教観相対と四重興廃 2007/07/01★からぐらの風 #0018 --------------------------------------2007/07/01 ----☆教観相対と四重興廃☆-------------------------------------------- ところで、この教観相対なる発想には、本迹の相対を次の段階で本迹一致にひっくり返してしまう、論理としては大変なトリックが潜んでいる。なかなか厄介なもので、うっかりしていると富士派の教義体系がこけてしまいかねない。じつは教観相対の発想は富士教学の中枢にも忍び込んでいるのである。富士教学の中枢というとご存知『本因妙抄』である --------------------------------------------------------------☆☆---- 『本因妙抄』細字分(いわゆる後加文)では 「彼の一品二半は舎利弗等の為には観心たり、我等・凡夫の為には教相たり、理即・短妄の凡夫の為の観心は余行に渡らざる南無妙法連華経是なり」(s_,h1680.10,p874.01) 『本因妙抄』太字分では 「彼が極位は此の浅位・彼の極果は此の初心・彼の観心は此の教相」(s_,h1682.07,p875.08) とある。ここでは明らかに天台家との比較において教観相対の発想の上で観心が深いとしているのである。 この例でもわかるように、『本因妙抄』のいわゆる、本文・後加文の違いの強調はあまり意味がない。その分類に明確な根拠が不明であるし、長い歴史の間に重層的に書き加えられてきたものであろう。『本因妙抄』そのものは中古天台において伝教に仮託された『三大章疏七面相承口決』をベースに、富士の立義に読み替えてできたものであることは文献学的に明らかである。 まして、そこに教観相対の発想が混入しているとあれば、『本因妙抄』は、ますます中古天台との親近性が問われることとなろう。 ともあれ、この「教観相対」の発想が、中古天台のどこに見られるかというと、「四重興廃」が挙げられよう。「観心の大教興れば、本門の大教廃たる」という例のものである。私は、学生時代に「四重興廃」を学んで以来、本門の次が何故、観心なのかという疑問と違和感を持ち続けてきた。 ちなみに、御書で「四重興廃」を説くものには、次のものがある。 十法界事「所以は何ん。迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門爾前亡じ、観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず」(s140.1,h176.13,p420.06) 立正観抄「其上天台の釈の意は、迹の大教起これば爾前の大教亡じ、本の大教興れば迹の大教亡じ、観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは、本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時」(s846.05,h768.09,p529.02) 立正観抄送状「抑も承り候当世の天台宗等、止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝る。又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つと云ふ事」(s870.07,h773.15,p534.05) ともに天台の学僧との対話という文脈において出されるのであるが、、『十法界事』は、四重興廃が肯定的引用されているのに対して、『立正観抄』では否定的引用と正反対の対応となっていることが注目される。 -------------------- しかし、この問題に突っ込むといろんな問題が噴出してくる。さて、どうするか。いささか躊躇し、葛藤は際限なく葛藤を生んでいく…。さあれ、ここまで来たら意を決して踏み込むしかあるまい。 この四重興廃が日蓮以前に出来ていたのか、日蓮以降の思潮なのか、議論の分かれるところで、その帰趨によっては、真偽問題に発展する。 それはともかく、この四重興廃に触れられた最初期の文献として東陽房忠尋の作と伝えられる『法華略義見聞』が挙げられる。 「四重興廃之を思うべし、迹門大教興れば爾前大教亡ず、本門の大教興れば迹門の大教亡ず、観心の大教興れば本門の大教亡ずと云う、故に前は皆権にして次を実と為す」(大日本仏教全書40所載) この思想の元になったといわれるのが、天台の『法華玄義』の絶待妙の釈である。 「迹の中に、先に方便の教を施せば、大教起ることを得ざるが如し。今、大教若し起こらば、方便の教は絶す。所絶を将て、以て妙と名づくるのみ。又た、迹の中に、大教既に起これば、本地の大教は興ることを得ず。今本地の教興らば、迹の中の大教は即ち絶す。迹の大を絶するは、功、本の大に由る。迹を絶するの大を将て、本の大に名く。故に絶と言うなり。又た、本の大教若し興らば、観心の妙は起ることを得ず。今、観に入りて、縁寂せば、言語の道断じ、本の教は即ち絶す。絶は観に由る。此の絶の名を将て観妙に名づく」(T33_p697b) たしかにここには「今(迹の)大教若し起こらば、方便の教は絶す」「今本地の教興らば、迹の中の大教は即ち絶す」「今、観に入りて、縁寂せば、言語の道断じ、本の教は即ち絶す」とあって、これが四重興廃に転じていったといわれれば、なるほどと思われるが、この転じ方はむしろ『法華玄義』の換骨奪胎、単純化と矮小化ではないかと思われる。 なぜならば、『法華玄義』が「絶す」とした言葉を、単純に「亡ず」という言葉に置き換え、「観心の妙」を「観心の大教」と置き換えてしまっているからである。 「絶す」は「たえる」と訓じ、「絶滅」「廃絶」の意に使われることもあるが、本来の字義は字の成り立ちのごとく「色糸」であり、刺繍糸のことである。転じて美しいもの、立派なものの意となり、「絶妙」「絶景」のような使われ方が本来のものである。『法華玄義』においては、当該の解釈の前後に「絶」の定義を示している。「ただ妙を喚びて絶と為すのみ。絶は是れ妙の異名なり」「絶を以て妙と為す」とある。 であるならば、決して「絶す」を「亡ず」に置き換えることはできないはずである。『法華玄義』の内容に即していえば、「今(迹の)大教若し起こらば、方便の教は絶す」は、迹門の大教が起こるならば、方便の教が正しい位置づけを得て消化される。「今本地の教興らば、迹の中の大教は即ち絶す」は、本門の教が起これば、迹門が正しい位置づけをえて本門の中に消化されてしまう。といった意味になるのではないか。 また、「観心の大教」という言葉には、言語矛盾がある。「観心」とは己心を観ずることで、行為ないしは智恵であって教義教相ではない。「観心の大教」には教としての実がない。故に「観心の妙」という言葉をそのような言葉に言い換えることはできない。 『法華玄義』の当該箇所の解釈は、観心という修行の実践(智慧)によって本門の教が本来の目的を達し消化されるという意味ではなかったか。そしてこの「観心の妙」は『法華玄義』では明かされていないが、『摩訶止観』で「一念三千」の名目が示され、やがて南無妙法蓮華経へと結実してくるものだったのである。 さて、「観心の大教」なる言語矛盾を、はたして日蓮が見逃すものだろうかという問題意識で件の『十法界事』を眺めていると、当該書の結末部分で論理破綻があることに気がついた。 「本門未だ顕れざる以前は、本門に対すれば尚迹門を以て名けて虚となす。若し本門顕れ已りぬれば、迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月・水月、本有の法と成りて、本迹倶に三世常住と顕るるなり」(s144.03,h180.01,p423.10) 「本門未だ顕れざる以前」には、「本門に対す」ることはできない。だから「迹門」を「虚」であると知ることもできない。「若し本門顕れ已りぬれば」「迹門の」瑕が見えだし、はじめて「虚」なることを知ることができる。そこで本門の立場から迹門を捉えなおすことによって(開会)、迹門は本来の価値を持つようになる。しかし、「天月・水月」の差別はなくならない。「天月=空の月=本門」「水月=水に映った月=迹門」の立てわけは、本門に開会されてもなくならない。どのような場合でも、決して水月が天月に等しくなることはない。これは道理として誰にでも分かることである。 これは、その少し前に「記の九に云く『故に知んぬ迹の実は本に於て猶虚なり』已上。迹門既に虚なること論に及ぶべからず」(s143.13,h179.13,p423.05)として本迹の勝劣を認めているとおりである。ところが、次の段階で、「但し」として前言をひっくり返して本迹一致へもって行こうとする。これをトリックとはいわないであろうか。 先の文でも、「仏因は即ち本門の仏果なるが故に」と仏因仏果という別の問題を引き出して、問題をややこしくし、目くらましに使っている。これは意図的なものとしか思えないのである。 このように見てみるとこの『十法界事』には、とんでもない問題が伏在しているといわねばならない。 これに対して、『立正観抄』は四重興廃を否定的にとらえているが、どうしたことか、天台学者の立論を「天台の血脈相承の秘法を習い失いて」(s850.06,h772.04,p532.13)とあざけっているが、そのような論法の背景には、自らこそ、正統の血脈を引くものとして、「血脈」に自らの立論の根拠を置いている。その証拠に『立正観抄送状』に「日蓮相承の法門血脈慥に之を註し奉る」(s872.01,h775.04,p535.11)として自分が相承した法門をここに記すとしている。 このような血脈を前提とした正統性論議に如何ほどの普遍性と説得力があるだろうか。私には同じ穴の狢としか思えないのである。 かつて私は、ある人々から、このように言われたことがある。「不相伝の輩にわかるわけがない」と。しかし、閉じられた世界に篭った一部の特別な人にしかわからないということは、法に普遍性がないということだと思う。そんなところに道理はない。ゆえに興味も無い。 最後に、はじめの命題にもどれば、教相と観心は次元の違う概念であり、相対は無意味である。それは次のように図解するといっそうはっきりする。 教相→教相判釈→知識→認識→客観 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 観心→観照己心→智慧→当為→主観 これを無理に相対するから、相対不能として「一致」と誤認識され、確定したはずの元の本迹相対に判定が差し戻され、本迹一致が強調されることになるのである。わたしが敢えてトリックという理由がここにある。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |