月水御書
月水御書=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 月水御書(方便寿量読誦事)%% G0223 %% 執筆 文永元年四月十七日。四十三歳。 対告 大学三郎の妻。 文章表記および科文 魯ひと 2007/12/08 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= ◆01 第一の質問 毎日の所作について (s286.03,h300.15,p1199.04) 伝え承はる御消息の状に云く「法華経を日ごとに一品づつ二十八日が間に一部をよみまいらせ候ひしが、当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候。ただもとの様に一品づつをよみまいらせ候べきやらん」と云云。 ◆02 法華経の一句一偈の功徳は諸経に勝る (s286.05,h300.17,p1199.05) 法華経は一日の所作に、一部八巻二十八品、或は一巻、或は一品・一偈・一句・一字、或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只だ一遍となへ、或は又一期の間に只一度となへ、或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し、或は又随喜する声を聞いて随喜し、是体に五十展転して末になりなば志もうすくなり、随喜の心の弱き事、二三歳の幼穉の者のはかなきが如く、牛馬なんどの前後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく、舎利弗・目連・文殊・弥勒の如なる人の諸経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝たる事、百千万億倍なるべきよし、経文並びに天台・妙楽の六十巻の中に見え侍り。 ◆03 法華経一字の功徳は計り知れない (s286.12,h301.04,p1199.11) されば経文には「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説れて、仏の智慧すら此の人の功徳をばしろしめさず。仏の御智慧のありがたさは此の三千大千世界に七日、若しは二七日なんど、ふる雨の数をだにもしろしめして御坐候なるが、只だ法華経の一字を唱えたる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり。何に況や我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候ひなんや。 ◆04 末法は慢心を起こす世 (s287.02,h301.09,p1199.14) 然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかりになりて年久し。事にふれて善なる事ありがたし。設ひ善を作す人も一の善に十の悪を造り重ねて、結句は小善につけて大悪を造り、心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり。 ◆05 五障三従の女人の法華経信心を称賛 (s287.05,h301.11,p1199.16) 然るに如来の世に出でさせ給ひて候ひし国よりしては、二十万里の山海をへだてて東によれる日域辺土の小嶋にうまれ、五障の雲厚うして、三従のきづなにつながれ給へる女人なんどの御身として、法華経を御信用候はありがたし、なんどとも申すに限りなく候。 凡そ一代聖教を披き見て顕密二道を究め給へる様なる智者・学匠だにも近来は法華経を捨て、念仏を申し候に、何なる御宿善ありてか、此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生れさせ給ひけん。 ◆06 質問を連ねた消息文を讃歎する (s287.1,h301.15,p1200.03) されば此の御消息を拝し候へば、優曇華を見たる眼よりもめづらしく、一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏しき事かなと、心ばかりは有がたき御事に思ひまいらせ候間、一言・一点も随喜の言を加へて善根の余慶にもやとはげみ候へども、只だ恐くは雲の月をかくし、塵の鏡をくもらすが如く、短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠し、くもらす事にや候らんと、いたみ思ひ候ばかりなり。 ◆07 法華経一部も要品も題目も功徳は斉等 (s288.01,h301.18,p1200.06) 然りと云へども貴命もだす(黙止)べきにあらず。一滴を江海に加へ、シャッ火&G025159;を日月にそへて、水をまし、光を添ふると思し食すべし。先ず法華経と申すは八巻・一巻・一品・一偈・一句・乃至題目を唱ふるも、功徳は同じ事と思し食すべし。 譬へば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納たり。如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす。百千万億の滴珠も又これ同じ。法華経は一字も一の滴珠の如し。乃至万億の字も又万億の滴珠の如し。諸経・諸仏の一字・一名号は江河の一滴の水・山海の一石の如し。一滴に無量の水を備えず、一石に無数の石の徳をそなへもたず。若し然らば此の法華経は何れの品にても御坐しませ、只だ御信用の御坐さん品こそめづらしくは候へ。 ◆08 諸仏の証明を受けた法華経の文字 (s288.09,h302.07,p1200.13) 総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はねども、再び仏経を勘へたるに如来の金言の中にも大小・権実・顕密なんど申す事、経文より事起りて候。随つて論師・人師の釈義にあらあら見へたり。 詮を取つて申さば釈尊の五十余年の諸教の中に、先四十余年の説教は、猶うたがはしく候ぞかし。仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕さず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり。 法華経に於ては仏自ら一句の文字を、「正直に方便を捨てて但だ無上道を説く」と定めさせ給ひぬ。其の上多宝仏、大地より涌出でさせ給ひて「妙法蓮華経皆是真実」と証明を加へ、十方の諸仏皆、法華経の座にあつまりて、舌を出して法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成をそへ給へり。譬へば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し。 ◆09 世間の悪業に引かれない法華経の力 (s289.03,h302.14,p1201.01) 若し法華経の一字をも唱へん男女等、十悪・五逆・四重等の無量の重業に引かれて悪道におつるならば、日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも、大地は反覆する事はありとも、大海の潮はみちひぬ事はありとも、破れたる石は合ふとも江河の水は大海に入らずとも法華経を信じたる女人の世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず。若し法華経を信じたる女人、物をねたむ故、腹のあしきゆへ、貪欲の深きゆへなんどに引れて悪道に堕つるならば、釈迦如来・多宝仏・十方の諸仏、無量曠劫よりこのかた持ち来たり給へる不妄語戒、忽に破れて調達が虚誑罪にも勝れ、瞿伽利が大妄語にも超へたらん。争かしかるべきや。法華経を持つ人、憑(たの)もしく有がたし。 ◆10 法華経謗法が悪道の因 (s289.10,h303.02,p1201.08) 但だ一生が間、一悪をも犯さず、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・無量の戒を持ち、一切経をそらに浮べ、一切の諸仏菩薩を供養し、無量の善根をつませ給うとも法華経計りを御信用なく、又御信用はありとも諸経・諸仏にも並べて思し食し、又並べて思し食さずとも、他の善根をば隙なく行じて時時、法華経を行じ、法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、法華経を末代の機に叶はずと申す者を科とも思し食さずば、一期の間行じさせ給う処の無量の善根も忽にうせ、並びに法華経の御功徳も且らく隠れさせ給ひて、阿鼻大城に堕ちさせ給はん事、雨の空にとどまらざるが如く、峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし。 十悪・五逆を造れる者なれども、法華経に背く事なければ往生成仏は疑ひなき事に侍り、一切経をたもち諸仏・菩薩を信じたる持戒の人なれども、法華経を用ゐる事無ければ悪道に堕つる事疑ひなしと見えたり。予が愚見をもつて近来の世間を見るに、多くは在家・出家・誹謗の者のみあり。 ◆11 方便品・寿量品を読むべきこと (s290.08,h303.12,p1201.16) 但だ御不審の事、法華経は何れの品も先に申つしる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり。されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。又別に書き出してもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財の備はるが如し。寿量品・方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。 薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉、薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には此の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時時、御いとまのひまにあそばすべく候。 ◆12 第二と第三の質問 題目の唱え方と月経時の所作 (s291.02,h303.18,p1202.05) 又御消息の状に云く「日ごとに三度づつ、七つの文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とをば日ごとにし候が、例の事に成つて候程は御経をばよみまいらせ候はず。拝しまいらせ候事も一乗妙典と申し候事もそらにし候は、苦しかるまじくや候らん。それも例の事の日数の程は叶うまじくや候らん。いく日ばかりにて、よみまいらせ候はんずる」等と云云。 ◆13 月経は不浄にあらず (s291.06,h304.04,p1202.08) 此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問はせ給ひ候御事にて侍り、又古へも女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども、一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に、証文分明に出したる人もおはせず。 日蓮粗ぼ聖教を見候にも酒肉・五辛・婬事なんどの様に不浄を分明に月日をさして禁めたる様に、月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり。在世の時多く盛んの女人、尼になり、仏法を行ぜしかども月水の時と申して嫌はれたる事なし。是をもつて推し量り侍るに、月水と申す物は外より来れる不浄にもあらず。只だ女人のくせ・かたわ・生死の種を継ぐべき理にや。又長病の様なる物なり。例せば屎尿なんどは人の身より出れども能く浄くなしぬれば・別にいみもなし。是体に侍る事か。されば印度・尸那なんどにもいたくいむよしも聞えず。 ◆14 風俗、世法の波を乗り切る随方毘尼の智慧 (s292.01,h304.10,p1202.15) 但だ日本国は神国なり。此の国の習として仏・菩薩の垂迹、不思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに、是をそむけば現に当罰あり。委細に経論を勘へ見るに、仏法の中に随方毘尼と申す戒の法門は是に当れり。此の戒の心はいたう事かけざる事をば、少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違うべからざるよし仏一つの戒を説き給へり。 此の由を知ざる智者共、神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を申して、多くの檀那を損ずる事ありと見へて候なり。若し然らば此の国の明神、多分は此の月水をいませ給へり。生を此の国にうけん人人は大に忌み給ふべきか。 ◆15 悪知識に口実を与えない賢明な振る舞いを (s292.07,h304.16,p1203.02) 但だ女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候か。元より法華経を信ぜざる様なる人人が、経をいかにしても云ひうとめんと思ふが、さすがにただちに経を捨てよとは云いえずして、身の不浄なんどにつけて法華経を遠ざからしめんと思ふ程に、又不浄の時、此れを行ずれば経を愚かにしまいらするなんどおどして罪を得させ候なり。 此の事をば一切御心得候ひて、月水の御時は七日までも其の気の有らん程は、御経をばよませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひ候へ。礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給ふべし。又不慮に臨終なんどの近づき候はんには、魚鳥なんどを服せさせ給ふても候へ。よみぬべくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱へさせ給ひ候べし。又月水なんどは申すに及び候はず。 ◆16 題目は南無妙法蓮華経と唱えるべきこと (s293.01,h305.04,p1203.08) 又南無一乗妙典と唱へさせ給ふ事、是れ同じ事には侍れども、天親菩薩・天台大師等の唱へさせ給ひ候ひしが如く、只だ南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべきか。是れ子細ありてかくの如くは申し候なり。穴賢・穴賢。 ◆17 日付など (s293.05,h305.08,p1203.12) 文永元甲子四月十七日 日蓮花押 大学三郎殿御内御報 ●凡例 表記について
2、ただし、「問ふて」など、「て・た・たり」の上に「ふ」は付かないという原則に従って、「問うて」と表記した。これはウ音便になるからである。 3、御書全集では多く促音便が使われている。例えば「随つて」「取つて」「成つて」など。これを通常の「随ひて」「取りて」「成りて」に変えるかの判断があるが、今は御書全集にしたがった。 4、送り仮名については現代風に多くした。 5、ただし、「云く」「以て」「於て」など常用語は煩雑を避けるため従来どおりとした。 6、表記にめりはりをつけるため、「只」「猶」の後に漢字が連続する場合には、置字をほどこして「只だ」「猶ほ」のようにした。 7、限定および、補足を意味する「但」は、「ただ」と読む場合、強調して「ただし」と読む場合があるが、その区別をどこでつけるかという判断がある。多くは通例に従っているようであるが、根拠不明である。日蓮の真蹟および録内本では「但」とあるのみで区別をつけている例を知らない。「但」は現代語では通常「ただし」と読むが、法華経の訓読では「ただ」と読むのが一般である。日蓮は法華経の通例に従ったと思われるので、「ただ」に統一し、「但だ」と置字表記した。 8、中黒点「・」は単語の並列点以外には用いないようにした。 9、以上のような操作は、日蓮の言葉の一字一字に強いこだわりを持つからである。識者の批正とご教授を乞う。なお、日蓮の実際のかな表記はいわゆる変体仮名を用いており、仮名送りの方法も現代と違うので、原文表記の通りにすると、特殊フォントが必要になるし、専門の学者でなければ読めないことになる。 からぐらの風・indexへ | |