朋あり遠方より来る 2008/02/08★からぐらの風 #0043 --------------------------------------2008/02/08 ----☆朋あり遠方より来る☆-------------------------------------------- 学問している者の喜びのひとつは、何と言っても、同学の朋が遠方より尋ねて来てくれた時のことだろう。相手が若い人なら、世代の違う発想を知ることができて楽しいし、同世代の人なら、すぐに意気投合してしまって時間を忘れてしまう。 こういう出会いには構えがない。こちらも普段着だし、仕事着のままということも多い。 --------------------------------------------------------------☆☆---- この間、来てくださったのは小さなお子さん連れの方だった。嬉しかったね。仏法を学ぶ者には、こういう生活の匂いが一番大切だと思う。「正装で」とか、「子供を連れて来ないで」などと言う世界で、本当に仏法が語れるのか疑問に思う。 まあ、それはそれ。 対話は、いつしか、御書の真偽論に入っていった。朋の云く「僕は真偽論が好きになれないのです」と。切々と語る語り口を聞いていて、信仰者の本当の優しさを垣間見る思いがした。 朋は冷静なインテリであって、別に御書の真偽論の必要性を否定しているわけではない。しかし、時に御書の真偽論が、暴力的なほど信仰者の心を切り苛んでいることを朋は憂えていた。 朋の心はよく分かる。絶対多数の信仰者は別に学問仏教をしているわけではないのだ。そのような方法論も学んでもいない。自らの生活の中で信仰を見つめ、御書を読み、御書を語ってきたわけだ。一巻の『御書全集』をそのまま日蓮(大聖人)のお手紙として受け取ってきたわけだ。 そういう人たちにとって、「あなたの読んでいる、その御書は偽書ですよ」と言われることは、どれほどの衝撃となるであろうか。学問的方法論を持たぬその人は、ただ煩悶し、懊悩に突き落とされる。挙句の果ては信仰そのものが破壊されていくこともあろう。 信仰の破壊は、そのまま心の破壊につながっていく。それを見過ごすことは許されない。 朋との対話はつづく。これほど多く日蓮の末流が分裂している今、日蓮の本意がどこにあったのかを正しく見極めていくことは不可欠である。その一環として御書の再整理は必要であるし、そのためには真偽論も解禁されねばならない。後になればなるほど傷口が広がるのではないか。 では、教団にできるだけ早い段階で御書の真偽についての公式見解を出してもらって、問題のある御書の使用を控えてもらうというのはどうだろうか。 「いや、それは違う」と朋はいつになく大きな声で否定した。(子供たちは、大人たちの話に愛想をつかして表へ探検に出かけたようだ)「上から、そんな見解が降りてきたら、それこそ信仰者の逃げ場はない。むしろ、ここは在野の研究者に頑張ってもらうしかない」 在野の人の研究成果は、受け取るも受け取らないも信仰者個々の判断に委ねられる。そういう中で、研究の蓄積とともに、信仰者の側にもそれを受け容れる素地が少しづつ出来てくるのではないか。教団は、それを後から追認すればよい。 対話は、訥々としたやり取りながらも、ずいぶん遠いところまでやってきた。(外に飛び出していった子供たちも帰ってきて、父親の顔を覗き込んでいる。そろそろ時間が来たようだ) 帰っていく親子を見送りながら、魯ひとは思った。新しい時代は、若い人たちの手で確実に開かれようとしている。それぞれの教団は信仰する人々の集う大きな器に過ぎないのではないか。器が人々を指導するのではない。人々が集い触れ合うなかで信仰が醸成され、また育っていく。サンガとはそういうものであろう。 学問は、そういう信仰者のサーバントでしかない。学問が信仰者を導くなどとは、それは学問をする者の思い上がりでしかないだろう。自分もまた、一人の信仰者として葛藤の中を学問と言葉の林の中へ分け入っていくことにしよう。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |