『ブッダのターミナルケア』

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『ブッダのターミナルケア』 2007/07/15





★からぐらの風 #0021 --------------------------------------2007/07/15
----☆『ブッダのターミナルケア』☆------------------------------------

 いかなる人であれ、人は「人として生きた」という事実において、その死は厳粛なものである。誰にも人の死に対して単純に「勝ち負け」の評価を下せるものではあるまい。もし死と厳粛に向き合えない人があるとすれば、それこそ悲しむべきことである。動乱の世では、人は無感動になり、人の死は塵芥のように処理される。今はどうなのか。残念ながら今も死と向き合えない人がいる…。

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 今回、ご紹介したいのは次の書籍である。

 吉元信行著『ブッダのターミナルケア』2005年、法蔵館

 ここでいう「ターミナルケア」とは、看護の視点から、人生の最終章を迎えた人に、いかに接するかということである。「臨終看護」と訳するのであろうか。

 本書は実際に、その看護に携わってきた医師や看護師の視点から、ブッダの初期経典である『大パリニッバーナ経(涅槃経)』を講読したものである。テキストには中村元訳『ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)』岩波文庫が使われている。

 この経典を単なるブッダの伝記として読むのではなく、これを死に行くブッダのターミナル・ステージとして、そのステージで、ブッダが、いかなる振る舞いをし、何を語り、また、介護している弟子アーナンダがどのように対応したかを、実際に臨終介護に携わってきた人の経験に照らして読んでいるのである。

 それはまた、死の問題とともに「書を読む」ということが、どういうことなのかをあらためて気付かせてくれる。

 御書にも、ターミナルケアに関する記事が多く散見されるし、日蓮のターミナルステージが静かに語られているところもある。

 日蓮が佐渡期から煩瑣に使う「霊山浄土」の言葉は、やがて晩年身延期になって、「霊山往詣」の思想として信徒に語られるようになる。それは、まさにターミナルケアの思想と深い関わりをもっているとみるべきであろう。

 千日尼御返事「いそぎいそぎ法華経をらうれう(糧料)とたのみまいらせ給ひて、りやうぜん(霊山)浄土へまいらせ給ひて、みまいらせさせ給ふべし」(s1762.12,h1476.15,p1320.12)

 しかし、残念ながら、御書をそのように読む人は少ない。そこを飛び越えて、死んだ後の葬式の「追善文」「讃徳文」にいってしまう。葬儀の席で読まれるあの文章は、葬式のために日蓮が述べたのではなく、本来、死にゆく人へのケアとして書かれたものであった。

 この「日蓮の霊山往詣思想」は、まだまだ十分に研究され、門流によって消化されているとはいえない。日蓮が『立正安国論』などで法然の「浄土思想」を排撃したことと、どのような脈絡をもっているのか。どのような質的相異があるのか。この点に関して、念仏信徒から強い批判がなされているが、未だ日蓮の門下からは、十分な回答がなせているとはいえない。

 浄土宗の「極楽浄土」を「架空の世界」と一蹴した法華信徒に対して、「ならば法華経なんて『おとぎ話』じゃないか」と応酬した念仏信徒との双方にみられる「宗論」の滑稽さは、形式論理を振り回すところにある。

 少なくとも日蓮の「霊山往詣」思想は、平面的な形式論理では絶対に捉えられないであろう。自ら老と向き合い、死と向き合い、死に行く人と厳粛に向き合えないならば何も見えないと私は思う。

 ともあれ、御書や経典にみるまでもなく、仏教は豊かな心のケアをおこなう智慧に満ちている。しかし、なぜか、今の仏教者(仏教の信仰者)は厳粛な死と向き合うことができなくなっているように思えて仕方がない。だから、死後の葬式という儀式だけを厳粛・豪勢に行おうとするのではないだろうか。

 近代において、こういうケアの問題に、正面から取り組んできたのは何といってもキリスト教徒であろう。近代的なカウンセリングの方法や介護の方法を確立してきたのも彼らキリスト教徒の献身であった。

 ただ、ターミナルケアとは人生の最終章というだけに、その人の生き方全般、風土や文化や環境と深いかかわりがある。こういう日本の風土のなかでは、キリスト教を土壌にして出来上がったカウンセリングには、どこか接木のようなちぐはぐさがあることも否定できないであろう。

 そういうところから、今、仏教をもとにした近代的なターミナルケアの確立が求められているわけである。ほんらい、仏教が最も優れていた分野が、いま最も立ち遅れているわけである。それが歴史の実相である。

 ともあれ、これは、いずれは死を迎えねばならない自らが、いかに死というものと向き合っていくかという課題でもある。「死」と向き合えないということは、「生」と向き合えないということでもある。生死は不二なれば…。

                   初稿2007/02/06[K3862]

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