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大乗の興起と流転 2008/03/10





★からぐらの風 #0055 --------------------------------------2008/03/10
----☆大乗の興起と流転☆----------------------------------------------

 古代インドにおける大乗仏教の興起と流転に関しては、依然として謎が多い。今日一般には平川彰氏の唱えた仏塔信仰と菩薩ガナの存在についての仮説が説明として用いられているが、必ずしも普遍的な説得力をもたない。とくに大乗仏教がインドに大きく広がったという物的根拠がなく、大乗仏典を読んで感じる印象からも、インドでは少数派に過ぎなかったのではないかと思われる。

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 むしろ大乗仏教は、インドに生まれながら、インド社会に根を張ることに失敗したのではないかと思われる。それゆえに周辺に追いやられたか、少数派としての住みにくさから、大乗教徒たちは、新天地を求めて積極的にインドからの脱出を図ったように思われる。

 このような新しい視座を与えてくれるのが、次の書籍である。
 『大乗仏教興起時代――インドの僧院生活』2000年、春秋社
  グレゴリー・ショペン著、小谷信千代訳

 ただ、この書は、内容の衝撃性にも関わらず、学者さんの論文という性質が強く、一般の読書子にはきわめて読みにくいものとなっている。魯ひとなども最初は図書館から借り出したものの、ほとんど読まずそのまま返してしまった。

 その後数年を経て、やはり気になるので、やっと今回読了できた。一般読書子には、その序章「インドと中国における仏教の展開」と、最後の「訳者あとがき」だけでもお勧めしておきたい。

 ともあれ、本書によると、大乗仏教は、部派(いわゆる小乗→この言葉は使うべきでない)とは別のところで生まれたのではなく、他でもない部派の僧院の中で生まれたものであろうとする。

 これは大乗経典の内容から言っても、きわめて説得力のある話で、法華経をはじめ、ほとんどの大乗経典は部派の持つアーガマ(阿含経)を題材とし、豊かなアーガマによる教養を裏づけとしているように思われる。アーガマがなければ、法華経も、般若経典も、その他の大乗仏典も生まれなかったであろうというのが現在の魯ひとの結論である。

 アーガマは、決して言われるような小乗経典ではなく、大乗的要素を多分に含んだ多様性をもっている。現代にそれを読んでも、その普遍性と瑞々しい感性にただ驚くばかりである。触発性たるやもちろんである。

 こうして成立した大乗経典は量的にも一生かかっても読みきれない膨大なもの(例えば大正蔵経)になっているが、それだけの豊かさと生産力をアーガマ自体が持っていたというべきであろう。

 だが、同じ僧院で学び、生活しながら、保守派の僧侶、長老たちは、伝統解釈を離れる大乗派の勝手な経典の読み方に強い不快感を抱いたことであろう。時に厳しく取り締まり、大乗派を排除するということもあったのではないか。

 大乗経典はまさに、そのような大乗派と長老派の対立の中で形成、成立していったものと思われる。だから両派の対立の構図と痕跡が大乗経典の端々に現れているのである。

 だが、僧院内での対立は、やがて不幸な経過をたどっていったようである。大乗派はやがて異立義として僧院から追放されたか、自ら飛び出していったものと思われる。僧院を追放されたり、離脱した大乗派は初期には周辺の山林を拠点として長老派と抗争(論争)していたようであるが、やがて意を決して新天地をもとめてインドを退出していったと思われる。

 「チナ(中国)へ!」、ヒマラヤを越え、砂漠を越えた北東のかなたにあるという、巨大帝国チナの名は、大乗派の夢をかきたて、大きなロマンを生んだことであろう。

 このあたりの事情を物語るひとつの挿話が日蓮の著作にも見えている。

 曾谷入道殿許御書「肇公の翻経の記に云く、大師須利耶蘇摩左の手に法華経を持し、右の手に鳩摩羅什の頂を摩でて授与して云く、仏日西に入りて遺耀将に東に及ばんとす。此の経典、東北に縁有り。汝慎んで伝弘せよと云云」(s909.08,h789.14,p1037.17)

 鳩摩羅什の師匠である須利耶蘇摩が、法華経を東北の国、中国(日蓮は日本と解釈したが)へ伝えることを委嘱したという話である。この話は単なるロマンではなく、「仏日西に入り」という表現にもインドを脱出せざるを得ない大乗派の複雑な心情を伝えて余りある。

 こうしてインドから大乗仏教が消滅していった。だが長老派・部派仏教が、大乗派を異立義として追い出したことは、結果しとして、自らのうちにあるもっとも瑞々しい信仰心、躍動する部分、生産性を切り捨てたことを意味している。それゆえ、大乗派のインドからの退出と同時に部派仏教自体も活力と民衆の支持を失ってしまうことになってしまった。

 かくしてイスラム勢力がインドに侵入してきた時、仏教寺院は彼らの格好の標的となった。仏教以外のジャイナ教やヒンズー教が生きながらえたのに、仏教が消滅してしまったのは一にかかって大乗派の追放による信仰の衰退にあったというべきである。

 「異立義!」「不相伝!」「忘恩の徒!」「破門!」「出て行け!」――その先にあるものは自らの消滅である。この愚かしさは今日もなお繰り返されている。

 ――どこに。他でもない、かつて退出せざるを得なかった大乗仏教各派の中においてである。日蓮各派の中においてである。そこで失われていくのは瑞々しい信仰心そのものである。

 圧迫され、追放された大乗各派の二乗弾呵の激しさは、そのような歴史を踏まえると、ある意味止むを得なかったといえる。しかし、心ある人々は二乗弾呵で終わっては仏教は成り立たないことを知っていた。ゆえにこそ、法華経で二乗作仏が説かれたのである。

 また先鋭的な形で自らの正統性を主張し、大乗経典の正当化が志向されたのもある意味当然のことであった。それでなければ自らの信仰が成り立たない。しかし、正統性を主張するだけでは、社会に開かれた普遍性を獲得できない。自らを正統とし、他を異立義とする正統性論議はどこかで乗り越えねばならない。

 そういう意味からも法華経は、普遍性の上において、もうひと回転する必要を自らのうちに秘めていたのである。それに気づき、それをやったのが日蓮だと私は思っている。それが私の「種脱相待」の理解である。そして日蓮の到達点のうえで弟子たちに残された一つのことがある。それが法華経の開会の法門である。

 法を社会に開いていくということはもちろんであるが、思想的、哲学的な側面からいうならば、法華経が生み出された根っこにあるアーガマ(阿含経)の開会こそが、根本的な課題であると言えよう。法華経の到達点の上から、それらを如何に開くのかということである。それがやれなければ、法華経も日蓮も普遍性を獲得できないであろう。

 説得力が失われた古い五時教判の世界に閉じこもって、たかが小乗などと嘯いている限り、日蓮思想に未来はない。大方の批判と無視を承知の上で敢えて提示しておきたい。

----☆文献資料☆------------------------------------------------------

平川彰氏の所説を簡単に知るには、
 平川彰『大乗仏教入門』1998年、レグルス文庫が入手しやすい。

この説が広く受容されている例としては、
 山崎元一『古代インドの文明と社会』1997年、中央公論社『世界の歴史3』

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