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正座の習慣について 2008/01/04





★からぐらの風 #0039 --------------------------------------2008/01/04
----☆正座の習慣について☆--------------------------------------------

 読者の皆様、お年賀ありがとうございました。

 信仰というものは、まず坐ることから始まる。対話ということも、また坐ることからはじまる。立ったままの礼拝はどこか儀礼的だし、立ったままの対話は、いつも表面的に流れてしまう。時に対決姿勢を崩せないことも多い。そういう意味で信仰と対話は似ているといえるし、本来、同質なのかもしれない。
 「まあ、坐りいな」

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 ある日の対話。この「坐る」ということをめぐってのことであった。「坐るにも色々あるが、日蓮の弟子たちは師日蓮の前でどのような姿勢で向き合ったろう。あるいは御本尊を前にしてどのような姿勢で礼拝したろうか。今の私たちと同じように正座をしていたのだろうか。それとも…」
 法華経や御書には「端座して実相を思え」とはあるけれど、その「端座」がどういう坐り方なのかは、どこにも書かれていない。

 魯ひとはぼそぼそと応じた。「さあてねえ、正座なんて一般化したのは江戸時代のころからじゃないのかなあ。時代劇をみると、江戸時代では大名でも正座しているけれど、中世や戦国時代の武士たちは、殿様の前に出ても胡坐かいてるねえ。また絵巻物をみると中世の女性は韓国女性のように片膝を立てているねえ」

 A君も応じた。「これはテレビで言ってたんだが、正座が広まったのは茶の湯と関係があるらしいよ。あの狭い茶室に客が何人も招かれると正座しないとお互い膝を付き合わせる形になるし、お茶の作法も正座しないと動きがぎこちなくなる。そういえば千利休の像は正座しているよ」と。

 しかし、話題を提起したB氏は納得しない。「そうだろうか。たとえばだよ。日常の所作が胡坐に立て膝だったとしても、神仏に祈る時の姿勢はどうだろうか。僕は、どうも信仰にまつわる形や姿勢というのは、案外起源が古いよにうに思えるのだけれど…。」

 「じゃあ、もう一度、絵巻物を注意して調べてみることにしましょう」ということになって、その話題は閉じられたまま、いつしか長の年月が流れてしまった。

 いや、調べることは調べたのである。たとえば『判大納言絵詞』には放火の濡れ衣を着せられた源信(みなもとのまこと)が必死で祈る後姿が描かれている。これこそ正座の姿かと思ったが、念のためにその絵を何人かに見せると、否定的な意見が多く出た。「足の位置がおかしい」「尻を足の上に落としていない」等等。そのようなわけで、決定的な絵を見つけられずにいたのである。(手元に入る絵が決定的に少ないという事情もあった)

 それが、昨年末、やっと決定的な坐像をみつけた。それは飛鳥の法隆寺の五重塔内に現存する和銅四(711)年に造られた塑像で維摩居士の説法の聴衆である婦人像である。

http://www.ginpa.com/soko/seizazu.jpg

 こんな古いものがあるならということで、絵巻物調査にも熱が入った。その結果、『鳥獣戯画』『一遍聖絵』『春日権現験記』『法然上人絵伝』など、神仏に祈る男女の正座姿が多く確認できたのである。

 このことから、日蓮の時代に仏に祈るあり方として正座が行われていたことが確実となった。問題は、日蓮および日蓮の弟子たちが正座をしたかということだが、可能性はあるとしても日蓮の御影は胡坐であるし確実なことはいえない。ただ、日興および日目の御影を観察してみると、膝がふっくらして見え、あるいは正座かとみえないこともない。このあたりは正資料を実見できる人の判断に待つしかないだろう。

 このような絵画史料とは別に、日蓮の御書に手がかりがないものかと考えているうちにつぎのような言葉が眼に飛び込んできた。

種種御振舞御書「或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり」(s967.10,h1060.09,p914.04)

大豆御書「大豆一石かしこまって拝領し了んぬ。法華経の御宝前に申し上げ候」(s1809.06,h1507.05,p1210.07)

阿耆多王御書(断簡二七七)「なんぞ仏のたねとならざらむと、かしこまり申すよし、申し上げさせ給ふべく候」(s2963.12,h_,p_)

「おけ・ひさご御消息」「おけ三・ひさご二・をしき四十枚、かしこまり給はりて候」(s3023.04,h1464.16,p_)

御所御返事「清酒一へいしかしこまて給はり了んぬ(s3023.1,h1559.14,p_)

 ここでいう「かしこまる」は恐縮する、恭順するの意を表現する言葉であるが、それを姿勢にあらわせば正座になるのではないかと思われる。じじつ、この言葉には「きちんと坐る」「正座する」の意味もあるという。

 小学館『古語大辞典』によれば、『枕草子』における用例を示している。また『日葡辞書』では「カシコマル」を「うずくまって坐る」としているよしである。

 このような言葉を日蓮が使っているということは、正座が、日蓮と日蓮の周辺でもなされていたことを意味しよう。

 ならば、勤行唱題、あるいは本尊を礼拝という、信仰上もっとも重要な所作において正座がなされていたとみることはきわめて蓋然性の高いことである。

 私たちの勤行の所作の基本的なあり方は日蓮以来の伝統を継承しているとみても大過はないものと思われる。

----☆参考資料☆------------------------------------------------------

中世の絵画史料を手っ取り早く調べるツールとして
澁澤敬三・神奈川大学常民文化研究所編『日本常民生活絵引』1984年/平凡社
がある。

健康上における「正座」の効用を説いた読み物として
新聞記事の切り抜き(聖教新聞)があるので参考までに紹介しておく

http://www.ginpa.com/soko/seiza.pdf

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