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「唯仏与仏」のパラドックス 2008/02/04





★からぐらの風 #0041 --------------------------------------2008/02/04
----☆「唯仏与仏」のパラドックス☆------------------------------------

 法華経での釈尊の説法は方便品から始まるが、開口一番、釈尊は説法を止めると言い出す。なぜかというに、根本の真理は仏と仏にしか分からないというのである。仏ならざる聴衆としては面食らってしまう。
 日蓮の説法も同じである。おそらく立教後最初の著作と思われる「一代聖教大意」には「此の経は相伝にあらざれば知り難し」と述べてある。相伝などと縁遠い一般大衆としては、やはり面食らってしまう。

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 じつは、ここには大きな、そして重要なパラドックスがある。

 法華経のそれは毎日読誦する「唯仏与仏 乃能究尽(ただ仏と仏のみ、よく究尽《理解》できる)」のくだりである。

 覚者としての仏でしか理解できないのであれば、じっさい、一般大衆に向かって説いても何の意味も無いことであろう。しかし、釈尊はそう言いつつ、そこから法華経二十八品にわたる滔々たる説法を始めるのである。

 この説法が衆生に理解できるとするならば、「唯仏与仏」は真実ではないことになる。理解できないものならば、法華経二十八品は何の意味もないことになる。ここにパラドックスが発生する。

 「唯受一人」などといって、特定の後継者には分かるのだとする説もあるが、それなら後継者とだけでやり取りすればよろしい。しかし、法華経は一般大衆に説かれたものである。秘密の経典ではない。さて、どうするか。

 おそらく法華経の編者たちはこのパラドックスに気がついていたろう。むしろ始めから意図されていた論法なのかも知れない。ここで彼らは何を言いたかったのだろうか。このパラドックスには何か重要な意味があると思われる。

 日蓮の場合も「此の経は相伝にあらざれば知り難し」(s66.13,h92.08,p398.03)であれば、一般大衆に語りかけても意味の無いことである。特定の後継者を見つけて説けばいい。じっさい、この文には、切り文で使われて、特定の僧侶の権威として利用されてきた歴史がある。

 しかし、もとの「一代聖教大意」の文脈に即して読めば、決して特定の人の権威のために述べられた言葉ではないことが分かる。文脈を略示すれば、次のようになる。

1、問ふ、(中略)此の経は何なる人のためぞや。
2、答ふ、此の経は相伝にあらざれば知り難し。(中略)
3、悪人善人、有智無智、有戒無戒、男子女子、四衆八部、
  総じて十界の衆生のためなり。
4、総じて十界の衆生同く円の一法を覚るなり。
5、此の事を知らざる学者、法華経は我等凡夫のためにはあらずと申す、
  仏意恐れあり。(s066.12,h092.07,p398.02)

 法華経は「十界の衆生のため」であり、十界の衆生が「同く円の一法を覚る」ためには、特定の「相伝」の智者だけではなく、広く一般大衆に説き開く必要がある。

 ゆえに、日蓮も「相伝にあらざれば知り難し」と言いつつ、なお広く一般大衆(我等凡夫)のためにその内容を開いて説き出したのであった。もし「相伝にあらざれば知り難し」のまま、文を閉じてしまうならば、同時に日蓮の三十年にわたる説法も意味をなくしてしまう。

 後継者を自称する特定の僧侶しか分からないと言うならば、逆に、それは日蓮が批判する「此の事を知らざる学者」の姿を演じることになってしまうだろう。ここにも法華経と同質の大きなパラドックスがある。

 そもそも、日蓮自身は法華経の「相伝」を如何にして受けたのか。自ら「自解仏乗」(s1669.13,h1393.14,p903.02)というように、決して歴史上の特定の師から授けられたものではなかったはずである。日蓮がいう「相伝」とは、法華経の行者として法華経を身読していったことによるのではなかったか。

 にもかかわらず、日蓮の後継者を自称する人々が日蓮のように法華経の身読もせず、一片の書付や自己申告や儀式といった形式的なことで「相伝」を済まして平然としているのは奇妙な話である。いや、こんな話はよそう。ここでのテーマは後継者云々でも、誰かへの批判でもなかった。そのようなことには、もはや何の興味もない。

 テーマは法華経が「唯仏与仏」と言いながら、一般大衆に向かって滔々と法を説きだしたこと、日蓮が「相伝にあらざれば」と言いつつ、同じく一般大衆に向かって法を説きだしたこと、それは何故かということである。

 じっさいのところ、釈尊や日蓮がつかんだところの法の全容が、簡単に私たち一般大衆に理解できることならば、釈尊も日蓮も何も苦労することはなかったであろう。その意味では「唯仏与仏」は真実であろう。「相伝にあらざれば」も真実であろう。

 しかし、釈尊も日蓮も、それでも断念することなく、諦めることなく、何とかして法を一般大衆に知らしめようとし、衆生を救いきろうとし、絶望の壁を突き破って語り始めたのではなかったか。語り始めた、そこには「言葉」というものへの全幅の信頼があったように思うのである。

 「いつか、分かる時が来る」と。そこに唯一、パラドックスを突き抜けるカギがあるように思われてならない。

 法は「法蔵」や「相伝」の中に閉じ込められているのではない。全てが釈尊や日蓮によって、すでに全面公開されているのである。

 あとは、私たちが、残された言葉の中に分け入って、手ずから真実を取りいだすことだけが必要なことではなかろうか。自ら言葉の林に分け入る努力をしないで、「相伝」なる幻影に惑わされているかぎり、いつまでたっても「実」をつかむことが出来ないように思われる。

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