大乗仏教と山林 2008/03/12★からぐらの風 #0056 --------------------------------------2008/03/12 ----☆大乗仏教と山林☆------------------------------------------------ 前(55号)回では、大乗の興起について述べたが、いろいろ賛否両論の反響があった。お声はお声として拝聴したいと思う。魯ひととしては、ここで読者と論争をするつもりはないが、大乗仏教のその後の歴史ともからめて、魯ひとの見解を補足しておきたいと思う。私が平川彰氏の説をとらない理由は、その後の大乗仏教の展開を考えるとやはり不自然だと思うからである。 --------------------------------------------------------------☆☆---- 大乗仏教がインドから消滅した理由として、従来説明されて来たのは、インド教たるヒンズーへの同化吸収説である。しかし、同化されてしまうのは自らの仏教としてのアイデンティティを見失っているからである。ジャイナ教などは決して同化されることはなかった。 この説に立てば、大乗仏教がインド社会に根付いていなかったことを、なおのこと証明するばかりである。 次に、当時の大乗菩薩の存在から、民衆仏教の存在を指摘することも可能かも知れないが、現在における在家と僧侶の対立の図式を、古代のインドに投影させて論じるのは間違いだと思う。 在家を民衆といい、僧侶を特権階級などというのは今日的なあり方からの決め付けに過ぎない。私は、宝冠を冠り、宝石を身にまとったいわゆる大乗菩薩が民衆だとはとても思えない。どうしてあれが民衆の姿であろうか。 結論づけて言うならば、法華経は彼らを迹化の菩薩、他方の菩薩として退けたのである。 維摩詰のような人も、いわゆる長者といわれ、巨万の富をもった特権商人に過ぎない。そして怪しげな術を使って舎利弗を翻弄する維摩詰の姿に、私は何の共感も覚えない。むしろ質素で、維摩詰に翻弄されて泣き顔をしている舎利弗の方に人間味を感じると正直に告白しておこう。 大乗興起のこの時期に在家と比丘が対立していたとは思われない。なぜなら在家の支持がなければ比丘たちは生活できないからである。(仏教教団のシステムとはその均衡に成り立つ。のちに日蓮が堕落僧への供養を断てと言ったのもそこにある)対立はあくまで長老派と大乗派の対立であろう。在家はその余波を受けて長老派を支持する者と大乗派を支持するものに二分されたと考えるのが順当ではないかと思われる。 歴史は、明確な遺物の上から証明されねばならない。単なる史観と机上の理論で割り出されることは、すべて仮説にすぎない。大乗教団が古代インドにあったという明確な根拠は今も発見されていないと思われる。自分たちの思い込みの上で、イメージをいくら膨らませても、幻想はいつか醒めてしまうものである。 前回紹介したショペン氏の説に対しては、インド哲学の定方晟氏から学術的な批判がなされていることも読者からご教示いただいた。その他、賛否こもごもの議論があるよしである。 ただ、魯ひとはショペン氏の説を無批判に受け入れているわけではない。平川彰氏の説に対しても参考文献を挙げて公平に対処していると思う。その上で、ショペン氏の説に触発されて自ら思索したことについて述べているのである。ご理解を請う。 ショペン氏の説でなお、注目するところは、僧院を離脱した大乗派の比丘たちが、最初に目指したのは周辺の山林であるということである。積極的に「山林へ行こう」という呼びかけが僧院内でもなされたという。そして、山林にこもって厳しい苦行を行なっていたという。 私が、この話から反射的に思い浮かべたのは、南都の僧院に絶望して、そこを離脱して比叡山の山林に分け入った伝教大師最澄のことであった。鎌倉(広い意味で僧院ともいえよう)を退出して身延の山林に分け入った日蓮のことであった。 ともに論湿寒貧(ろんしつかんぴん)という厳しい環境に身をさらし、少欲知足という質素な生活を自らに課したのであった。二人とも本来頑健な体であったのに比較的短命に終わったのは、そのためであろう。 明らかに大乗草創期の精神を最澄や日蓮は継承しているのである。 古代インド人と日本人の共通しているところは、教義内容よりも行者の行体、振る舞いを重視する点ではないかと思われる。人々は高邁な理論にはあまり反応しない。それよりも行者さん、修行者の姿振る舞いをみてストレートに尊敬の気持ちを表すことである。 インドの人々が僧院を飛び出した大乗の比丘たちに供養を捧げたのは、そういう厳しい苦行に身をおいたがゆえである。 叡山に篭った最澄に和気氏や桓武帝が信仰を寄せたのもその姿に打たれたからであった。 身延に篭った日蓮のもとに、信徒たちが競って供養を捧げたのも、そういう日蓮の姿に打たれたからであった。 「煩悩があるのが人間」だとばかりに、ふやけた生活をしている現代日本の大乗仏教のどこに大乗の精神、日蓮の精神があるのか。大乗の原点に帰るべきだろう。 誤解しないでもらいたい。私は山岳仏教を提唱しているのではない。本来の大乗精神、日蓮の精神を取り戻せといいたいのである。 「不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候けるぞ」(s1397.05,h1174.12,p1174.14) --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |