消えた日蓮の御書群 2007/12/23★からぐらの風 #0037 --------------------------------------2007/12/23 ----☆消えた日蓮の御書群☆-------------------------------------------- 日蓮から手紙をもらった人を、その数の多さから、富木、南条、四条、池上の四氏を四大檀越(だんのつ)と言う。これも宗派意識から、その名が入れ替わることもある。そんな称号はこのさい関係がない。大きな影響力をもった波木井氏への手紙の数が少ないのは、やはり近隣にに住み、その子息たちが直接日蓮のもとに出入りしていたことと関係があろう。問題は池上氏で、弟兵衛志に比べて兄宗仲宛てのものが極端に少ないことである。これはなぜだろうか。 --------------------------------------------------------------☆☆---- 一説には、兄宗仲は信心強盛だったのに比して、弟兵衛志は、ともすれば不安定なところがあり、日蓮が心配して多くの手紙を出したという。しかし、これは現存の御書からのみの判断であり、判断に妥当性を欠く。 むしろ、兄宗仲宛ての手紙は、上代の早い時期(少なくとも録内編纂以前)にごっそり消滅してしまったと考えたほうがよいと思われる。これは単なる想像ではない。追って検証していくことにしよう。 一般に日蓮の手紙は「○○御返事」というように、そのほとんどが返信という形をとっている(日蓮からの往信は例外的といえるほど少ない)。これはなぜかというと二つの事情がある。 ひとつは当時に郵便制度などなく、日蓮の側から手紙を出すには、宛て先方面への旅人に託するか、使者を立てるかしなくてはならない。しかし、都合のよい旅人が、そういるものではなく、使者を立てるには、遠方の場合など、旅費や使者の都合も考えてやらねばならない。日蓮の側からの往信は、相応の困難な事情があったのである。 そういうなかで、日蓮の手紙がどのようにして運ばれたかということであるが、日蓮の手紙を分析すれば、その手紙がどのうようにして運ばれたか、推定する手がかりが示されている場合が多い。「○○御返事」とするものの殆どは冒頭に受け取った供養の品と数量がこと細かく記されている。このことを従来は日蓮の几帳面な性格を表わすものであるとか、日蓮の経済観念の表れとされてきた。 しかし、日蓮のもとへ、その供養を運んできた信徒の使者(従者)の立場で考えれば、日蓮から供物の受領書を貰わねば、帰ってから主のもとに復命できないという事情があったはずである。当時は長い道中で荷が抜き取られたり、転売されるという事故は少なくなかった。日蓮の手紙には、信仰を語る以前に、ご供養の受領書という現実的な目的があったのである。 つまり、このことから、信徒の往信や日蓮の返信を仲立ちしたのは、供養の品を日蓮のもとに運んだ信徒の使者(従者)であることがわかる。これが二つ目の事情である。この使者が休息している暇に日蓮は、せっせと信徒への手紙を書き綴ったのである。時には、帰る使者に急かされるということもあったようである。 「御使ひ急ぎ候へば筆を留め候ひ畢んぬ」(s1276.12,h1054.11,p1536.15) ともあれ、これで日蓮の手紙が「○○御返事」と返信が殆どである理由が理解できよう。 ここで話を池上氏へ戻せば、信心強盛で、かつ弟よりも経済力があった兄宗仲から日蓮への供養が弟より少なかったとは考えにくい。もし弟より供養が多ければ、兄宗仲は弟より多くの手紙(御書)を貰っていたはずなのである。しかるに兄宛ての手紙は極端に少なく、真蹟は若干の断簡が伝わるのみである。 また、弟兵衛志への手紙の中には、兄への手紙を見るよう指示しているものがあり、やはり日蓮からの手紙は兄宛てのものが主体だったことを推測させる。 「兄弟の御中不和にわたらせ給ふべからず、不和にわたらせ給ふべからず。大夫志殿の御文にくはしくかきて候。きこしめすべし」(s1626.13,h1354.02,p1100.10) ここにいう「大夫志殿の御文」は現存しない。 やはり、大量にあったであろう池上大夫志宗仲宛ての御書は、早い時代に何らかの事件に巻き込まれて、そっくり滅失してしまったのである。現在、例外的に伝わる少数の写本は滅失事件以前に流出していたものであろう。 推測される不幸な事件とは何か。それは池上本門寺の来歴に記されている。それは『当門徒継図次第』によると、宗仲滅後、宗仲の孫の代において、孫が法華経信仰を捨てるという事件が起こっている。この時、池上家の当主は、法華経を捨てただけではなく、池上本門寺の寺地と建物をそっくり鎌倉の寿福寺(浄土宗)へ寄進してしまったという。 「池上の大檀那宗長(ママ→宗仲)の末孫退転し、池上の寺領三町六段を南小路の道場へ寄進し、寺をば寿福寺の末寺と成さんとす」(日全19-67) 当時は、池上の寺と鎌倉の比企谷妙本寺は両寺一体制をとっていたようで、時の貫主は第四世日山(1338〜1381)の代であったという。それで日山らは、急遽、御影(現国宝)を比企谷を移す一方、公方に訴え出て、寺を取り戻すまで大変な苦労をしたようである。 ともかく、日蓮の池上宗仲宛の書簡は、ごく常識的に考えて、この時に池上にあったものと思われる。しかし、記録には、そのことについては何ら記されていない。このドサクサに紛失したか、池上の当主によって全て処分されてしまった可能性も考えられよう。 また、同じ頃(日山の代)において、この比企谷の寺も炎上している。 「比企谷妙本寺は炎上す。小町より火が出て類火なり」(日全19-68) 古来、貴重な文献が烏有に帰してしまった、大半の理由が火災によるものであった。貴重な人類の文化遺産を所用する諸寺、諸機関には心して、その厳護をお願いしたいと思う。 また、現存する御書だけで、物事を判断するのは、ときに早計、拙速、誤解を生むもとになる。いずれにせよ、総合的な視点が必要であろう。 ところで余談ではあるが、池上兄弟の名について述べておこう。先に引用した文献では、宗仲と宗長の名が入れ替わっているが、じつは古来、兄弟の名が混乱して伝わって来たのある。当時の名付けの常識からいうと「長」は長男に「仲」は次男に「李」の字は末子に使われる字なのである。 ところが、日興の筆になる御遷化記録に「地頭衛門大夫宗仲」とあり、国宝である池上御影の胎内から、「大施主 散位大中臣 宗仲」の本人署名が発見されるにおよび、兄である「大夫志」の本名が「宗仲」であることは確定している。 そうなると弟「兵衛志」を「宗長」と長子の名にするのは、どうもすわりが悪い。というよりは弟「兵衛志」を「宗長」とする信頼できる根拠は何もなく、後世の間違いである可能性が非常に高い。 ついでに言えば、父を「康光」とするのもおかしなものである。親子の字が違う例は少なくないが、武家社会にあって「康光」「宗仲」と並べると不自然さが際立ってしまう。やはりこの「康光」の名も確たる根拠がない後世の説なのである。 そんなところから、からぐらで配布している『日蓮大聖人詳註年譜』では「康光」、「宗長」の名を削り、父「左衛門大夫」、弟「兵衛志」とした。確定しているのは兄の名だけなのである。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |