『異体同心事』
『異体同心事』 2007/07/24★からぐらの風 #0022 -------------------------------------2007/07/24 ----☆『異体同心事』☆----------------------------------------------- からぐらの御書データでは、第五版から『異体同心事』を二つに分割した。この御書は前半と後半とでは、明らかに対告衆が違っており、本来別のものだということは、早くからいわれていたことである。ただこの御書は熱原法難と深くかかわっており、熱原法難の研究の進展と睨み合わせて『異体同心事』の取り扱いには十分な慎重さが求められる。解釈においてはなおさらである。 --------------------------------------------------------------☆☆---- この書を建治元年八月六日、高橋入道宛て、としたのは堀日亨師の判断である。最も古い写本である平賀本には「八月六日」とあるのみで、年号の記載は無いという。また、堀師の判断以前には、大田氏宛てのものとされていた。 『異体同心事』の対告衆を高橋入道とするのは、元来、富士方面の信徒の中心者が高橋入道であったからである。そうすると高橋入道は建治元年十月に死去しているから、系年もそれ以前にしなければならない。紙本の『御書全集』が建治元年八月としているのはそのためである。 しかし、文体から熱原の門下へ強い警告が窺われることから、熱原法難渦中の弘安二年ごろではないかとする見解も根強くある。ただ弘安二年の『滝泉寺申状』には「此の四箇年の程、日秀等の所職の住坊を奪ひ取り」(s1681.06,h1403.07,p853.02)と見え、すでに建治二年には、熱原の衆徒が住坊を追われる等の弾圧を受けていることがわかる。とすれば、熱原法難の発端は日興が富士方面で本格的な弘教を開始した頃にすでにあったことになる。 日興が富士方面で熱烈な弘教を開始したのは佐渡帰還後の文永十一年夏のことであるが、熱原の衆徒に異体同心の団結を説くほどに弘教が結実するためには、一定の時間経過が必要であろう。とするならば、文永十一年とするよりは、翌文永十二年(建治元年)と見るほうが自然ではなかろうか。また冒頭「あつわたの小袖」のご供養がみえるが、通常、綿入れの防寒衣等、冬篭りの用意は、冬になってからではなく、穫り入れがおわった後、秋の間になされるものである。 このような理由から『異体同心事』を建治元年秋と判断したわけである。対告衆は、断定できる材料はないが、文中「貴辺は多年としつもりて奉公、法華経にあつくをはする」(s829.11,h1390.03,p1463.14)とあることから高橋入道とみなして特に問題はないと思われる。 ただし、これは「大神にも申し上げて候ぞ」までの前半について言えることである。後半「御文はいそぎ御返事もうすべき」以降は、先にも述べたように対告衆が違う。鎌倉から下総方面の中心者である弁阿闍梨日昭の「べんぎ」を述べていること、法難関係ではなく、蒙古襲来の予告がメインになっている。 後半冒頭には「御文はいそぎ御返事申すべく候ひつれども、たしかなるびんぎ候はでいままで申し候はず」(s829.14,h1378.16,p1463.16)とあるが、法難に関わることであるならば、このような悠長なことは言えない。身延から富士の間は、徒歩でも、わずか二日路である。火急ならば「たしかなるびんぎ」などと言わず、近在の波木井一族やその家臣に依頼することもできたはずである。そういうことから、後半を別御書とみなしたわけである。 なお、後半に『蒙古事』との名を付与したのは、平成六年刊行の『平成新編』である。からぐらの御書データがその名を踏襲したのは、特別な問題がない限りは先に公刊した名称を用いるという通例に従ったものである。 ただし『平成新編』では『異体同心事』を弘安二年八月とし、『蒙古事』を弘安二年八月六日としているが、その説を採用することはできない。『平成新編』は、ともに弘安二年としているが、『異体同心事』を「八月」とするのはいかなる根拠によるのであろうか。前後を分離するならば、前半の『異体同心事』に後半に記された日付は及ばない。 議論が前後するが、今ここで『異体同心事』の建治元年説を採って、弘安二年説をとらない理由は、弘安二年では「貴辺は多年としつもりて奉公、法華経にあつくをはする」に相当する人物が見当たらないからでもある。当時、熱原衆徒の庇護に当たっていたのは南条時光であるが、「多年としつもりて」とするにはあまりにも若すぎる。あるいは西山の河合入道かとも考えられなくもないが、はたして熱原衆徒の庇護者とみなせるだろうか。 じつは、もう一点『異体同心事』の建治元年説を補強する文献がある。建治二年の『報恩抄送文』に「此の御房は、又内内人の申し候いしは、宗論やあらんずらんと申せしゆへに、十方にわかて経論等を尋ねしゆへに、国国の寺寺へ人をあまたつかはして候に、此の御房は、するがの国へつかはして、当時こそ来て候へ」(s1250.13,h1038.02,p330.09)と見える。この「御房」とはいうまでもなく『報恩抄』の使者となった佐渡房日向のことである。 この日向は上総・安房方面を根拠地とする僧であるが、建治の初年には、日蓮の命を受けて駿河の日興の活動を支援していたと思われるのである。日興と日向は佐渡で苦労をともにした間柄であり、日蓮滅後も、身延に登山した日向を日興が無条件で学頭に任ずるなど、二人の関係は決して浅くはない。 『異体同心事』にも、日興と並んで日向が指導者として位置づけられている。「はわき房・さど房等の事、あつわらの者どもの御心ざし」(s829.03,h1389.14,p1463.07)と見えるのがそれである。 『報恩抄送文』と『異体同心事』の両御書は、明らかに符号している。むしろ、上総・安房方面の日向がなぜ『異体同心事』に登場するのかという謎が解けるのである。逆に弘安二年の熱原法難に日向が関与したという痕跡は全く認められない。 やはり、『異体同心事』は弘安二年ではなく、建治元年としたほうが諸般のつじつまが合うのである。 ところで、熱原衆徒と日向の関わりを示唆する文献写真が一点、公刊されているが、誰も問題にしないので、ここで取り上げて、大方のご意見をお聞きしたいと思う。それは身延山久遠寺蔵版の『本尊論資料』に収録されている日向が書いた本尊の日付と授与書である。 身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』(新訂版)1998年、臨川書店再刊。 その第二編「諸山相伝」の四枚目の本尊写真。静岡感応寺宝蔵。 その日付は「建治二年八月廿六日」。 授与書は「授与之 日弁・日秀・日禅・頼円・蓮海等者也」とある。 ここに熱原の衆徒の名が列挙されてあり、もし、これが本物ならば、熱原法難研究の第一級史料となる。しかし、日蓮存命中の建治二年に、日向がかかる曼荼羅本尊を熱原衆徒に授与していたならば、日向という人は、師匠に隠れて大変な誑惑をやっていたことになる。 果たして、これは本当に日向のものなのだろうか。日向の書写した本尊は、以下のものにも収録されている。 日蓮聖人門下歴代『大曼荼羅本尊集成』1986年、同刊行会刊。 その第二十二番本尊。京都妙伝寺蔵。永仁四年六月二日付。 こちらのものは、学術研究として文部省の助成を受けたもので、立正大学や身延山短期大学の錚々たる学者が結集されている。学問的な信頼度は高い。 これによると日向の書写本尊は富士の日興のものと、ほぼ同じ形態をもっている。首題の真下に日蓮(聖人在御判)を置き、自らの名は左下隅に小さく記している。後年歴代の身延貫主のものとずいぶんな違いがある。 この二つを比較してみると、とても『本尊論資料』のものが日向のものとは思えないが、もし、これが逆にニセモノだとするならば、誰が何のためにこのようなものを作成したのかということになる。 考えられることは一つ。それは、富士派を切り崩す目的で作られ、謀略として使われたということであろう。その件の本尊が富士派の本拠地である静岡県の日蓮宗寺院に伝わることが何よりもそのことを語っていよう。(それ以外の解釈ができるだろうか) 富士派に対して、身延派による熾烈な切り崩しが行われていたことは歴史的事実としてここにも浮かびあがってくるのである。それにしても身延山久遠寺の名を冠した資料集にとんでもない杜撰な写真を載せているものだと呆れ返る。 何度も繰り返すが、富士と身延の抗争を煽るつもりは毛頭ない。しかし、歴史的事実は明確にしないと真の対話も成り立たないだろう。 なお、後半の『蒙古事』の系年の考察については、切り離して別御書としたのであるから、稿を改めて考察することにしたい。次回か、または…。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事 追加(2007/07/28)
日興の事跡を日向にすり替え、本六下野房日秀を日向門下の丹波房日秀にすり替え、本六日禅もまた、日向の弟子にすり替えられている。 稲田師の記録は次のようにある。(原文旧漢字、縦書) -------------------- 同年(明治40)九月廿三日 静岡感応寺(寺主今井真澄師)に詣る(宗論著述目録編纂に付、材料蒐集のため)当時幸に当山開山日向上人の建治の御本尊を拝せり 建治二年八月二十六日 二聖 不動明王 今此三界皆是我有 南無天台伝教大師 南無妙法蓮華経 日向 在御判 其中衆生悉是吾子 吾師日蓮大聖人 授与之 日弁・日秀・日禅・頼円・蓮海等者也 因に此御本尊を感得せる縁由を述ぶれば、天保十一年三月当山歴代智真院日瑞上人駿州賀島富士郡へ布教の際、岩本の附近なる入山瀬村の感応山滝泉寺の古蹟を探りしに、計らず其地の名主の宅にて此御本尊を得たりと云ふ、且つ今猶彼処に古碑を存せり、其碑に曰く、 三名浄行菩薩の住蹟也 南無日蓮大菩薩 天下太平御領主長久施主安楽 抑彼地は三名浄行菩薩の御垂迹地なる文証は、是より先き今井師滝泉寺の事蹟調査のため態甲州成島感応山滝泉寺に問たるに、彼山稲村義友師より左の回答ありける由、 駿河の国滝泉寺と申は浄行の住処也今此別当ならせ 已上二行二十六文字の御真蹟は、当山開山正善院日応上人の感得し奉る所なりと、 猶当山には安政年度まで五箇房存せし由、此れ由て当山滝泉寺との関係の如何を知るべし、其五坊とは 一ニ越後坊 中老僧日弁上人〈峰妙興寺開山〉の御旧蹟 二ニ下野坊 同 日秀上人〈藻原第二世〉の御旧蹟 三ニ少補坊 同 日禅上人〈藻原第三世〉の御旧蹟 四ニ和泉坊 同 日海上人〈藻原第四世本云蓮海〉の御旧蹟 五ニ三河坊 同 日円上人の御旧蹟〈現存〉 -------------------- 稲田海素著『日蓮聖人御遺文対照記』1907年、平楽寺村上書店刊。136頁。 からぐらの風・indexへ | |