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実りある対話のために 2008/03/19





★からぐらの風 #0060 --------------------------------------2008/03/19
----☆実りある対話のために☆------------------------------------------

 おかげさまで当レターも60号となった。こうした文章が綴れていくのも、読者の皆さまの触発のおかげである。また、読者がいればこそ、書き続ける励みにもなる。あらためて御礼申し上げたい。ということで、今回は対話について述べてみたい。対話の良さは、立場や意見の違う者の出会いによって認識が深まったり、新しい認識が生まれるところにある。だから対話を論理学で弁証法ともいう。仏法でいう縁起もまた弁証法であり、対話の原理である。

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 日蓮の「立正安国論」も見事な対話篇であり、日蓮は各種の弁証法を駆使している。その一部は『日蓮自伝考』でも紹介した通りである。弁証法は矛盾を解消し、認識に質的転換をもたらす不可欠で高度な論理といえる。

 しかし、一口に弁証法といっても、色々あって、ある種の胡散臭さがつきまとう。なかには「弁証法」という言葉を聞いただけで拒絶反応を示す人もいる。気持ちは理解できるが極端な例であろう。極端から極端に走るのはやはり正しい認識とはいえない。

 弁証法を正しく認識するためには、まずその問題点を認識するのが先決ではないかと思われる。それは対話が対話にならない例を挙げればすぐに了解されるであろう。

 相手をやっつけようとする対話、上からものを言うような対話、相手を試すような対話、独りよがりな対話、かみ合わない対話、仕組まれた対話、空理空論をもてあそぶ対話、ゲームのような対話、揚げ足取り、…

 (批判は、より深い認識に至るための不可欠のアンチテーゼであって、やっつけることとは違う。)

 そこでは対話といっても、相手を認めていないのであるから、声の大きい者が勝ち、弁の巧みな者が勝ち、体調の悪い者、気の弱い者、多忙な者は沈黙をせざるを得ない。そこでは偶然性に大きく支配されているわけであるから、そこでの結論は真理とはいえない。議論は深まっていかない。

 縁起の立場からいっても、そこからは新しいものは生起してこない。
 中論「ものが有るときにも、無いときにも、そのものにとって縁は成立しえない」(中村元『ナーガアルジュナ』昭和55年、講談社、p267)

 対話法の上で、この言葉を応用すれば、「ものが有るとき」とは、相手に含むものがあるとき、決め付けがあるときのことである。こういうときには対話としての縁起は発動しない。喩えとして布地が真っ黒であれば、染めることはできないとする。

 逆に「無いとき」とは、相手にこちらを理解しようとする意志がないときである。こういうときにも縁起は発動しない。

 ブッダは、こういう時には、「止論」といって沈黙で応じたようである。

 大乗仏教、なかんずく法華経になると、こういう場合を逆縁といって、自らの忍耐、忍難によって相手の心を開こうとした。逆縁とは逆「縁起」でもある。しかし、これは通常の対話法の範疇に入らない。その場合に決め手になるのは言葉(ロジック)ではなく、行者の振る舞いであり、声の響き(言葉)であったろう。

 ともあれ、実のない対話に、いつまでも関わっているのは愚かなことだ。体力に自信のない魯ひとなどは、残された時間がいとおしい。罵倒は甘んじて受けてさっさと退散したいと思う。

 このような弁証法の問題点、隘路を理解した上であれば、弁証法は本当に便利なツールとして活用ができる。形式論理の演繹法なども、質的変化を論じるのを不得手とする。いかなる論理であれ、論理を万能とすれば、閉じられた世界に引きこもってしまうことになる。論理に引きずられるのではなく、論理を活用していきたい。

 さて、よくできた弁証法の例として「立正安国論」を紹介しよう。この書を単に法然浄土宗批判として読むのは、的を得ていない。その本質はむしろ、王法と仏法の対話にある。旅客が代表するのは「王法」、つまり政治的立場から物事を見ていく視点である。主人はもちろん仏法の視点。

 (この旅客を北条時頼だとする解釈が古来一般に取られているが、それでは「立正安国論」を矮小化することとなろう。)

 この書が「対話篇」として優れている第一の点は、相互の視点を認め、決して一方が一方を克するという展開になっていないことである。もちろん、議論は激しくぶつかり合い、旅客は途中で帰ろうとする。それを主人は笑みを含んで押し止め、辛抱強く語りかける。そういうなかで旅客に変化が生じ、旅客が自ら新しい結論を開いていくのである。

 そこで使われている言葉は中世の言葉であって、いささか古びてみえるが、その元意をとらえるならば、王法と仏法という二つの視点からの対話は、今日においても決して古びてはいない。この「立正安国論」の真蹟遺墨は国宝に指定されているが、日蓮の遺墨としてではなく、日本人が書いた破格の対話篇としてこそ国宝の価値があると私は思う。後にも先にもこれほどの対話篇は存在しない。

 よく誤解されるが、問答体でありさえすれば、対話篇ではない。弁証法ではない。通常、世間でも物事を分かりやすく説明するために、落語の熊さん、八さんとご隠居の掛け合いが応用される。しかし、それは主張したいことがまずあり、それを主張するために、役者に台詞を分担しているにすぎない。いってみれば、熊さん、八さんは、司会者、引き立て役であり、本質的には隠居の一人語りというべきであろう。そこには質的な高まりが見られない。

 「立正安国論」は、やはり日蓮の華であり、主著なのである。明治の優陀那日輝以来、「立正安国論」を時代遅れの書として排除しようとする動きは絶えずあるが、無理解もはなはだしいとしなければならない。

----☆語義および参照資料☆--------------------------------------------

対話篇: 対話のお手本となる書物。古代ギリシャのプラトンが書いた「ソクラテスの弁明」や「クリトン」などがある。

中村元『ナーガアルジュナ』昭和55年、講談社は、『世界の知的遺産』シリーズの一冊であるが、近年、普及版として講談社学術文庫に中村元著『龍樹』が刊行されている。両者の比較はしていないが、ともに『中論』の現代語訳が収録されている。
『中論』の現代語訳テキストとしては、他に三冊本でレグルス文庫に三枝充悳訳『中論』がある。

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