から阿弥陀堂の法印{*07}に命じて雨乞いの祈祷をさせた。この法印は東寺第一の智者であり、御室{*08}(仁和寺の導助法親王)等の師範であり、弘法大師・慈覚大師・智証大師の真言の秘法を鏡にかけたように知り尽くし、天台・華厳等の諸宗を皆胸に浮かべるようにそらんじていると言われている。その阿弥陀堂の法印の祈祷によって十日からの祈雨で十一日に大雨が降った。風は吹かず、雨は静かで一日一夜降り続いたという。それを相模守(執権時宗)がたいそう感じ入って、阿弥陀堂の法印は金三十両や馬などさまざまの引き出物を賜ったということである。これを知って鎌倉中の上下の人々が手をたたき口をすくめて嘲笑した。「日蓮が間違った法門を主張してすでに首を斬られようとしたが、やうやく赦免されておとなしくなると思ったら、そうではなくて相変わらず念仏・禅を誹謗するばかりでなく、真言の密教さえもそしるものだから、かえってこのようなめでたい現証が現れたのだ。」と罵った。日蓮の弟子たちもがっかりして「これは師匠の主張も荒っぽ過ぎた。」と言うので、日蓮は諭した。「しばらく待ちなさい。弘法大師の悪義が真実であって国家の祈りになるものならば隠岐の法皇(後鳥羽上皇)こそ戦に勝ったはずである。御室(仁和寺)の導助法親王の最愛の稚児・勢多迦(せいたか){*09}は首を斬られることもなかったであろう。」 ◆ 五 弟子たちの不信と師匠の眼「弘法が法華経を華厳経に劣っていると書いた状は『十住心論』という文にある。寿量品の釈迦仏を凡夫であると記した文は『秘蔵宝鑰』にある。天台大師を盗人と書いた状は『二教論』にある。一乗法華経の教主を真言師の履物取りにも劣ると書いた状は正覚房覚鑁(かくばん)の『舎利講の式』にある。こういう邪義をいう者の弟子である阿弥陀堂の法印が日蓮に勝つならば竜王は法華経の敵である。梵天・帝釈・四天王に責められるであろう。この雨には何かわけがあろう」というと、弟子たちがいうには「現実に雨が降っているのに、どんなわけがあろうか。」とからかった。 ◆ 六 悪風の現証日蓮は言った「善無畏三蔵も不空三蔵も雨乞いの祈りに雨は降ったものの大風が吹いたと見えている。弘法は三七日(みなのか)過ぎてから雨を降らせたという。これでは雨を降らせなかったのと同じである。三七・二十一日も経て降らない雨など滅多にあるものではない。降ったところで何の不思議があろうか。降らせるというならば天台のように、千観{*10}などのように一座の修法で降らせてこそ尊いのだ。阿弥陀堂法印の雨には必ずわけがあろう」といいも終わらぬうちに大風が吹いてきた。大小の舎宅・堂塔・古木・御所等を天に吹き飛ばし、あるいは地にたたきつけ、空には大きな光り物が飛び、地には棟(むね)や梁(はり)がバラバラになって倒れた。人々さえも吹き殺し、牛や馬もたくさん倒れた。悪風であっても秋なら台風の季節であるからまだ止むを得ないという人もいよう。しかしこれは初夏の四月(陰暦)である。その上、日本全国に吹いたわけではなく、ただ関東八か国だけであった。八か国の中にも武蔵・相模の両国のことであった。両国の中でもとくに相州(相模)に強く吹いた。相州の中でも鎌倉、鎌倉の中でも御所・若宮・建長寺・極楽寺等に強く吹いたという。 これではただの暴風とは思われない。ひとえに阿弥陀堂法印の祈祷のゆえと思われて、日蓮を嘲笑し口をすくめた人々も興醒めしてしまった上、わが弟子たちも「なんと不思議なこともあるものだ」と言い合った。 ◆ 【注記】{*01}配所を立って 「島を立ち」とあるが、この日付は佐渡を出航した日付ではなく、配所の一谷を出発した日付とみなされる。{*02}鎌倉へ討ち入った 原語「打ち入りぬ」は「入りぬ」の強調した表現にすぎない。しかし、ここでこのような表現を使った背景には、佐渡での門下の大弾圧があり、その責任者である宣時や黒幕としての良観たちを弾劾することを日蓮が深く期していたことは否定できない。