耳根得道ということ 2008/02/13★からぐらの風 #0045 --------------------------------------2008/02/13 ----☆耳根得道ということ☆-------------------------------------------- 今まで仏法を学んできた中で、いささか違和感を感じる教義も少なくない。だからといってそれを強調して回りと諍いを起すつもりはないが、ただ私はそのような違和感を自分の中で封じることなく、なぜかという問題意識は大切にしてきた。そして自力で解決すべく努めてきた。その中のひとつに「耳根得道(にこんとくどう)」がある。その意味を簡単に言ってしまえば、私たちはお題目の音声を耳で聞くことによって成仏できるという考え方である。 --------------------------------------------------------------☆☆---- この考えになぜ、違和感を感じるかというと、私にはハンデがあって右耳は全く聞こえない。左耳もかなり悪く、正直なところ日常会話の半分ぐらいしか聞き取れていない。聞き取れていないが、長年の勘で会話の内容を判断して受け答えしていることが多い。 (補聴器やイヤホンでは、音が割れて聞こえるのでつらい) 子供の頃は、これができないで、何度も何度も聞き返すことが多かった。そうするとたいていの人は仕舞いに腹を立てて「つんぼ!」と怒鳴りつけて去っていくのが常であった。(どうも耳の遠い人はバカに見えるらしい。)そのたびに、どれほど悲しい思いをしたことだろう。まして全く聞こえない人はどうなるのだろう。 この「耳根得道」という言葉の出典を探ると、御書全集では「一念三千法門」に出てくるのみである。 「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」(s2039.02,h110.02,p415.13) しかしながら、この「一念三千法門」および「十如是事」は文献学的にはかなり問題があって、両書とも恵心僧都源信の「法華即身成仏要記」と共通する部分が多く、結論して言えば、それらは「法華即身成仏要記」の翻案と考えざるを得ないのである。日蓮の書とするには厳しいものがある。 「法華即身成仏要記」は原文は漢文であるが、訓訳したものをアップしたので、皆さんで判断してほしい。 http://www.ginpa.com/karagura/letter/jyobutsuyoki.html 「法華即身成仏要記」には「耳根得道」という言葉は出ていないが、天台宗の「伝信和尚伝」に同文の「娑婆耳根得道之國也」(續天台宗全書/史傳2/p411a)が見える。伝信和尚は日蓮より後の人で、同伝によれば、弘長三(1263)年から文保元(1317)年の人で中古天台の学僧である。中古天台といえば「漢光類聚」(T74-376c)にもこの言葉が見えている。 このことからも「耳根得道」を日蓮の思想とする必然性はない。お題目の価値はこのような考え方をせずとも充分立証することができよう。 ハンデのある人に悲しい思いをさせる教義がなんで仏法なものか。 なお、人はハンデがあると、別の能力がそれを補完しようとするものだ。お陰で魯ひとは直感力の鋭さという面で鍛えられたと思っている。また、魯ひとは、耳が悪いため、ヒアリングを必須とする外国語が不得手であった。だからヒアリングを必要としない漢文(古典中国語)を学んだ。 ともあれ、仏法といえども、マイノリティへの心遣いを忘れると、ゆがんでしまう。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |