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信仰心の蒸発 2008/03/26





★からぐらの風 #0061 --------------------------------------2008/03/26
----☆信仰心の蒸発☆--------------------------------------------------

 一部の知識人の間で、ブッダは信仰を説かなかったとか、信仰を否定したという議論がある。この議論の多くは、たとえば中村元氏が、『スッタニパータ』の1146番偈の訳出で「信仰を捨てよ」という表現を使ったこと、およびその解説文に端を発しているようである。ブッダは信仰を説いたのではなく哲学を語ったのだと。
 中村元氏の真意がどこにあったかは分からないが、このような議論は理に合わない。

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 中村元氏が訳した『スッタニパータ』の当該文は次のものである。

 「[ブッダは言った。]ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」(スッタニパータ1146、中村元『ブッダのことば』岩波文庫)

 そして、その巻末解説(同書p431)において、中村氏は「『信仰を捨て去れ』という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する」とした上で、「最初期の仏教は〈信仰〉なるものを説かなかった。何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである」としている。

 しかし、ここではある重要なことが忘失されている。それは在家信徒の存在である。パーリ仏典には、ブッダの成道の直後すぐ、二人の在家信徒が誕生したことを伝えている。

「タプッサとバリッカという二人の商人は、幸あるお方に、次のように語りかけた。『尊いお方よ、幸あるお方は、私たちのために麦菓子と蜜団子とを受け、私たちが長夜にわたって利益と安楽とを得るようにしてください』と。」(パーリ律「大品」四、ラージャーヤタナ樹の話→引用文献注)

 ブッダは二人の供養を納受して、麦菓子と蜜団子を食したのである。もし、ブッダが彼らの信仰を否定したのであれば、ブッダは単に二人から施しを受けたに過ぎなくなる。施しに対してなら、お礼を言うのがすじ道であろう。しかし、ブッダはお礼を言わず、彼らの信仰帰依を認めたのである。

 「時に、タプッサとバリッカという二人の商人は、幸あるお方が鉢と手をお洗いになったのを見て、幸あるお方の足に頭をつけて礼拝し、幸あるお方に次のように語りかけた。『尊いお方よ、ここに私たちは、幸あるお方と正しい教え(真理・法)とに帰依いたします。幸あるお方は、私たちを信者(優婆塞)としてお受け容れ下さい。今より命終わるまで帰依いたします』と。彼らは、世間において初めて二帰依を唱えた者となった」(引用同上)

 二帰依というのは、この時点では、まだブッダには弟子もおらず、サンガができていないため、三帰依が整足しないからである。このあと、五比丘の入門があり、サンガが出来、以降、入信や入門に際しては仏法僧への三帰依を唱えるのが通例となった。

 在家信徒に「三帰依文」を唱えさせ、その供養を受けて生活しながら、信仰を説かなかったなどというのは、道理に合わない話である。このように現実に即して考えれば、すぐにわかりそうな事が忘失されているのは、日本の多くの知識人の仏教論議がいかに現実に根ざしていない、底の浅いものであるかを暴露している。

 ブッダは、目の前の民衆の生活を直視していたはずである。だからこそ、自らの悟りの世界に安住しないで、外に向かって法を説きだしたのではなかったか。

 また、ブッダが語ったという「信仰を捨てよ」という話は、単に在来の神々への信仰や土着宗教への信仰を捨てよと述べたものと解するほうが自然だと思う。

 たしかに、現今の諸宗教の実態を知るにつけ、無防備な信仰の恐ろしさを痛感させられる。宗教に関わりたくないという気持ちも理解できないではない。しかしブッダは極端から極端へ流れることを制止し、中道を説いたのではなかったか。

 無防備な信仰とは、ムードの信仰である。信徒にものを考えさせない信仰である。生活習慣に溶け込んでものを考えない土着の信仰である。

 それをブッダは「捨てよ」と言ったのだ。

 中道を求めず、信仰を否定してしまった人々は、皮肉なことに擬似信仰に絡め取られているように思われる。擬似信仰というと「スピリチュアル」などという横文字で斬新なイメージを持たせているが、つまるところその実態は、占いや霊能力であるとか、過去世の因縁であるとか、霊障降ろしとかいった、昔ながらの神様信仰に過ぎないのである。

 ブッダは、そんな信仰を捨てよと言ったのである。

 イメージで誤魔化されてはならない。また、自らが仏教信仰の中にいるからといって、そこに安住してはならないとも思う。安住した所にはすでに信仰はない。仏典や御書の真摯な研鑽もせず、「功徳、功徳」と語る連中など相手にしてはいけないと思う。仏法は道理であり、生き方だと思う。ブッダも日蓮も功徳を語った。しかし、似非者が説く、えこ贔屓な功徳ばなしなど、百パーセント偽ものなのだ。

 私は、ここで特定の信仰を説くつもりは全くない。特定の宗教だけが正しいというつもりもない。しかし、信仰心の希薄化は、そのまま人間関係の希薄化につながっているように思われる。家庭の崩壊、地域社会の崩壊、学校の崩壊、組合の崩壊、会社社会の崩壊…、

 ひとつ屋根の下に生活しながら、本音の会話もなく、お互いに無関心で、付き合う友人とも本音では語らない。唯一、本音を出すのは、匿名のバーチャルなネット社会だけ…。そして携帯だけが命綱と…。

 ここに現代社会の病根がすべて集約されてある。この問題に眼を向けられず、有効な対応が出来ない宗教はすでに死んだ宗教だと思う。

 いつのまにか、社会から信仰心が蒸発してしまっているのである。家族の心、友の心、そして自分自身の心さえ信じられなくなっているように思われる。

 ブッダのように、日蓮のように語りかけよう。「友よ、瑞々しい信仰心と、感動を取り戻そう」と。

----☆引用注など☆----------------------------------------------------

引用のパーリ仏典は、パーリ律蔵『大品』(マハーヴァッガ)

翻訳者と翻訳文の収録は、以下による。

宮元啓一著『仏教かく始まりき』――パーリ仏典『大品』を読む――
2005年、春秋社

収録書のまえがきによると、
『大品』全十部のうち第一部の第一章から第四章半ばまでの全訳とある。

魯ひとは、当該書から、仏典部分をすべて書き出し、別途自家製本して活用している。この書に限らず、これはと思う仏典に遭遇すれば、労を惜しまず書き取るようにしている。研鑽方法としては有効だと思う。

この方法は、日蓮や日蓮の弟子たちがやっていたことでもある。

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