じっさい期間時の幕府での日蓮の真言批判は激烈を極めたことからもその一端がうかがえる。この語に日蓮の万感の思いが込められているとみて、あえて「討ち入った」と訳した。 {*03}還著於本人 げんじゃくおほんにん。「還って本人に著きなん」と訓ず。法華経観世音菩薩普門品第二十五(法華経 p635) {*04}安藤五郎 安藤五郎の事件は文永五年に蝦夷の反乱が起こり、安藤氏の時の当主であった五郎が殺されたものである。『日蓮自伝考』で考察している。 {*05}入道殿 この入道について、北条時宗や平頼綱とするものがあるが、この時点では、どちらも入道ではない。それよりも前後の文脈をたどれば、阿弥陀堂法印等の真言僧を推挙し、連れてきた人物と知れる。『日蓮自伝考』で考察している。 {*06}宿所 すでに名越の草庵は破却され没収されてなかった。宿所が夷堂橋の付近に設けられたという伝承があるが、その根拠は弱い。 {*07}阿弥陀堂の法印 加賀法印定清。鎌倉大倉の阿弥陀堂(丈六堂)の別当。真言宗小野流。阿弥陀堂は源頼朝の創建と伝えるが今は廃寺。 {*08}御室 宇多法皇の仙洞御所を御室と呼んだことから仁和寺の別称。ここでは仁和寺第十一代・道助法親王のこと、後鳥羽上皇の息子。大規模な真言の祈祷を行った。 {*09}勢多迦(せいたか) 道助法親王の寵童。承久の乱の後斬首された。還著於本人の現証とされる。 {*10}千観 天台宗の学僧。応和二年(962)の旱魃の時、箕面の滝の傍の柳に登って祈り、すぐさま大雨を降らせたという。 □◆第十四章(第十三段) 弟子たちに問う(p923 L1〜p925 L1)◆ 一 身延に入る弘教の始めより心に期していたことなので、三度まで国を諫めて用いないならば、その国を去るべきであるとの習い{*01}に従った。そこで同五月十二日に鎌倉を出発してこの身延の山に入った。◆ 二 蒙古の襲来同十月に大蒙古国が攻め寄せて壱岐・対馬の二か国を占領されただけでなく、九州の本営である大宰府{*02}も破られて、防衛軍の総大将{*03}である少弐資能(すけよし)入道覚恵や大友頼泰(よりやす)入道道忍等はそれを聞いて逃げ{*04}、そのほかの兵士たちは作戦も立てられず、ほとんど討たれてしまった。また今度攻め寄せてくるならば、いかにもこの国は弱々しく見える。◆ 三 「一定悪比丘のあるなり」仁王経には「聖人が去るときには七難が必ず起こる」等とあり、最勝王経には「悪人を愛敬して善人を治罰することによって、やがて他国の怨賊が襲来して必ず国中の人が動乱に巻き込まれ滅ぼされる」等とあって符合している。仏説が正しいならば、この国には必ず悪人がいる。それを国主が重用して、善人を迫害しているということではないか。大集経には「日月に光なく四方が皆旱魃(ひでり)となる。それは悪王と悪比丘とが結託してわが正法を破壊するからである」と説かれている。 仁王経には「諸々の悪比丘が多くの名誉と利益を求めて国王・太子・王子の前で仏法破壊の因縁や国土破壊の因縁を説くであろう。その王はその善悪を判断できなくてその言葉を信じてしまう。これが仏法破壊や国土の破壊を呼び起こしていく」と説かれている。 法華経には「濁世の悪比丘」とある。経文が真実ならば、この国には必ず悪比丘がいる。宝山では曲がった木は伐り捨てると言い、大海には死骸を留めておかないと言われる。仏法の大海・法華一乗の宝山には五逆罪{*05}の瓦礫や四重禁戒{*06}を破る濁水は入っても法華誹謗の死骸と一闡提の曲林は収めないのである。ゆえに仏法を習おうとする人、後生を願おうとする人は法華誹謗を恐るべきである。 ◆ 四 日蓮と持経者のちがいあらゆる人が思い込んでることは弘法や慈覚を誹る人をどうして用いられようかと。しかし、他人は別として{*07}、日蓮の身内となる安房の国の東西の人々{*08}、清澄寺の大衆はこの事を信じなければならない。それは眼前に現証があるからである。