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「不軽菩薩」再考 2008/03/07





★からぐらの風 #0054 --------------------------------------2008/03/07
----☆「不軽菩薩」再考☆----------------------------------------------

 日蓮の修行観は不軽菩薩の実践に尽きると言ってよいと思う。「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(s1397.04,h1174.12,p1174.14)
 この不軽菩薩について、通途の解釈ではなく、日蓮に即して、経典に即して考えてみると新たな感興を覚えるのである。

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 法華経において、不軽菩薩は釈尊の本生覃(過去世の物語)として語られているのであるが、その振る舞いを見てみると、これはブッダ当時の仏弟子の姿、そしてブッダその人がモデルになっていることがわかる。つまり日蓮は、時空を超えて直接ブッダとつながっていたのである。

 不軽菩薩の振る舞いというのは、「あなたを深く敬います」というような短い章句を唱えながら、会う人会う人毎に礼拝し、語りかけていったことにある。これはそのまま、ブッダ当時の仏弟子の姿ではないかと思われる。ブッダは弟子たちに短い章句を教え、常にそれを唱えさせて修行をさせていた。

 舎利弗尊者の入門は、ブッダの弟子が唱える短い章句に興味を示したことが機縁であった。(増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』p56)

 愚鈍と言われた修利槃特(チューラパンタカ)が解脱にいたったという話も、ブッダに教えられた短い章句が縁となっている。(中村元『仏弟子の告白』岩波文庫p124)

 いろは歌で有名な雪山童子が半偈を求めたという故事も、短い章句を唱えるという仏弟子たちの日常生活がヒントになっている。(日妙聖人御書s642.12,h603.18,p1214.10)

 これ(短い章句を常に唱える)というのは、実に「縁起の理法」に適った実践法であると思われる。日蓮はこういったあり方を下種と言った。「或は一句一偈等を聞いて下種とし」(s714.02,h655.10,p248.17)

 ブッダから教えられた短い章句は、種となり弟子たちの心に下ろされたことであろう。やがてその種は芽吹いて弟子たちの心の中にしっかりと根を張っていったことであろう。その小さな芽がやがて大木に育たないと誰が言えようか。

 日蓮の振る舞いもこれと同じである。ただ日蓮が自ら唱え、弟子に唱えさせたのは「南無妙法蓮華経」の題目(唱題)であった。これも短い章句であることにはかわりがない。

 顕仏未来記「彼の二十四字と此の五字と、其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」(s740.11,h677.01,p507.08)

 じっさい、どれだけ多くの人が、この唱題をもって、あるいは種として、ドン底から這い上がっていったことか。どれだけ勇気付けられ、どれだけ蘇生の物語を綴ってきたことか。

 唱題は「縁起の理法」に適っている。そのようなことを見もしないで、唱題を迷信だと言ってはばからない仏教学者は、自ら学者としての姿勢を放棄している。本物の学者は決してそんな軽はずみなことを言わない。

 もうひとつ、唱題(題目口唱)が「ブッダの遺法」に適っていることを証明しよう。ブッダが教えたのは「縁起の理法」だけではない。一般に「数息観」と呼ばれる呼吸法もブッダが説いたものである。日蓮の題目口唱はその伝統を引いている。数息観とは、パーリ(初期仏典)のアーナパーナサティのことであり、数息より「調息」と訳す方が誤解がないと思われる。

 ふつう人間の内臓は自律神経で統御され、自分の意思でコントロールすることは出来ないが、呼吸器官は唯一、意思の力でコントロールできる内臓である。ブッダはここに着目し、呼吸を通じて、心と身体を調整することを教えたのである。

 その理論と実際はパーリでは中部経典の第118経「出入息観」に詳しく述べられている他、第119経「身体にむけた注意」やブッダが息子のラーフラに語った中部経典第61経や第62経など、処処で語られている。

 漢訳大乗経典では『仏説大安般守意経』がブッダの呼吸法の集大成としてある。

 さて、日蓮の唱題であるが、普通、信仰者たちは題目を一日に三千遍でも、一万遍でも平気で唱えているが、なぜそれが可能かというと、呼吸法の道理に適っているからである。試みに他の言葉を百遍でも唱えてみるとよい。すぐに疲れてしまって、とても唱えられるものではない。

 逆に唱題は気分を爽快にする。それを知っているから信仰者たちは、それを止めないのである。このことは信仰者だけの実感ではなく、医者たちも等しくその効果を認めるところである。

 医者であり、呼吸法の大家であった村木弘昌氏は、次のように述べている。
 「唱題は南無―妙―法―蓮―華―経と六分節で唱え、それが連続・相続されるわけです。ここに力強い分節長息(分節長呼気丹田呼吸)の行があります。そこから心身両面に逞しさが湧き出ることでしょう」(『釈尊の呼吸法』2001年、春秋社、p258)

 つまり、唱題はブッダの理法にも、修行法にも適っているのである。

 いたずらに唱題を蔑む学者はブッダをも蔑むことになる。お互いに自ら知らないことには謙虚であろう。それが学問的態度というものである。

----☆語義☆----------------------------------------------------------

パーリとは、「聖典」という意味。タイやスリランカなど、南方仏教に伝えられた部派の経典。ブッダの遺法、仏教の原型がそこにはある。一般には初期仏典、原始仏典とも称される。漢訳仏典では阿含経典とかなりの部分で照合一致する。ただこれを小乗経というのは間違っている。

バイブル(聖書)が単にキリスト教の経典であるにとどまらず、ユダヤ教やイスラム教の経典でもあり、かつはそれらにとどまらず、人類の知的遺産であることは、今日では広く認知されている。

パーリ(聖典)も南方部派の経典にとどまらず、大乗仏教の立場からも不可欠の経典である。そこを排除してしまっては大乗仏教の存立基盤がなくなる。排除するのではなく、そこに仏教の原型があることを認めなければならない。パーリもまた、バイブルに劣らぬ人類の知的遺産である。

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