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逆転した認識 2008/01/31





★からぐらの風 #0040 --------------------------------------2008/01/31
----☆逆転した認識☆--------------------------------------------------

 女性を差別した表現として「五障三従」という表現がある。女性をことさらに業が深いとしたものである。しかし、このような認識は日本古来のものではなく、ほかでもない法華経の流布によって広められたものである。「五障」を説いたのは法華経であり、「三従」を説いたのは華厳経であった。
 もちろん法華経が「五障」を説いたのは、「五障」を否定するためであり、それによって女性の即身成仏を強調する狙いがあった。しかし、歴史的には女人成仏より「女性の業の深さ」がより強く焼き付けられることとなってしまったのである。

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 このような逆転現象は他にも幾つか確認できる。いったい何故このような逆転現象が起きるのかというのが、今回のテーマである。

 「五障」は、その内容をみれば、仏教の認識というより古代インド社会の認識に過ぎないことが明らかになる。法華経提婆達多品には次のようにある。
 「又た女人の身には猶お五障有り。一には梵天王と作ることを得ず。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり」(法-408)

 仏身はともかく、他の四つは仏教の目的ではない。理想的人格としての仏身も仏教以前からあるものであった。ようするに仏教以前の常識に過ぎないのである。法華経の本領は、そういう常識を覆したところにある。

 他の逆転例としては、法華経の「二乗作仏」がある。二乗が成仏できないと説いたのは般若教典などの大乗仏典であった。法華経はそれらの二乗差別を否定し、二乗さえも成仏できると説いたのである。しかるに「二乗根性」といい、「二乗のエゴイズム」といって、更なる二乗弾呵が行われたのは法華信徒のうちにおいてであった。法華経や日蓮が、そのようなエゴイズムを離れないと成仏できないなどと条件をつけたわけではない。ここでも、逆転現象がみられる。

 法華経のみではなく、日蓮の御書の受け取られ方においても、若干の逆転現象が起こっている。

 「顕謗法抄」という御書がある。真蹟が身延曽存とあって、文献学的にも信頼度の高い御書である。ところが、ここには八大地獄の因果という奇妙な因果話が展開されている。等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無間地獄の八つである。そしてこういう話が好きな人も少なくない。魯ひとなども、何度かこのような話の解説を求められたことがある。

 しかし、日蓮が、ここに八大地獄の因果を説いたのは、そのような地獄の因果を否定し、そのような因果論から離れるためであった。もう少し正確に述べると、八大地獄を最後の無間地獄一つに集約し、それを謗法によるとし、その謗法を払うことによって逆に衆生を一挙に救済しようとしたのである。ゆえに日蓮は、「顕謗法抄」以降は、七大地獄を語ることはなくなる。

 じっさい日蓮は、その後の「法華経題目抄」において、題目を唱えれば「軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず」と明言したのであった。四悪趣とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの悪道であり、その究極が地獄である。そこへ行くことは無いと明言したのである。

 「問うて云く、法華経の意をもしらず、義理をもあぢははずして、只だ南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一返、一月乃至一年十年一期生の間に只だ一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、つひに不退の位にいたるべしや。答へて云く、しかるべきなり」(s391.09,h353.06,p940.06)

 問題はただ一つ、題目を唱えることを肯んじない人であるが、その人とて逆縁で成仏するとして下種結縁を説いたのであった。この意味からいっても、八大地獄の因果論は日蓮によって換骨奪胎されて無意味なものとなっている。

 しかるに、「顕謗法抄」をもとにして、たとえば邪淫による黒縄地獄は「迫ってくる山に押しつぶされるとあるから、交通事故に遭うことを意味するのだ」といった因縁話がまことしやかに語られたりする。まあ、半ばお遊びで語られていると思うから、これ以上、突っ込むことは止める。

 ともあれ、このような本来の文意から離れた逆転現象が起こるのは何故であろうか。ひとつは先入観が強すぎることが挙げられよう。その場合は文章、文脈を追って理解するよりも、自分の主観で無意識に文章を読み替えてしまっている。

 もう一つには、切り文の弊害がある。法華経や御書本来の文意を離れて言葉のみが語られることによる。

 いま、法華経や御書理解において求められているのは、教義に合わせた理解ではなく、文意、文脈に即した理解であろう。その上で教義なりとの突き合せが求められる。

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