いのもりの円頓房、清澄の西尭房、道義房、片海の実智房たちは尊いといわれてきた僧であった。だがこれらの人々の臨終はどうであったかと尋ねてみなさい。これらはさておくとしても、円智房は清澄の大堂{*09}において三か年の間、一字三礼の法華経を自身で書写し十巻を読誦し、五十年が間一日一夜に二部づつ読まれたのであった。だから人々は皆、円智房が必ず仏になるだろうといっていた。これに対して日蓮は「念仏者よりも道義房と円智房の方が無間地獄の底に堕ちるであろう」と言ってきたが、この人々の臨終は良かったであろうか。どうなのか。よくなかったではないか。もし日蓮が指摘していなかったら、この人々を仏になったと思い込んでいたであろう。 ◆ 五 隠された現証この眼前の現証をもって知りなさい。弘法・慈覚等の臨終は驚くべき悪相があったけれども、その弟子たちが隠したために、朝廷でもその事実を知らない。末の世ではますます仰ぐようになった。もしそれを顕す人がいないならば未来永劫までそのまま通ってしまうであろう。昔、拘留外道{*10}は八百年過ぎてから陳那菩薩{*11}に破折されて水となり、迦毘羅外道{*11}は石と化して一千年目に同じく陳那菩薩に破折されて石を砕かれ、その過失が現れたという。(弘法・慈覚の過失を日蓮が明かすまで、四百年が経過している。)◆ 六 総罰ということ本来、人身を受けることは五戒{*12}の力による。五戒を持っている者に対しては、二十五の善神{*12}がこれを守る上に、同生同名{*13}という二つの天が、生れたときからその人の左右の肩にいて守護しているために、その人に過失がなければ鬼神が仇をなすことはない。しかるにこの日本国の無数の人々が三災七難に遭って嘆いているばかりか、壱岐・対馬の両国の人々は皆大難に遭ってしまった。筑紫{*14}の大宰府も言葉にできない悲惨な状態である。いったいこの国にどんな過失があるのだろうか。ぜひとも知りたいことである。一人二人ならば過失もあるだろうが、大勢の人々に過失があるということは一体どうしたことか。 これはひとえに法華経を誹謗する弘法・慈覚・智証等の末葉の真言師、善導・法然の末の弟子である念仏者等、達磨などの人々の末葉の禅宗の者たちが国中に充満して邪法を弘めているためである。ゆえに梵天、帝釈、四天王等が、法華経の会座の誓状のとおりに「頭破作七分」{*15}の治罰を加えているのである。 ◆ 七 誰が法華経の行者なのか疑っていうが、法華経の行者を仇とする者は「頭破れて七分と作らん」と説かれているのに、日蓮房を謗っても別に頭も割れないのは、日蓮房は法華経の行者ではないのか、というのは道理と思うがどうなのか。答えて言おう。日蓮を法華経の行者ではないというならば、法華経をなげ捨てよと書いた法然たち、釈尊をまだ無明に属する者であると書いた弘法大師、理同事勝(法華と真言は理は同じだが事では真言が勝れる)と宣べた善無畏、慈覚たちこそが法華経の行者なのだろうか。 ◆ 八 「法華経の行者をそしりしゆへに」また「頭破作七分」ということはどういうことであるか。刀で斬ったように割れるのだと思っているのか。経文には「阿梨樹の枝のごとし」{*16}と説かれている。もともと人の頭には精気の根元をなす七滴の水があるという。七人の鬼神がいてこれを食べようとすきをうかがっている。一滴食えば頭を痛める。三滴食えば寿命が絶えようとし、七滴全部を食えば人は死ぬという。今の世の人々は鬼神に頭の水を食われて皆、頭が阿梨樹の枝のように割れてしまっているのに悪業が深いために自覚していないのである。たとえば傷を負った人が酒に酔い、あるいは深く寝入ってしまって、その傷の痛みを感じないようなものである。また「頭破作七分」というのは「心破作七分」ともいって、頭頂の皮の下にある骨が心気の激動によって罅破(ひびわ)れるのである。死ぬ時に割れることもある。今の世の人々は去る正嘉の大地震、文永の大彗星出現のときに皆頭が割れているのである。その頭が割れたときに喘息を病み、五臓を損なったときに赤痢を病んだのであった。これは法華経の行者を誹謗したために当たった現罰であると気がつかないのであろうか。 ◆ 【注記】{*01}国を去るべきであるとの習い 「礼記」「礼記曲礼下第二 人臣たるの礼、顕わには諫めず。三たび諫めて聴かざれば、則ち之を逃(さ)る」{*02}大宰府 大宰府が蒙古に侵掠されたということは、蒙古襲来の状況を具体的に伝える『八幡愚童訓』には記されていないので、通常日蓮の伝える記事は無視されている。しかし、『八幡愚童訓』は明らかに恩賞をもらうことを意図して記録さており、『八幡愚童訓』を作った人、八幡宮関係者に不利なことは記されていない。日蓮の情報源は、直接蒙古と戦った千葉氏や北条一門の名越家であり、きわめて信頼度が高い。公平な目で考察されるべきであろう。 {*03}防衛軍の総大将 筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護を兼ね大宰府に守護所を置いていた少弐氏が事実上の日本軍の総司令官であった。 {*04}それを聞いて逃げ 『八幡愚童訓』は大宰府の手前水城までの撤退を伝える。博多、箱崎八幡は炎上する。本当に水城までだったのか、大宰府に侵入されたのかは、確定できていない。 {*05}五逆罪 父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出し、和合僧を破るの五罪。倶舎論巻17(T29-p92) {*06}四重禁戒 四波羅夷戒。殺生・偸盗・邪婬・妄語の四重罪を犯すことを禁じたもの。四分律比丘戒本 (T22-p1015) {*07}他人は別として このことから、種種御振舞御書が出家僧としての日蓮の身内たる清澄寺大衆に宛てたものであることが分かる。この後列挙される人名はすべて清澄寺の大衆である。 {*08}安房の国の東西の人々 これを東条、西条とするのは誤訳であろう。安房の東西に散在する清澄寺大衆のことと思われる。 {*09}清澄の大堂 清澄寺、山上の虚空蔵菩薩を安置した本堂 {*10}拘留外道 くるげどう。インド六派哲学の一、勝論学派の祖。引かれる伝説は円仁『止観私記』(大日本仏教全書37-p204)による。 {*11}陳那菩薩 じんなぼさつ。(480〜540年頃)インド唯識派の論師で、仏教論理学を確立したとされる。 {*11}迦毘羅外道 かびらげどう。インド六派哲学の一、数論学派の祖。引かれる伝説は妙楽『止観輔行伝弘決』(T46-p0434b)による。 {*12}二十五の善神 帝釈天に仕え、五戒を持った者を守護するという二十五神。灌頂経巻三(T21-p502 p503) {*13}同生同名 『止観輔行伝弘決』(T46-p401a) {*14}筑紫 九州全体をさす古称。 {*15}「頭破作七分」 法華経陀羅尼品第二十六で、鬼子母神および十羅刹女が法華経の行者の守護を誓った偈。「若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」(法華経 p648) {*16}「阿梨樹の枝のごとし」 前注参照。インド等の熱帯産の植物。この枝が地に堕ちる時は七つに裂けるといわれている。 □◆第十五章 結びの章◆ 一 悲哀と第六天の魔王(p925 L2〜p925 end)
鹿はいい味があるために人に殺され、亀は油があるために命を奪われる。女人は美貌であれば妬む者が多い。国を治める者は他国から狙われる恐れがあり、富める者は命が危うい。法華経を持つ者は必ず成仏するゆえに第六天の魔王{*01}という三界の主が法華経を持つ人を強烈に嫉むのである。この魔王はあたかも疫病神が誰の目にも見えずに人に付くように、芳醇な酒に人が酔ってしまうように国主・父母・妻子に取り付いて法華経の行者を嫉むのであると経文に見えている。これに少しも違っていないのが現在の世である。 |