直説と解釈と 2008/02/15★からぐらの風 #0047 --------------------------------------2008/02/15 ----☆直説と解釈と☆-------------------------------------------------- 日蓮の思想を学び(ここは信仰を学ぶ場ではない。それは魯ひとの任でない)、普遍性を獲得してゆこうと思うならば、何が日蓮の直説であり、何が後世の解釈に属するものなのかを立て分けることが必要だろう。なぜならば解釈は、場とともに、時代とともに変わって行くものだからだ。また変わって当然なものである。しかし、直説の部分は変えてはならない。そこを変えればもはや日蓮の思想ではなくなるからである。 --------------------------------------------------------------☆☆---- 一般に、日蓮の思想の骨格とされるのは三秘五綱(三大秘法と宗教の五義)と五重相対である。ただ三大秘法と宗教の五義は日蓮によって明確に示されているが、五重相対は日蓮の直説ではなく、日寛等、後世の学者による解釈に属するものである。故に門流によって解釈は違うし、同じ門流であっても、時代とともにその解釈は変遷している。 その変遷が、より日蓮に肉薄し、あるいはより現実に即していくならば、それはそれで価値があるし、なんら異議をとなえるものではない。ただ、それをもって日蓮の直説といいなすならば、問題が発生しよう。 五重相対のもとになるものは日蓮の「開目抄」に説かれるが、本迹相対、権実相対(日蓮は権迹相待と表記している)以下は、日蓮の独創ではなく、それ以前の天台教学のなかにあったものである。種脱相対や教観相待なる用語は日蓮の御書には登場しない。 また、五重相対は天台の五時教判を基礎にして構成されており、現代社会のなかでは、ほとんど説得力をもちえない。内外相対でクリスチャンが納得するわけではないし、大小相対で初期仏教を学んでいる人が沈黙するわけではない。本迹相対で日蓮の末流がまとまるわけでも、種脱相対で富士門徒が一本化できるわけでもない。 しかし、日蓮がこのような教相判釈を用いたのは、日蓮のいた中世社会のなかでは、誰も否定できない説得力とその時代における普遍性をもっていたからである。その証拠に日蓮在世において数百人しかいなかった日蓮の信徒が、日蓮滅後において大きく教線を開いて社会的認知を獲得するに至った。そして現代にいたる。 ここで誤解しないでほしいのは、魯ひとは、だから五重相対を捨てよと言うのではない。五重相対が優れているのは、法華経の卓越性を直感的に掴み得るということにある。日蓮が教相を大切にし、教相判釈を重視した本質はここにある。 一代聖教大意「故に天台の御釈に云く、若し余経を弘むるには、教相を明かさざれども義に於て傷むこと無し。若し法華を弘むには、教相を明かさざれば文義欠くること有り、文」(s66.10,h92.03,p397.16) ようするに、法華経は余経と並列に置いたのでは、法華経の価値が発揮できない。法華経を根本にしてこそ価値を開けるということであろう。日蓮が、天台智ギ(★豈+頁)より伝教最澄を評価したのはまさにこの点においてであった。 教機時国抄「桓武天皇の御宇に伝教大師有して、小乗権大乗の義を破して法華経の実義を顕はせしより已来、又異義無く純一に法華経を信ず」(s245.01,h273.02,p441.05) 観心本尊抄「伝教大師粗ぼ法華経の実義を顕示す」(s720.08,h661.13,p254.11) 智ギ(★豈+頁)は、法華経理論を熟成させたとはいえ、一国社会に根付かせたわけではない。最澄は現実に日本社会のなかに法華経を根付かせたのであり、その功績は否定できない。 であるならば、ここで日蓮の徒がなさねばならないことが明確になる。もし、法華経の卓越性を信ずるのであれば、いかに教相を明かし、法華経の卓越性を現代社会に証明するかということであろう。 中世の文脈で五重相対をそのまま高唱しても説得力を持つわけがない。しかし五重相対のポイントは比較思想であり、比較を幾重にも繰り返していくところにあるならば、現代に再生する余地は充分にあると思われる。 他をやっつけ下すというような視点ではなく、他思想を客観的に位置づけるために、その比較の視点を吟味し、その視点を煮詰めていくならば、現代的な学問として再生は可能だと思う。 そのとき、この比較の視点をドグマとして信徒に押し付けるのではなく、物を考える視点を提供するというありかたであるべきであろう。 そういう努力をしないで、都合のいいときは、学問を語り、都合の悪いときは、信仰と学問は別だとばかりに、信仰のなかに篭ってしまうようなご都合主義では将来に何も開けないと思われる。 先にもこの一連のレターで述べた。信仰体験や信仰の情熱は、そのまま次代には伝わらない。それを言葉にし、普遍化していく努力が絶対に必要なのだと思う。 学問の上でも、法華経の卓越性を論証する道はいくらでもあるはずなのだ。 第一歩を、日蓮の直説と解釈のたてわけから始めるというのは、いかがであろうか。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |