そして大乗のこころ 2008/03/16★からぐらの風 #0058 --------------------------------------2008/03/16 ----☆そして大乗のこころ☆-------------------------------------------- 前57号のつづき。「僧院を退出して山林へ」という呼びかけは、法華経にも散見される。それが「ブッダの心に帰れ」という運動だったことは前号で述べたとおりである。その場合、大乗派の人々が捉えた「ブッダのこころ」が取りも直さず「大乗のこころ」「大乗の原点」ということになる。では彼らは、ブッダのどこに大乗の原点を見ていたのであろうか。それは法華経方便品のなかに極めてストレートに表現されている。 --------------------------------------------------------------☆☆---- まず、法華経に見える「山林へ」という呼びかけの痕跡を拾い出してみよう。 序品「菩薩の勇猛精進し、深山に入って仏道を思惟するを見る」(法84) 序品「菩薩の諸の戯笑及び癡なる眷属を離れ、智者に親近し一心に乱を除き、念を山林に摂め億千万歳、以て仏道を求むるを見る」(法86) 安楽行品「又た自身は山林の中に在って善法を修習し、諸の実相を証し、深く禅定に入って十方の仏を見たてまつると見ん」(法449) 先にも述べたと思うが、山林に交わるという表現は、大乗のシンボル的表現なのである。 ただし法華経は、末世には、大乗菩薩の中から、山林に交わること、つまり大乗を自らの飾りとして、権威として、まじめな修行者や民衆を睥睨し、利用し、抑圧する者が出てくるという予言をしている。いわゆる僣聖増上慢のことである。僣聖増上慢は大乗菩薩の姿で現れる。 勧持品「或は阿練若に納衣にして空閑に在って、自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤する者あらん。利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて、世の恭敬をする所と為ること六通の羅漢の如くならん。是の人は悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮って好んで我れ等が過を出さん」(法418) 歴史は繰り返されていくのである。しかし、私たちはその度に、ブッダのこころ、大乗の原点に戻ればいい。その原点はどこにあるか。法華経方便品に示されるのは、あの根本逡巡と梵天勧請の話である。このレターの第44号でも引いたが煩をいとわず再引しよう。 我れは始め道場に坐し 樹を観じ亦経行して 三七日の中に於いて 是の如き事を思惟しき 我が得る所の智慧は 微妙にして最も第一なり 衆生の諸根は鈍にして 楽に著し癡に盲いられたり 斯の如きの等類 云何がして度す可きと 爾の時に諸の梵王 及び諸の天帝釈 護世の四天王 及び大自在天 並びに余の諸の天衆 眷属百千万は 恭敬合掌し礼して 我に法輪を転ぜんことを請す 我即ち自ら思惟すらく 若し但だ仏乗を讃めば 衆生は苦に没し 是の法を信ずること能わじ 法を破して信ぜざるが故に 三悪道に墜ちなん 我れは寧ろ法を説かず 疾く涅槃にや入りなん(法140) なぜ、これが「大乗の原点」なのか。 ブッダはこの逡巡の末に、自らの無我と禅定の境地、悟りの世界を捨てたのである。何ものにもとらわれない絶対の境地に到達したのであれば、流転していく衆生にこだわる必要などなかったのである。民衆とか慈悲とかに執着する必要もなかったのである。民衆とて諸行無常の虚仮の存在に過ぎず、ほうっておいても、やがてはすべて滅に入る存在である。速やかに無余涅槃に入ればよかった。 しかし、ブッダは、そこを捨てて民衆救済のための教化の行動を起こしたのである。「ブッダは哲学であり、慈悲とか宗教とは無縁である」という学者は、このブッダの出発点を忘失していると思う。まさか理解できていないとまでは言いたくない…。 僧院を捨てて、山林に交わった大乗菩薩たちは、この「ブッダのこころ」を我が心としたのである。大乗菩薩たちは、長老派と争わず僧院に残って、自らの修行の完成、阿羅漢としての解脱の道を目指す道もあったはずである。その方が、どれほど心静かで、癒しと安らぎがあることであろうか。しかし大乗菩薩は、僧院を捨て、解脱の道を自ら捨てたのである。そしてブッダの衣鉢を継いだのである。 山林に交わったのは自らの少欲知足の生活と活動の拠点を立てるためであったと思われる。後世のような隠棲が目的ではない。山林を拠点として自らの振る舞いを示し、積極的に人々に法を語り始めたのである。 天台も伝教も日蓮もこの道を歩んだのである。省みて、わが振る舞いや如何。心に恥ずるものなきか。 さて、禅定を捨てて、何を説くのかという疑問も当然出てくるかも知れない。しかしブッダが捨てたのは自己完結、自己目的化した禅定である。形式化し固定化した禅定である。大乗の説く禅定はもっとシンプルで自在である。わたしは、真の禅定とは、ブッダと同じように民衆と交わり、民衆と同苦していく中にあると思っている。 大乗菩薩は六波羅蜜を行ずという。この六波羅蜜のなかに禅定はある。しかし、法華経の立場はさらに進んで次のようにいう。 一代聖教大意「我等六度(六波羅蜜)をも行ぜざるが、六度満足の菩薩なる文、経に云く、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(s70.12,h95.18,p401.10) そう。日蓮が立てた題目修行と悩める人々の心の中に飛び込んでいく同苦の実践のなかにこそ、ブッダの悟りが息づいているのであり、それが法華開会の禅定である。 ブッダの残したアーガマには真理はある。しかし、法華の開会がなければ時代を開くものは何も見えてこないのではないか。原点回帰は懐古でも、歴史の巻き戻しでもない。新しい時代への質的昇華だ。それが私の理解である。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |