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仏法は道理 2008/02/26





★からぐらの風 #0050 --------------------------------------2008/02/26
----☆仏法は道理☆----------------------------------------------------

 仏法は道理であり、普遍的なものである。もし、道理に反することがあれば、たとえそれがブッダの言であろうと、日蓮の文であろうと、誰の説であろうと用いてはならない。このことは日蓮自身が明言していることである。それゆえに日蓮の御書には一定の安心感があるといえる。しかし、日蓮の御書として伝えられるものの中には疑問を感じてしまうものもある。そういう時は、道理と論理の上できちっと分析すべきなのである。それこそが日蓮の本意に適うあり方であろう。

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 まず、上記のことについて、日蓮の明言を幾つか挙げておこう。

 世雄御書「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(s1384.06,h1179.06,p1169.05)

 有名な文言であるが、「主に勝つ物なり」とは、あらゆる権威に打ち勝つということであろう。たとい、それが「教主」という権威であろうともである。

 曾谷入道殿許御書「大覚世尊、涅槃経に滅後を警めて言く『善男子、我が所説に於て若し疑ひを生ずる者は尚ほ受くべからず』云云。然るに仏、尚ほ我が所説と雖も不審有らば之れを叙用せざれと」(s907.06,h787.16,p1036.03)

 ここに涅槃経の文を借りて、たとえブッダ(釈尊)の説であっても不審があれば用いないという日蓮の姿勢を表明している。この御書は真蹟が完存している。

 開目抄「智者に我が義やぶられずば用ゐじとなり」(s601.11,h572.06,p232.04)
 「智者に破られる」とは、道理でない、論理が破綻していることの謂いである。もし「我が義」日蓮の義が道理に反しているなら、用いてはならないというのである。この文は「やぶられずば」と文法的な揺らぎが見られるが、それは「誰にも破られないぞ」という日蓮の自信を反映しているからであろう。日蓮の自信はともかくとして、ここで、自分の説であっても、道理に合わなければ用いてはならないとする日蓮の自己表明は揺るがない。

 このような表明がなされるのは、仏法は「人」ではなく「法」を依りどころとしているからである。「依法不依人」。

 「人」に依る最大の問題点は、絶対多数の者にとって、特定の「人」を直接知りうる機会がほとんど無いということである。間接的にしか知りえない。結局は代理人や代弁人、あるいは血脈を受けたと自称する人が介在してくることになる。そこではすでに普遍性が飛んでしまっているのである。

 日蓮は、「法華経の行者」をキーワードにして、自らの振る舞いを法華経(法)と自省的につき合わせていった。それを通して普遍性を獲得していったのである。しかし、後世の人々は「法華経の行者」をキーワードとしてではなく、ひとつの権威として扱うようになった。そして日蓮の絶対化、超人化が計られたのである。

 ところで、このように日蓮の普遍的理解を進めようとする魯ひとに対して、ある学者さんが語りかけた。

 「魯ひとさんよ、あなたがそこまで普遍性にこだわるのであれば、それこそ中世日本の日蓮という『人』から離れて、仏教の出発点であるブッダに戻るべきではないか、魯ひとが日蓮にこだわっている限り、普遍性をいうのは論理矛盾ではないか」

 この意見を皆さんはどう思われるであろうか。

 別な学者さんの独白もある。「僕は、パーリ原典しか読まない主義なんだ。日蓮であろうと、龍樹であろうと、誰であろうと後世の人が書いたものに影響されるのが嫌なんでね」

 これに対して魯ひとが思うのは、「人は誰も他からの影響から逃れられない。というより、そもそも他がなければ自分もないというのがブッダの縁起の発想ではなかったか」ということである。他からの影響を恐れていては何も進まない。初期仏典を学ぶにしても、先学の手ほどきを受けねば学ぶことすらできない。

 学問としての初期仏教の世界も諸説入り混じり、どこにブッダの真意があるのか、素人には混沌として分かりづらい。仏典のテキスト批判となれば、もうお手上げである。ブッダ研究を職業とする人ならともかく、専門の比丘ならともかく、一般の社会生活を営むものにとっては、そんな混沌としたところにいきなり入っていくことはできない。

 それよりも、ブッダの教えが縁起の理法なら、私は生まれ、自ら培ってきた人間関係を大切にしてものを考えていきたいと思う。つまりは縁を大切にしたいということである。

 私は日蓮によって仏教を知り、日蓮の御書に基づいて仏法を学んできた。日蓮を排除しなければならない必然性もない以上、今後も日蓮を根拠地として、日蓮を拠り所として、そこから縁にふれて、さらに龍樹もブッダも学んでいこうというスタイルを変えることはない。

 求めるべきは、人に影響されないことではなく、良き友からの触発である。それが善知識だと思う。

 仏教を学んでいく中で、これまでにも、例えばオームの問題や、カルトの問題について色々と指摘を受けた。だから宗教は危険だと、だから仏教は危険だと。だから日蓮は危険だと…。

 けれども、すべての問題は閉じられた中で起こっている。他からの影響を排除して閉じこもってしまったところで起こっている。そこにはブッダが説いた法はない。日蓮が説いた法もない。なぜなら、他からの影響の排除というのは縁起の理法を捨てることを意味するからである。

 そうではなく、日蓮もブッダも普遍的な法を掲げて外に開かれている。

 減劫御書「法華経に云く、皆な実相と相違背せず等云云。天台之れを承けて云く、一切世間の治生産業は皆な実相と相違背せず等云云」(s1130.09,h925.13,p1466.13)

 白米一俵御書「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なりととかれ、涅槃経には、一切世間の外道の経書は、皆な是れ仏説にして外道の説に非ずと仰せられて候」(s1263.02,h1545.04,p1597.04)

 ゆえに、広く社会のなかに、触発を求めて菩薩の道を私はゆきたい。そこにこそ「仏法は道理」という言葉の実があると思うからである。

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