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魯ひと版『十大部御書』 2007/06/27





★からぐらの風 #0015 --------------------------------------2007/06/27
----☆魯ひと版『十大部御書』☆----------------------------------------

 魯ひとには、御書は日興のいわゆる十大部を中心に学ぶべきだとの認識があり、その認識のもとに魯ひと独自の編集になる紙本の『十大部御書』を造っている。限定一部。必要に迫られて作ったもので公開の予定はない。ただ、同学の皆さまの参考になればと思うので、構成、およびアイデアをご紹介する。

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 内容的には、真蹟や諸刊本を参照したのは当然であるが、活用の必要性から、いろいろなアイデアを取り入れた。全体のイメージとしては、中村瑞隆の編集になる『現代語訳法華経』の構成を参考にし、ヒントとした。

 同書のページ建ては、本文スペースを全体の3分の2とし、本文下に脚注スペースを大きくとっている。さらに天注に諸本のページを付している。

 魯ひとバージョンは、脚注はつけていないが、本文スペースを全体の5分の3とし、天部5分の2を空白としノート部とした。ここに、魯ひとの手書きで多くの書き込みがある。

 諸本のページ行は、段落毎に入れた。取り上げたのは『昭和定本』『平成新編』『御書全集』(『御書全集』ページを最後に持ってきているのは、パッと見た時に一番見やすい位置だからである。念のため)これに別途自作編集した『真蹟写真集』の「紙番号」をつける。「開目抄」「報恩抄」には『日乾対校本』のページと行数。

 版形はB5版。縦書。単に読むだけなら、A5版の方が扱いやすい。しかし、いろいろと書き込みをするためには、このサイズが手ごろだろう。フォントは明朝の12ポイント。1行は29字で17行。

 思索の時は、一字一字、文字を追うのではなく、塊りとして文章を捉えるので、一見して出来るだけ多くの文字がパッと眼に飛び込んでこないといけない。その点、新聞はよくできてきる。しかし、これからわが身が老境に向かって視力が衰えていくだろうことを考えると12ポイントが妥協点だろう。結果、中村瑞隆本のイメージからかなり違うものとなった。

 縦書については、読みやすさを最重視するなら、むしろ横書の方が適しているかも知れない。しかし、さあっと流れてしまう面があって、印象力は縦書の方が優れているようだ。思索しながら読む分には、適度なストレスがある縦書が向いているようだ。

 魯ひとの『十大部御書』の特徴は、何と言ってもその行の区切り方、段落の立て方にある。

 当然のことながら、日蓮の真蹟には句読点がない。しかし読みやすくするには、句読点を入れ、適宜改行を入れる必要がある。現行の『御書全集』は、この句読点が極めて少なく、学校で習う『現代国語』の方式とも違っている。また改行も少なく、不適切と思われる改行も少なくない。これが、御書の「全編読破」を試みる多くの青年たちを挫折させてきた、最も大きな原因ではないかと思う。

 私たちが書物を読み進めるあり方を分析してみると、先にも触れたが、単に文字を一字一字追っているわけではない。視野に飛び込んでくる文章を固まりとして大づかみにして、そのなかで語彙を追っている。だから、かな文字文よりも漢字かな混じり文の方が読みやすいわけである。またひとつかみの文章が明快であれば、読むスピードも早くなる。

 私は大脳生理学には疎いが、本を読むのは、質の違う二つの脳がはたらいているのではないかと思うことがある。書をイメージとして追っている脳と、意味を理解しようとしている脳の二つである。おそらくはイメージする脳が先読みし、後から理解する脳が追っかけているように思える。

 このイメージする脳の先導が弱いと、理解する脳は、強いストレスを感じて読書を中断してしまうのではないかと思われる。よく人を右脳型、左脳型に分類する考え方があるが、私が思うに、あれはウソだろう。もし、そういう右脳・左脳という二つの脳があるならば、両方はたらかなければ、読書という高度な知的作業はできないと思うからである。

 このことを強く感じるのは、カタカナを地にした古典文書を読む時である。私たちはカタカナもひらがなも、何不自由なく読めるし、知識としての差はないはずである。しかし、カタカナを地にした文章を読む時のストレス、疲労感は大変なものがある。

 これは、おそらくカタカナ文では、文章を固まりやイメージとして捉える脳が十分に働かないからではないかと思われる。だから、新しく御書を編纂する場合には、イメージする脳が働き易いように編集する必要があると思う。つまり適切な句読点と適宜の改行は絶対に必要なのである。

 学校では、先生がリードして教科書を音読する。すると、生徒は勉強ぎらいな子も、それについて、すらすら音読できている。この原理だと思う。先生は、ひとつの段落が終わると、音読を止めて、簡単な解説をする。そして、また読み出す。そして区切りで止めて、小解説。この繰り返しである。これで、生徒たちは、どんどん内容を理解していくことになる。

 このような先生の解説をまとめると、小さな講義録ができるが、今求められているのは講義録ではなくテキストである。しかし、先生が内容を大づかみしてやると、生徒の理解力が早くなり、思索力が活性化することは事実であろう。

 そこで、私が着目したのは、見出しの効用である。新聞はこれを最大限に活用している。しかし、静かな読書には、新聞のような見出しやリードを付けられると、うるさ過ぎる。新聞を読んでいる時でも、ときに「黙っとれ」と叫びたくなることがある。

 しかし、その段落の内容を大づかみできる適当な小見出しがあれば、理解しやすくなることは事実であろう。

 また、思索力が活性化した生徒は、時には、先生の簡単な解説にくちばしをいれるようになる。私に言わせると、それこそ「おう、我が教え子よ」と歓迎すべきである。生徒のくちばしに顔をしかめるのはバカ教師か、ダメ教師だろう。

 そういう意味で、魯ひとの『十大部御書』には、内容の節ごとに見出しを入れた。ちなみに、「開目抄」では上下あわせて100の節に分けて見出しをいれている。参考までに、この100の分節をご紹介する。

  @http://www.ginpa.com/soko/kabun.LZH

ちなみに節に分けることを「分科」といい、小見出しを「科文」という。一応先学のものを参照しているが、必ずしもそれには依らず、魯ひと独自の判断をしている。ご批正を乞う。

                 初稿2007/03/26,27[k3896][k3897]

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