牧口初代会長の闘い--『価値創造』廃刊を通して----生駒おろし
牧口初代会長は、今、奇妙な批判にさらされている。牧口は、単に宗教的信条から、神札を拒否しただけで、反戦思想や反戦運動は無かったとするものである。そうした疑難をも念頭において、機関誌『価値創造』廃刊の過程を追うことにより、牧口初代会長の戦いを見てみたい。 一、止むこと無き権力への批判 二、ファシズムに対峙する「一国謗法」の認識 三、最後の警鐘としての「法罰論」 四、権力に畏怖された「価値創造」の語 五、思想統制の実態を示す国防教育 六、「神国思想」に突きつけた「神札拒否」 七、立正安国論に基づく国家諫暁 八、庶民の中に根ざした抵抗運動 九、獄中での堂々たる国家諫暁 十、若き日からの平和思想と殉教の誉れ■ 一、止むこと無き権力への批判機関誌『価値創造』は、1941年(昭和16年)の7月から翌年(昭和17年)5月に当局から廃刊に追い込まれるまで発刊された。(日米開戦昭和16年12月)第9号まで発刊されている。 発行停止処分について、最後の第9号に遺憾とするコメントを提示されており、 「個人主義(利己主義であり近視眼病的見解の生活のことの意であるので注意)や虚空な全体主義(自己を除きたる反動的全体主義であり虚偽であり、独善主義の意で示される)」と異なり、「真全体主義(後述する)の大善生活法を仏教の極意法華経の肝心の信仰に依て実証する」ことが、「新体制の画竜点睛で国策に添ふ所以と信ずれど不認識の評価によるか」とされている。 ここでの「新体制の画竜点睛で国策に添ふ所以と信ずれど」との言は、いかなる意味かを汲むに当り、前段階の内容及び『価値創造』で示されてきたこと等を無視してはならないのは当然であろうと思われる。 まず、利己主義と虚空の全体主義を否定し、「真全体主義の大善生活」を言われる。この「真全体主義」は利己主義や虚空の全体主義と鋭く対立する概念であることに注意しなければならない。 初代会長に依れば、「真実の世相を正しく認識(「尋問調書」にて「謗法国」と規定して戦争が生じている由来を明言されていることにも注意)」し、「自他の共存を図り」、「無病(思想、人格の歪みがない)正視眼的見解」の生活である。既に初代会長は「人生地理学」において我々一個人の生活が全世界との関係の恩恵の上にあることを身近な例を通して示しながら、「共利共生」を強く打ち出されている。 村尾行一愛媛大教授は、その著「牧口常三郎の『人生地理学』を読む」において 「牧口の平和思想の基盤にある思考は、『一人一人の人間の命は全世界の人々のお陰にかかっている。だから人類共和が大切なのだ』という認識である。ここに彼の平和思想の特色がある」とし、牧口先生の論から「この人間関係が断たれれば、我々の生活は破綻する。したがって平和を保つこと、また不幸にして紛争が生じたならば、それを早期に解決することが絶対に必要である」 との結論が必然的に導き出せるとされている。(事実『人生地理学』の軍事的競争から人道的競争へと論じられる中で、その趣旨論じられている) 牧口初代会長は「生命に対する最大価値の目的を説明した上は、この目的に達する最大価値の生活方法を確立する指導法が、次に吾等当面の問題」(「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」)として運動を進めてこられた。それは戦争が常態化している時代にあって、人道的競争の時代へいかにシフトしていくかという、苦難に満ちた闘いであられた。 次に『価値創造』の内容をいくつか簡単に追う。 第一号に創価教育学会の綱領が示されているので、一部紹介する。 「一、本会は他を顧み得ぬ近視眼的世界観に基づく個人主義の利己的集合にあらず、自己を忘れて空観する遠視眼的世界観に基づく虚偽なる全体主義の集合にもあらず、自他倶に安き寂光土を目指す正視眼的世界観による真の全体主義の生活の実験証明をなすを以て光栄とす。 また、「目的」の冒頭に次のようにある。 「仏の宣はせられた法華経の中の肝心たる三大秘法に帰依し奉り得た、我等の集団は、その信仰を各自の生活に実践して、宗教と生活との関係を科学的に観察し、その価値の有無と多少を実験証明して、自他倶安に至らんとするにある。 ここにも当時の全体主義軍国体制への強烈な批判が見い出せる。同じ創刊号に掲載された「目的観の確立」の以下の部分を読めば、更に互いの趣旨が明瞭に把握されるであろう。 「究竟の目的が確定せずして中間の目的は定まらない。世界が解らずに国家が分かるものでない。国家の生活が立たないでは一家の生活が立たうはずはない。故に一家の生活を確立せんとするには国家の生活が確立せねばならぬ。世界の生活が確定せねば国家の生活は定まらない。世界は過去現在将来の三世が分からなくては分からぬ。三世にわたる因果の法則が解ってこそ初めて現在の各自の生活の確立ができるのである」 (合わせて、「謗法」故に戦争が起っているとの言と密接に繋がっていることに気がつかれるであろう) 『価値創造』3号 昭和16年12月の日米開戦以降のものを幾つかあげると、その批判が厳しさを増していることが明瞭に読み取れる。直後の昭和17年2月(6号)、3月(7号)に発行されたものから。(上下に分かれて論構成) 「同じ罪悪でも、市民と巡査と署長と知事と大臣との各階級に応じて夫々罪報は異なり、(中略)果たして然らばこれらの更に上流に立って害毒を流す僧侶神官等の教導職の罪悪は更に更に重大であらねばなるまい。たとへ小悪でも最大罪となり、極悪の果報を結ぶことを思はねばならない。況や大善に反対し大悪に加担するをや。大悪に迎合し大善を怨嫉するに於てをや」 「現在の如き恐怖悪世の相を現出し釈尊の三千年前の御予言たる『末法濁悪』の世が現実に証明されるのは、強盗殺人等の大悪よりも、左右両翼の社会的大悪よりも、高官高位に蕃居して賢善有徳の相をしていながら、大善を怨嫉し軽蔑して大悪に迎合し加勢し、以てその地位の擁護と現状の維持とに力を尽くす高僧大徳智者学匠によるといはねばなるまい」 「所謂『滅私奉公』は一生に一度しか行い得ない理想である。この非常道徳を銃後の生活に強行しようとするは無理である」 日米開戦直後に、あのような全体主義軍国体制化においての言であることを鑑みるべきであろう。しかも、当時の言論統制化において発行を続けるには、韜晦の体裁が必要なのであるが、ますます厳しい論調が加えられているのである。 池田諭氏は、その著「牧口常三郎」において次のように記している。 「牧口は、公然と東条英機を首班とする日本政府に戦いを挑み、その政策、その方針を批判したのである。その批判は直接的具体的ではなかったが、決してなまぬるいものではなかった。「罰をうけるぞ」といわずにはおられなかった心境であっただろう。どうみても、そんな非道が許されていい筈はなかったからである」 もし、初代会長が当時「聖戦」とされていた戦争遂行を肯定されているのであれば、もっと歓迎なりするか、少なくともこのような厳しい批判をされないであろう。事実、日蓮正宗宗門は、この日米開戦について賛美の「訓諭」を管長名で出している他、直後の「大日蓮」1月号の「新春の慶びを述る言葉」では、戦争を正当化するために、大聖人の御書を国家神道の支えとして利用するということを行っているのである。 「一天四海帰妙法」によって戦争なき世界を築かんとする初代会長の歎きはいかばかりであり、かつ苦渋の思いであったであろうと思う。初代会長の敵は外にも宗門にもあったのである。こうした最中での発言であり、そこに深い怒りを読み取ることができるのである。 続く4月発行の『価値創造』8号。 「内心に大悪を潜めながら、外に小善を顕わす為に、近小の利に迷うて遠大の見えぬ小人たちに、君子として尊敬される者は、地位が高ければ高いほど小善大悪の天魔に過ぎない。今日の険悪世相は、外悪の小鬼よりは外善の大魔の災禍でないか。(中略)されば法華経は、外善の内悪を暴露し、小善で大悪な魔の正体を明かにして根本治療をなし、以て究竟の最大善に至らせ給ふものである」 何故に『価値創造』が廃刊に追い込まれたか容易に察することができるであろう。しかも発行禁止になった『価値創造』にかわり、次には不定期刊行物を発刊していかれる。止むことなく当時の戦争遂行の政策遂行層への批判を続けられたのである。 ■ 二、ファシズムに対峙する「一国謗法」の認識河原宏氏(発刊当時早稲田大教授)は「日本のファシズム」において、「国家総力戦」という言葉は第1次大戦を契機として生まれたとし、次のように説明する。 「単に武力戦だけでなく、政治・外交・経済・思想・宗教・芸術・科学・教育などの国民生活の全分野を包括し、平和時において十分な計画と準備が整えられているべきものと考えられた。したがって国家総力戦の要求するところは文字どおり全面的であり、国民生活のありとあらゆる面に関連している」 そして国家総力戦のあらゆる要求に共通の基盤となっているものとして「資源問題」を掲げ、「総力戦構想の下で資源とは戦争遂行に必要な全物資を含むのはもちろん、人間から、人間に内在する精神・心理までも資源としてとらえていた」とし、「軍事動員から精神動員、物資動員、勤労動員、研究動員など全『資源』を動員するいわゆる総動員体制の構築こそ、国家総力戦の要求するところ」としている。 これらのことは現在から言えるということではなく、広く認知されていた。日本軍部は既に1917年に「全国動員計画必要ノ議」が陸軍省でまとめられており、翌年に「軍需工業動員法」が制定(発動は後年)、1937年「国民精神総動員運動」、1938年に「国家総動員法」となる。 初代会長は、このような時代状況の下において、「人生地理学」で示された「軍事的競争から人道的競争へ」シフトしていく運動を進められた。教育者であった初代会長は「教育」こそ、そのシフトの根幹であるとして「教育改革」に、まず進まれた。そのことの時代における意味は前述のことから容易に理解できると思う。1932年の段階では、まだ宗教革命の必要性を認めつつも、教育改革の方を重視されている。 「現実社会の醜悪が精神上の欠陥に基因すること前述の如しとすれば、之が救済は教育によつて為されなければならぬ。教育も終局に於いては最高なる宗教の力に基づかねばならぬのであらうが、併し昔思想善導を一手に引き受けて居た僧侶乃至宗教家が殆ど信用を失墜して、活社会と絶縁した今日では、教育のみによる外は具体的方策は立たないであらう『創価教育学体系』 ところが1935年の「梗概」においての「結語=法華経と創価教育」においては、教育革命に主眼を置きつつも、その根底に宗教革命が不可欠とされるようになる。 「要するに創価教育学の思想体系の根底が、法華経の肝心にあると断言し得るに至った事は余の無上光栄とする所で、従って日本のみならず世界に向ってその法によらざれば真の教育改良は不可能であると断言して憚らぬと確信するに至った」 そして1937年の「実験証明」においては次のように至る。 「仏教の極意に基かざれば創価教育法の真の信用は成立たず、之によらざれば教育の革新は到底出来ず。然らば千百の会議を重ねても、世界平和の実現等は到底出来ないと信ずるからである。価値意識に基づく創価教育の証明は仏教の極意に帰依し奉る最捷の経路か」 その言に明瞭に示されているように、世界平和実現に向けてより根源的次元からのアプローチがより緊急であり、重要であると認識されるに至ったものと思われる。前回示した『価値創造』創刊号においては、宗教(法華経の肝心)を根底とした生活、思想変革運動としての規定が圧倒的になっている。 初代会長においては、「法華経の鏡に照らされると明瞭に暴露する」『価値創造』8号とあるように、一国謗法によって「現在の如き恐怖悪世の相を現出し釈尊の三千年前の御予言たる「末法濁悪」の世が現実に証明」(『価値創造』6,7号)されていたのである。 このことは後の「訊問調書」(昭和18年特高月報8月号掲載)に明言されているように「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法国である処から起きて居る」の認識に直結する。同様に敗戦濃厚になったことによって言い出したというような批判の無認識さも明瞭となろう。 そもそも「一国謗法」という認識が無かったというのであれば、既に日蓮正宗宗門において開戦直後に御書を捻じ曲げて国家神道の支えとする文書と呼応して、同様の賛美でもって『価値創造』に展開するはずである。しかし前回に示した通りの厳しい批判になっている。神札も妥協していて良かったはずであるが、拒否し、焼却しているのである。 このように初代会長は教育改革運動、宗教改革運動を通して人道的競争社会へのシフトを目指されたが、それは可能な限りの流布とその継続性を必要とする。運動全体の責任者、行動者であって、一個人次元での発言でなかった。ここに時代状況との苦渋も生じる。「どの次元で闘うか」という問題が常に突き付けられるのである。『価値創造』掲載の論を読むならば、いかに当時の状況やスローガンを換骨奪胎して、批判し、宗教運動を進めて行こうとされたかひしひしと伝わってくる。実践者の苦渋と共に力強い主張が伝わってくる。 ■ 三、最後の警鐘としての「法罰論」昭和十年代に入ると、日蓮大聖人の思想は、仏本神迹説、法が主で国は従であるとの説が不敬であるとされるに至った。国家神道による全体主義軍国体制において、「国家総力戦」を進めて行く過程と相容れなくなっていったのである。 1934年、「日蓮宗遺文削除問題」。内務省検閲課によって「昭和新修・日蓮上人遺文集」に、不敬にあたるとして、多数の指摘がなされ取締りがなされた。このことが報道されてから、日蓮宗(広義の意味で)は反国体的宗教と一般から見られるようになった。 1939年、宗教団体法公布。国民総動員に向けて文部省は内務省の意向を受けて教団統合を各宗教団体に指示。教団統合が進められていくなかで、日蓮宗各派への教義変更の要求が更に強くなる。 1941年の「皇国日報」には「日蓮思想は大不敬大叛逆極まる所を知らず・・・・・斯る日蓮宗に信教の自由は許すべからず」とある。 文部省による1941年8月(12月に日米開戦)の遺文削除問題。日蓮正宗宗門も、これを受けて8月24日に院達を出し、それまでの御書全集を発行禁止、祖書要典なるものを発刊するとした。9月29日には、御金言の14箇所削除を通達するに及ぶ。その削除内容は、仏本神迹説に関するものであるが、次のように注目すべきものがある。(信仰上の大問題は当然) 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり 上一人より下万民に至るまで之れを軽毀して刀杖を加え流罪に処すが故に梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」(聖人知三世事) 一国謗法による、内外の諸天からの、国への「治罰」が示されている個所である。 機関紙『価値創造』は、1942年5月の第9号をもって、当局により廃刊に追い込まれる。(9号発刊前に当局から出版社へ圧力)ここで、初代会長は「法罰論」をもって最後の掲載とされた。この「法罰論」は、1937年の「実験証明」の中の論を全文引用し、最後部分を補筆したものである。 何故、この論をぶつけて来られたのかは前述の流れからも推察される。この「法罰論」においては、「仏の慈悲に適う程の悪なのか、それとも既に地獄行きなのか」を問われている。加えて最後の部分は、日蓮宗全般、日蓮正宗に向けても、謗法の罰を警鐘されているのである。 「訊問調書」における「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法国である処から起きて居る」の言は、国家総力戦を進める権力の遺文削除問題等の流れや、その削除御文からも、ぶつけられた意味の一側面が分るのである。 なお1942年には、内務省検閲課は加藤文雅編「日蓮聖人御遺文」に対し千数百箇所の語句を「不敬」として、原版焼却せざるを得ないように追いやったことも付言しておく。 ■ 四、権力に畏怖された「価値創造」の語さて、ここで機関紙『価値創造』の名前について、時代状況からの視点で少し触れてみる。以下は、斎藤正二創価大教授が1996年の第三文明8月号、9月号に寄稿した論に従ってのものであるが、入手できる人は全論を読まれることをお勧めしたい。 この論で「価値創造」という「語」の使用それ自体は、大正デモクラシー知識人において、ごく当たり前の思惟的産物であったことを事例を通じて示される。大正デモクラシー思潮文化が一応の頂点を極めたとする1922年(大正11年)、その前年に開催された講演会の速記筆録「八大教育主張」に登場する八人の教育学者のうちの半数が、「価値創造」の術語(タームズ)を使っていると。 「斯く大正デモクラシー期自由主義教育思想家を引っ括る<共通分母>の役割を担う概念として『価値創造』の 語が存在していたことは、もはや誰も否定し得ないでしょう。大正自由主義教育理論は新カント派哲学やプラグマティズムを百%輸入し、人類的=普遍的な思考作用を鍛え様と意図していたから、その結果、『価値創造』の語を唱えるだけで国粋主義的・保守伝統的・軍事武断派的官憲当局の注意人物簿に記載される危険に曝されることを予じめ覚悟しておかなければならなかったほどです」 また斎藤氏は、大正デモクラシー期のクリスチャン、社会主義者も国家主義に対抗するべき「価値創造」の術語を連発している事実をあげます。論ではキリスト教社会運動家、賀川豊彦の「精神運動と社会運動」が事例報告されている。ここで斎藤氏は次のように言われる。 「なぜに『創価教育学体系第二巻・価値論』の書き出しを高畠素之著『マルクス経済学』からの引用で始めたか、次いで三つあとの段落で、なぜに雑誌『教育時論』1930年7月巻頭社説『価値の創造』を引用したか、牧口の真意に想到し得ます。牧口は『価値の創造』の概念=術語を人類普遍の科学的真理と考えていたが故に、吝しまず引用し、敢えて危険をも冒し、同時代の最高知を分ち合うことを幸福の一形式と観じました」 加えて斎藤氏は、大正デモクラシー末期には、右翼国粋主義の大立者である紀平正美でさえ、知的人間の未来に向う生きざまを、「価値創造」という術語で示している事例さえあると紹介しています。しかし、紀平は昭和一桁年代に入ると、2度と使用しなくなるばかりでなく、ひきつづき「価値創造」の語を使用する旧自由思想家に弾圧を加えようとの挙に出るとのことです。 また、佐藤熊次郎が、その著「文化と教育の諸問題」においては「価値創造」の語を七十数箇所も出しており、普遍性、人類性、時代的清新性が徹底して述べられているのにも関らず、同氏が昭和年代に入るや否や、偏執狂的に「価値創造」のモチーフ、記号を憎悪し、目の仇にし、扼殺抹消しにかかる様を示しています。 斎藤氏は「究竟、「価値創造」の語は、軍国支配化に、忌むべき個人幸福追求の自由主義思想の標識として"迫害の対象"となるほかなかった」のであるとし、牧口常三郎は、かりに超国家主義の押し付ける神札を拒否しなかったとしても、早晩、主知的自由主義思想家と目されて特高警察から逮捕されることになったはずであるとします。 初代会長は独創的価値論によって「価値創造」の哲学を世に問い、教育、宗教運動を進められました。昭和16年の7月(日米開戦12月)、「価値創造」の名をもって機関紙を発刊された初代会長の心、意図、強靭な決意が、ひしひしと伝わって来るではありませんか。 ■ 五、思想統制の実態を示す国防教育全体主義軍国体制が進める国家総力戦下において、「思想」もまた「資源」であったことは既に述べたが、このことを如実に示すものの例示として当時の出版雑誌から少し紹介しておきたい。このことにより牧口初代会長の闘いの意味がより鮮明になると思うからである。 日米開戦と同時に発足した「少国民文化協会」が発行した月刊雑誌に『少国民文化』がある。同協会は、軍部が意図する「戦力」としての児童育成の方針を国民各層に普及・徹底するための機関であり、一種の思想統制推進機関である。雑誌『少国民文化』は、その機関誌であると共に、国民全体の意識啓蒙を目的としていた。読者対象も、協会関係者ばかりでなく、児童・幼児の教育・育成に携わる大人全てとしていた。 昭和17年10月号に「思想戦と教育者」という論が掲載されている。この論は、「思想戦は近代戦の特質である」との書き出しで始まり、次のように「思想戦」を定義する。 「広義にとれば、大東亜戦争そのものが一つの大きな思想戦である」 そして、「近代戦において対外思想戦は主として当局者によって工作する他はないが、思想防衛こそは、国民一人一人によって決行する以外に方法はないのである」とし、「少国民練成にあたられる教師諸賢におかれては、この必勝の信念を堅持せられて、思想防衛の第一線戦士として驀進せられんことを切望」と結ばれている。 昭和18年二月号掲載の「国防教育と少国民」という協会関係者による座談会の中には、以下のようにある。 「ともかく戦争と云うものが総力戦になって来ているという点からして、国防教育と云うものは単に少国民を対象とした場合だけでなしに、すべての国民に対する国防教育と云うような点から言っても、是は狭い意味の、軍事訓練をやると云ったような意味の国防教育には解釈出来ない、もっと全面的に、むしろ国防教育そのものが国防教育でなければならない」「国防的な色彩をもった国防文化そのものが実は少国民文化の本来の姿」「教育の全体が国防教育であつても宜しい」とまで踏み込んでいる。 また同号の「時評」には、 「積極的に害毒を流すのは文化主義である。時局認識が不充分で表面協力しつつあるように見えるが、腹の底は自由主義の夢を忘れ切れず、その速やかな回復を祈るがごとくである」とあり、『少国民文化』が実は文化と無縁であったことも分る。 軍部当局は、検閲だけでなく、「少国民文化協会」のような支配化の団体を使って言論統制を強化していった。それに対して抵抗を試みたものは廃刊に追い込まれていく。前述の雑誌の「時評」において、朝日新聞社発行の少年雑誌『週刊少国民』へ手放しの称賛がおくられており、当時のマスコミの姿がここでもわかる。 全体主義軍国体制は、戦争を「必然」とする。当時においても、「国家総力戦」の意味も、思想、教育の役割も十分に一般に認識されていたのであり、かつ当局は徹底的に浸透させようとしたのである。それに抗することの意味は明瞭であったのである。 <参照/高崎隆治氏監修「ジャーナリズム研究 戦時下の雑誌は何をしたのか」> ■ 六、「神国思想」に突きつけた「神札拒否」「神札拒否」に関しても、時代状況における意味合いの一側面を示しておきたいと思う。 昭和14年4月8日には宗教団体法が公布され、翌15年4月1日より施行された。同法が国会に提案されるにあたり、松尾宗教局長は次のように語っている。 「もしも宗教団体あるいは教師等が教義の上から、わが国にをいて神社参拝を拒むような、あるいは人を参拝させないような、もしもそういう不料簡な真似をするようでございますれば、それは明らかに安寧秩序を紊す者である。少なくとも公益を害するといったようなことに相成ろうと存じますので、その点はひとつ本法によって厳に律して行きたい」 昭和16年3月10日には治安維持法「改正」法が公布された。改悪された治安維持法の第七条には、 「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ」と定められた。 伊勢神宮などを冒涜する結社の指導者が、重罪に処せられることとなったのである。伊勢神宮の大麻(いわゆる神札)を奉斎拒否することも、これ以降は神宮冒涜の一つと見られることとなる。治安維持法という悪法によって、国民は強制的に国家神道に思想統制されていく。(後年の初代会長の「公訴事実」について、「思想月報」百七号に、「牧口常三郎に対する治安維持法竝びに不敬被告事件公訴事実」として掲載されている) 同年7月『価値創造』発刊 同年12月8日、日本は米英に宣戦を布告、太平洋戦争に突入した。 講談社が発行していた「現代」の昭和18年七月号掲載の「日本宗教體制」という論には次のようにある。 「宗教生活が、ひろく人間生活の一形態であり、人間生活の国民生活を通してのみ現実化されていることを考へるとき、宗教に関するすべての理論、実践乃至諸活動が、国家、民族、政治、国民経済、国民諸文化乃至はそれらを総合した総力戦的国防体制と結びつかないわけにはゆかないのである」このような時代状況下において「神札拒否」は為された。 既に述べた種々の観点だけでなく、宗教的信念を貫き通すことも、軍国主義の国家総力戦においていかなる意味をもつかが容易に認識できたのである。仮に、宗教的信念の堅持のみで、国家総力戦の戦争遂行に賛成であったのであるならば、このような時代状況においては、そのことを積極的に宣伝、弁明をしなければならなかったはずであることは容易に推察できる。(されていない) 牧口初代会長の「神札拒否」は、もちろん宗教的信念によるものであるが、そのことが国家総力戦への意思表示であることも認識されていたであろうことは既に種々の観点から示してきた。「訊問調書」における、日支事変、大東亜戦争が謗法国であるところから生じているとの言にも明瞭に結びつくものである。 ■ 七、立正安国論に基づく国家諫暁牧口初代会長が「国家諌暁」を口に出されるようになったのは、昭和17年の11月頃からであると、証言にある。そこで「敗戦濃厚」になったからだとする批判について触れておきたい。 元中央公論編集長黒田秀俊氏著「もの言えぬ時代 回想の戦時ジャーナリズム受難記」に次のようにある。 「国民はほんとうのことを知らされていない。大本営の勝った、勝ったを真にうけて、あるいは真にうけないまでも、実情がどれほどひどいかを知らない。井上成美中将が米内海相にくどかれて、海軍兵学校校長から次官になって海軍省に着任したのは昭和十九年八月五日であった。戦況説明をきき、電報綴りをみて、はじめて想像以上にひどいことを知っておどろいたそうだから、一般国民が戦況の実情を知らなかったとしても無理はない」昭和19年の8月という戦争後期の海軍兵学校の校長であった人物でさえ、このような認識であった。 牧口初代会長が逮捕されたのは、その約1年前の昭和18年の7月である。(当時の朝日新聞にはミッドウェーは勝利(昭和17年6月)、ガダルカナルは転戦(昭和18年2月)と報じられている。国民生活の逼迫は益々悪化していたとはいえ、「敗戦濃厚になったから」というような意見は全く実情に即していないのである。 故に、昭和17年末の時期に「国家諌暁しなければ国が亡ぶ」と叫ばれた初代会長の胸中にあったものは、日蓮仏法の実践者であるならば「立正安国論」であったのは当然なのである。「立正安国論に始まり立正安国論に終わる」というのが日蓮仏法の精神である。 ■ 八、庶民の中に根ざした抵抗運動家永三郎氏は、その著「太平洋戦争」において、軍部の統制が強力になってからは、反戦の動きも「弾圧に対処するためにそれぞれ特殊な様態をとらねばならなかった」とします。氏は、一応次のように分類しています。 (1) 消極的抵抗 ア) 完全沈黙によるもの イ) 戦争を無視して良心的な仕事をするという形によるもの (2) 積極的抵抗 ア) 合法的抵抗 イ) 非合法的抵抗 そして、(1)のイや(2)のアのような場合、「弾圧を回避するために一応ある限度で戦争を黙示的・顕示的に承認するかのごとき偽装をとらねばならないことが多く、『便乗』と紙一重になったり、第三者から真意を的確にとらえがたい形をとらざるをえない」ことが、しばしばあったとします。 初代会長の運動は仏法者としての宗教運動です。あらゆる人に仏性があるとしての平和思想を広めていくことと、智慧の開発、その法の力による諸天の働きで平和世界を成すというものですから、何より多くの人々に広めていかなければならないという性格の運動です。その対象は、まず一般の庶民の生活そのものに関るものでした。そのことは次のようなことが少なくとも要請されると思います。 1. その時代の庶民に理解されなければならない。 2. その庶民をいかに弾圧から守るかということが常に要請される。 3. 可能な限り合法的でなければならない。 このようなことから、当時の時代状況下においても「韜晦」を必要とすることになります。まして異なった時代から見た時には一層わかりにくくなる言もありましょう。 私はこれまでに、いくつかの観点から、初代会長の言、行動の意味は当時の時代状況においても明瞭に認識され得るものとして取り上げました。故に、『価値創造』は廃刊に追い込まれ、創価教育学会の座談会や総会にも昭和17年頃から特高刑事が監視に現われるようになり、それは時を経て激しくなり、昭和18年頃には、ほとんどの会合は特高刑事の監視下で行われるようになりました。しばしば、発言を止められたり、座談会が中止させられるようにもなりました。会員を守るために相当の韜晦も為されても(例えば総会などでは、幹部による戦争肯定的と見える発言がある。特高監視下による事情も鑑みなければならない。 初代会長はそのような下でも、当時の指導者層を厳しく批判されている)、なお譲れぬ次元の闘争は一歩も引かずに闘われたのです。それは日蓮仏法者にとって根源の「一凶」と見なす次元への闘争である「神札拒否」であったものと考えます。(神札拒否が当時の体制側から如何なる意味を持ったかも既に触れました) 昭和18年5月に初代会長は警視庁と中野警察署に出頭を命じられ取り調べられました。(初代会長は、逮捕前に2回出頭を命じられているようです)同年7月、静岡県下田へ折伏へ出かけ、下田警察署の特高刑事に逮捕されました。それは闘争を貫かれる最中での逮捕でありました。 ■ 九、獄中での堂々たる国家諫暁牧口初代会長は、昭和18年7月6日朝、下田の須崎にて特高警察によって逮捕。下田警察署に一晩留置、翌7日に東京の警視庁に護送されました。警視庁5階に取調室があり、特高第二課長自らが初代会長の訊問に当たりました。 「訊問調書」の抜粋は、昭和18年8月号の「特高月報」に掲載されました。(牧口全集10巻に収納)この「訊問調書」の特高月報掲載は異例の扱いであったようで、当局側の認識が伺えるように思います。以下、一部抜粋です。 「問 法華経の真理から見れば日本國家も濁悪末法の社会なりや。と 特高の取調べに対し堂々たる主張をされています。 特に「立正安国論」を引用しての、 「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法國である処から起きて居ると思ひます。故に上は 陛下より下國民に至る迄総てが久遠の本仏たる曼荼羅に帰依し、所謂一天四海帰妙法の國家社會が具現すれば、戦争飢饉疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穩な幸福が到来する」 の部分は私もこれまで繰り返し指摘してきた部分で、突然表明した考えでもないことも指摘して来ました。 この部分は初代会長の闘争と分離しての、単なる現象説明や希望的理想を述べたものなどではありません。宗教的信念によって、このことを深く確信して来られたからこそ、宗教運動を展開し、神札を拒否し、軍国主義を批判してこられたのです。まさに立正安国論に基づき、現実の闘争から迸った、初代会長の堂々たる国家諫暁だったと考えます。 なお、次の立正安国論の一節も参考下さい。 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁せんには」 ■ 十、若き日からの平和思想と殉教の誉れ証言によりますと、初代会長は「この戦争を続けていれば国民が不幸になる」と口癖のように言われていたようです。そもそも初代会長は「人生地理学」の段階で、戦争そのものが「勝者無き」ことを現実的観点から示されてます。「人生地理学」に示された軍事的競争から人道的競争への論の抜粋を、やや長文でありますが掲示したいと思います。 「社会の進歩に伴うて生ずべき生存競争単位の変化をとともに、その形式もまたしだいに変化するを見る。その変遷の四大区別とみるべきものは、いわゆる軍事的、政治的、経済的および人道的の各競争時代これなり」 以上のように、ここには「戦争に勝者無き」こと、「不幸にして戦争になったならば早期に講和すべき」と論理必然する思想(「武力的戦争や一場の講和談判によりて、よく平和に回復せしむるをうべし」との言葉もあり)、結局は「人道的競争」の社会にしていかなければ幸福世界は無いことを明確に示されています。 現実に戦争渦中にあって、この戦争を日蓮仏法の視点から見た時には「亡国」になる罰の現証として生じているということが、「戦争に勝者無し」という思想に、後年に加わったのです。初代会長は「敗戦」「亡国」がどのような悲惨を民に与えるかを、ありありと体感される時代に生きてこられました。故に民が不幸のどん底になると予見される戦争が現実に突入しておる最中において、亡国になってもかまわない、敗戦してもかまわないという立場にはおられなかったと推察されます。 この推察は戦後に戸田先生が紹介されるものからのものです。(たとえば「『神札を拝んではあいならん。神さまなんか拝んでも、日本の国は勝てないぞ!』という学会の持論」など。なお私の調べた範囲では牧口先生自身が残された出版物等には出てきません)<戦後の戸田先生による紹介の背景のひとつには、蒙古襲来の際の日蓮仏法の祈りは亡国を求めるものであるという疑難が昔からあり、そのようなものではないこと、牧口初代会長も亡国を願った闘いではないことを強調されてのものがあるのではないかと思っています> 整理しますと次の様になると思います。 1. この戦争は「立正安国論」に示される通り、一国謗法によるところから生じている。 2. 戦争は現実的観点からも勝者を実質的に生じない。 3. 放置すれば「敗戦」「亡国」になる。 以上から当面の戦争への構想を以下の様に推測します。 <「一国謗法」によって生じているのであるから、その由来の根源を退治し、正法を確立すれば戦争を無くすことができる> <正法による諸天の加護と、為政者が正法受持により正しい判断と智慧を生じる> <講和>…出来れば一定の勝利が欲しいと考えておられたと思う。証言に依れば、日米戦争当初に二年ほどで大変な難局になることを国力の違いからも指摘しておられたようであるから戦線拡大のものではなかったはず。また敗戦による講和は日本も含めての帝国主義の例や第一次大戦敗戦のドイツの例を同時代として見聞きしてこられており、国民に大変な悲惨を強いると考えておられたと推測する。 <正法と創価教育による軍国主義の転換。人道的競走形式へのシフト> 初代会長が「罰論」を表に折伏をされたのは、価値論からの論理必然としてではありましたが、やはり時代状況と、その転換を急がれていたように思います。昭和17年末に「国家諌暁」を叫ばれたのも、その急ぎも感じます。「亡国」をありありと予見しておられたからであり、それを防ぐには時間があまりにないという見識であられたからと思います。 現実の戦争渦中として一定の勝利を願ったことをもって反戦思想・運動無しとするような論者からであれば、牧口初代会長は該当する可能性はありましょう。当時の一般認識として侵略戦争とは国民の多くが思っておらず、この点について初代会長が如何に考えておられたかを示すものは私はまだ持っておりません。(ただし、朝鮮や中国への宗教政策の批判はされています) しかし、いずれにしても初代会長は、反戦・平和への社会創出を目指して運動を進められたのは明確であると考えます。そして現実に軍国主義と闘い、獄死されたのです。 転載責任 魯の人 拝
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