言葉は信頼できるか
言葉は信頼できるか 2008/02/06★からぐらの風 #0042 --------------------------------------2008/02/06 ----☆言葉は信頼できるか☆-------------------------------------------- 前(41)号で法華経や日蓮には「言葉というものへの全幅の信頼があった」と書いたら、予期せぬ反響があった。物書きにとって嬉しい一瞬である。それは、法華経は「言葉では真実を語れぬ」という立場にあるのではないかというものである。じっさい、それらしき文言は法華経の中に何度か出てくる。 果たして法華経が言葉に絶望しているか否かについては、法華経学者の見解も聞いてみたいと思うが、いまはもう少し愚見を述べてみたい。 --------------------------------------------------------------☆☆---- 世間には、「俺は言葉なぞ信用しない」という人も少なくない。それとこれとは次元が異なるようにも思うが全く無関係ではない。 禅宗系の人は、概して真実は言葉を突き抜けた所にあるとされるようである。その奥義書には「○」の一文字が書かれてあるのみという話もよく耳にする。「一字不説」といって釈尊は一字も説かなかったということも好んで語られる。それはそれで説得力のあるお話ではある。 しかし、わが日蓮は、その究極を「南無妙法蓮華経」という言葉であるとした。その最晩年には、言葉による本尊、文字曼荼羅をおのが身を削るようにして大量に書き残していった。遠方の信徒にせっせと書き綴った言葉、消息文にも日蓮の真骨頂が現れている。 さて、法華経である。方便品の世雄偈のなかに次のような文言がある。 「是の法は示すべからず 言辞の相は寂滅せり」(法109) また有名な「言語道断」という言葉も法華経安楽行品から出たものである。 「一切の語言の道断え、生ぜず、出せず、起せず、名無く、相無く、実に所有無く、無量無辺、無礙無障なりと観ぜよ」(法426) これらの文言は確かに言葉の限界を指摘しているかに見える。しかし、このような短い文証では必ずしも断定はできないであろう。 日蓮の持経であった「注法華経」(真蹟現存)には、台密教学の大成者安然の「教時義」の一節が書き込まれている。 「教時義の一に云く。問ふ、言説は皆な妄なり。云何が真如ならん。答ふ、摩訶衍の説は四種の言説のよく及ぶところにあらず。故に説いて言語道断と為す。一に世間の言説は而も執著の言説、三妄の言説、余相の言説なり。真如の言説のみ能く真理を詮す。此の中の四種の言説は楞伽経に出ず。真如の言説とは即ち今の真言なり」(注経1-156 訓読魯ひと) 「摩訶衍の説」とは大乗の経説、それは「四種の言説」つまり人の言葉では分からないというのである。つまるところ、安然は、人の言葉に絶望し、人の言葉にあらざる「真言」という密教世界にのめり込んでいったのかも知れない。そこから台密教学が立ち上がったのだとしたら、真言密教の立場がよく分かる。 しかし、この文章をおのが持経の余白に書き込んだ日蓮自身は、言葉に絶望などしていなかったし、慈覚、智証、安然の立てた台密教学を厳しく批判していったことはよく知られていることである。 再び法華経方便品に戻るが、「言辞の相は寂滅せり」という絶望の言葉の二行後に、じつは次のような但し書きがある。 「諸の菩薩衆の 信力堅固なる者を除く」 ようするに法華経の実践者であって、法華経を信じようとする人には「言葉」の可能性は残されているとしているのである。少なくとも私はそのように読んでいる。 法華経には一人の実践者のモデルが描かれている。ご存知、不軽菩薩である。不軽菩薩は会う人ごとに礼拝し語りかけをしていった。日蓮はこの不軽菩薩の語りかけを「二十四字」の法華経と呼び「下種」と位置づけている。つまり日蓮にとって言葉こそが「仏の種」であったことがわかる。 「彼の二十四字と此の五字と、其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」(s740.11,h677.01,p507.08) 「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候けるぞ」(s1397.04,h1174.12,p1174.14) いうならば、法を語るという言葉の「語りかけ」という振る舞いこそが教主釈尊の出世の本懐だというのである。その語りかけという行動を支えているものこそ、先の方便品でいう「信力堅固」であろう。 確かに「真理とはこれこれだ」と言葉で説明することは難しい。しかし、また言葉に寄らなければ真理は伝えられないということも否定できないであろう。ようするに語りかける人と受ける人との言葉による双方の触れ合いの中で、種が下ろされ、やがて芽吹き、花が咲き、結実していくと思われるのである。 そのような意味から日蓮はせっせと種を蒔いていた人であり、その種が芽吹き、それが根を下ろしたのを確認した日が日蓮にとっての「出世の本懐」の日であったと思われる。 芽はどこで芽吹くかは分からない。まさかと思われるような不毛の巌の小さな割れ目に芽吹く場合もある。それがいつの日か大地に根を下ろし、巌を割って大木に育たないと誰が断言できようか。 じっさい「俺は言葉など信じない」という人への語りかけは難しい。魯ひとなどは「お前の文章など読んでいる暇はない」と何度も突き返されてきたし、面会を求めた学者さんに謝絶されるのは常のことである。 それもこれも、言葉以前、自分自身のふがいなさのなせる結果である。しかし、それでもなお、言葉の可能性を信じて、言葉にならない言葉を言葉にして語り続けたいと思う。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |