テキスト批判「法妙人貴事」 2007/06/20★からぐらの風 #0010 --------------------------------------2007/06/20 ----☆テキスト批判「法妙人貴事」☆------------------------------------ 御書の学問研究の第一歩は、テキスト批判から始まる。その文献の何をもって日蓮の書とするのか。その文献が本当に日蓮の心を正しく伝えているのか。文献を精緻に検証することが求められる。「権威ある大学匠が選び出されたから疑う余地がない」「唯受一人の秘伝である」「昔から正しいとされてきた」、…といったことを、宗教的に信ずることは自由であるが、学問の場では何の価値も無い。むしろ権威主義として排除される。 --------------------------------------------------------------☆☆---- それに反発して、宗教的信念に生きるのも、一つの生き方である。しかし、その地平で学問を語るべきではない。都合の悪いことは信念をいい、都合のいいことは学問をいうのでは、ご都合主義のそしりをまぬかれない。 人はだれも、人としての真を問われる。その厳しい問いかけに答えていかなければ、一人前の人として認められないであろう。まして思想家ならば、なおさらである。日蓮はそういう問いに生涯、自省的に、そして真摯に応答してきた。 これは、ひとつの文献においても同様なのだ。日蓮の書であるというならば、なおさら厳しい検証にたえねばならない。それは当然だろう。多くの人の生き方に関わってくることだからである。日蓮の思想、日蓮の書を後世に残そうと思うなら、そういう厳しい学問的検証を突き抜けていかねば、とうてい生き残ってはいかない。 文献批判においては、単に真蹟がある。古写本がある。どこそこの寺にあるといったことだけでは不十分である。例えば、紙の質とか、墨の分析とか、物理的な検証の分野もある。ここでは、そういう特殊な分野はひとまず置いて、我々ができることから、はじめよう。 検証の方法は、それこそ無数にある。一例として挙げれば、文献の伝来してきた過程を調べるという方法もある。ではここで、ひとつの文献を取り上げて、演習を試みることにしよう。取り上げるのは、 「南条殿御返事(法妙人貴事)」 (s1883.09,h1570.04,p1578.04) 旧名 南条兵衛七郎殿御返事 系年 弘安四年九月十一日。六十歳。 対告 南条時光。 伝本 録内。身延山行学日朝写本 さて、通常、南条氏関係の御書は、南条氏の檀那寺である大石寺や富士系の諸寺に多く伝わる。その中で、この書は身延山久遠寺に伝来するものである。真蹟はなく、最古写本は、行学日朝写本という。そしてこの書は「南条兵衛七郎殿御返事」の名で伝わってきたのである。『御書全集』の底本となった『縮刷遺文』や『昭和定本』では「南条兵衛七郎殿御返事」となっている。 この書の名を「南条殿御返事」と変えたのは堀日亨師である。それは本書の日付が「弘安四(1281)年九月十一日」となっているのに対し、宛名が「南条兵衛七郎」となっていることに矛盾を見出したからである。「南条兵衛七郎」は文永元(1264)年に亡くなっている。その差は17年にもなる。そこで堀師は、宛名の転写ミスであるとして「南条殿御返事」と書き変えたのである。 しかしながら、なぜ転写ミスと断定できるのか。なぜ転写ミスを犯したのかという考察なくして、単純に書き変えてしまうことには大きな問題がある。逆に真実を見えなくしてしまうおそれがある。 本書には冒頭、「所労難儀のよし聞え候」と当主が病であることが記されている。兵衛七郎で病というと、反射的に思い浮かべるのは文永元年の「南条兵衛七郎殿御書」(s319.02,h321.03,p1493.02)である。そこにも冒頭「御所労の由承り候」とある。表現は違っても、両者は全く同じ意味である。文永元年当時、兵衛七郎は重い病の床にあり、それからまもなく死去する。 南条兵衛七郎宛の御書は、彼が早世したためもあって、ただ一点のみ伝来し、真蹟が断簡として十一箇所に分蔵されて現存している。そしてこれが彼の消息を知る唯一の文献である。ゆえに兵衛七郎のイメージは病床と切り離せないのである。 とするならば、「法妙人貴事」(以下この名を使う)の書き出しは、南条兵衛七郎のイメージの上で作られているのではないかという疑念が浮かび上がってくる。じっさい歴史的に兵衛七郎と息子の七郎次郎と混同した誤文献が散在している。一例を挙げれば、この「法妙人貴事」の最古写本は、先述のように行学日朝の本であるが、日朝が兵衛七郎と息子の時光の区別がつかなかったらしいことは彼の著になる『元祖化導記』{01}に明らかである。 『元祖化導記』によれば日蓮の遺骨を池上から身延へ還送した時の宿所として「上野南条七郎宿所」を挙げている。しかし「七郎」は親の呼び名であり、当主時光の呼び名は「次郎」である。時光を「七郎次郎時光」と表記することがあるが、これは七郎の息子の次郎時光という意味である。また中世では、子の世代においても親の名跡を挙げる例は少なくない。しかし、父兵衛七郎は早死にしたため無冠で終わったため、その名が名跡になることはない。逆に息子の時光は任官(最終左衛門尉)しており、無冠の親の名跡を名乗ることはありえない。 日朝は歴史に残る著名な学者であるが、その日朝でさえも南条親子の区別ができなかったことは見過ごすことは出来ないことである。 さて、この「法妙人貴事」が、父兵衛七郎宛てではなく息子の次郎時光宛てであるとしても、その後に続く「いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候」は病気見舞いの状としては、いささか乱暴である。若い人への見舞いに、激励の意味を込めて「早くよくなって、一緒にまた遊ぼうや」という言い方はあるが、それは見舞いに行って、相手の眼をみて始めて言えることではないだろうか。手紙での激励としては不審に思われる。 まして、文末「参詣遥かに中絶せり、急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし」では、病気見舞いとしては無神経すぎるように思われる。まして日蓮であるならば、父親の兵衛七郎に手紙を出して後、まもなく兵衛七郎が逝去した悲しい記憶があるはずである。このような激励の仕方ができるものであろうか。弘安四、五年ころの時光の病といえば死線をさまよう大病だったのである。 堀師もこの点を不審に思われたようで、『南条時光全伝』{02}の付録弁妄(南条家に関する史実の偽妄を弁す)の6頁で、不審を表明し、「再々の往復がある中で何で一所も此の事が書いてなかろうか。又「参詣遥かに中絶せり」とは七郎次郎としては一年に何度も身延に行かるる事と何で定められよう。(中略)宗祖の方から下山されて南条邸で大変にご馳走になったような御状はあるが」と述べている。 少なくとも日蓮は、信徒が病と聞けばじっとしていられない性質のようで、自らも祈り、弟子を派遣して渾身の激励をするのが常である。そのことを考えればこのような乱暴な手紙はどうしても不審である。この「法妙人貴事」には病者に同苦する姿勢がまるでない。 また仮に相手が健康であっても、徒弟としての出家の弟子には「来い」とは言えても、檀那である在家の信徒に「来い」とはいえないであろう。 次に、不審なのは、「上野の国より御帰宅候後は」云云の記事である。南条時光は「上野殿」とも通称されるがこの「上野」は富士の裾野の小村の名に過ぎず、日蓮滅後百年は経過していると思われる『録内御書』が編纂された頃の人たちには、「上野殿」とあっても、その所在がすぐにイメージできなかったのではないかと思われる。「上野殿」の名から富士ではなく「上野(こうづけ)の国」をイメージしたり、豪族上野氏をイメージする者があったようである。故に後世に南条時光に関する多くの誤伝が発生したのである。その誤伝を正すことに堀師が随分苦労したことが上記引用書籍には述べられている。 また、「上野の国より御帰宅」あっても、そこに南条時光の縁故があった可能性は極めて少ないのである。南条時光の本貫の地は伊豆にあり、南条家の領地を安堵する直接の主家は北条得宗家である。従って南条家の領地は得宗家の領内に点在することになる。南条家の領地は、時光が晩年に息子たちに領地を相続させた時の譲状が現存しているのでそれによって知ることができる。所領は富士上野だけではなく、伊豆南条、蒲原庄関島、山内庄舞岡、鎌倉屋地、駿河磯機、丹波国小椋庄に広がっていた。いずれも北条得宗家の領内である。 上野国の守護職は幕府創設期には比企能員が当たり、比企氏滅亡後は安達氏が抑えるようになった。弘安四年当時は、秋田城之介安達泰盛である。安達泰盛といえば唯一、北条得宗家に拮抗する勢力を誇っていた。その領内に得宗家御内人で、かつ地頭職にある南条時光が所用で出向くというのは考えにくいことである。 上野国に南条時光の姻戚があったと推測する人もいるが、対立する主家同士の姻戚は、政略結婚として、その例は多いが、その下にある家臣同士の姻戚は考えにくい。なぜならば敵方への内通を疑われてしまうからである。また不用意な訪問は密偵として斬られてしまうおそれもある。 南条時光の姻戚を調べてみると、所縁の伊豆、富士方面に展開している。松野氏、石川氏、新田氏などである。いずれにしても上野国との関係はみとめられない。(参照文献・小野眞一『南条時光』{03}) これらのことを考え合わせると「上野の国より御帰宅」とあるのは、「上野」の名乗りを「上野国」に縁すると考えた者の誤解にもとづく創作と思われてくる。そうすると、本書を日蓮の真撰とするには余りにも不審なのである。 それでは、仮に本書が偽作されたものとするならば、その偽作の動機を明確にする必要がある。 もちろん、その動機は、繰り返し、繰り返し、身延参詣が訴えられていることに明らかではないかと思われる。富士門徒の大檀那である南条氏に寄せることで、身延参詣を拒否する富士門徒を切り崩すのが目的ではないかと推測することは可能である。 1、「いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候。」 → ともかく来なさい。 2、「未だ見参に入らず候」 → だから来なさい。 3、「かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき」 → だから来なさい。 4、「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」 → 来たらすごい功徳がある。だから来なさい。 5、「清涼池の如しとうそぶきしも・彼れ此れ異なりといへども、其の意は争でか替るべき」 → だから来なさい。 6、「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり」 → だから来なさい。 7、「参詣遥かに中絶せり急急に来臨を企つべし」 → ともかく来なさい。 8、「是にて待ち入つて候べし」 → だから来なさい。 これほど、くどい文面を私は知らない。堀師は、不審を表明しながら最後の断を下せなかった。それは南条家の所縁を十分に知りうる資料が無かったために、結論を保留したためと思われる。それで宛名だけを付け替えてその場をしのいだのではなかったか。しかし、それが返って、この書の矛盾を隠してしまう結果になってしまったのではないか。 またこの書の中心思想というべき「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」とは仏法の説く原理に相違はない。しかしだからといって、そこへ行きさえすれば功徳がある、とするのは「教団原理」であって、「日蓮は何れの宗の元祖にもあらず」(s1165.05,h966.15,p1239.03)と言った日蓮にそのような発想があったとは思われない。 本来「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」というような原理は、むしろ信仰者一人ひとりの自体顕照で自らの生活圏を変えていくことを説いた変革の原理ではなかったか。 それを聖地に行きさえすれば、功徳があるというような文脈で使うのは、やはり不審なのである。 「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり」というフレーズは、現在もなお、身延山久遠寺が、富士門徒に対して、説き続けている言葉ではないか。 私は、別にここで、身延・富士の対立を煽っているのではない。客観的な歴史経過を述べているのである。じっさいに、富士門徒切り崩しの作為が多くなされてきたことも歴史的事実なのである。その線で偽作されたものとして、一見富士に与同しながら本迹一致を繰り返し力説している「法華本門宗要抄」(昭和定本2150)がある。 このような憎悪が今日まで引き継がれていることは悲しいことである。私は、五一の相対のような教条的原理で、富士・身延の歴史をみることには懐疑的である。富士・身延の対立は超克してゆかねばならないことである。しかし、そのためにも、歴史は歴史として虚心に分析する必要がある。 本書には、まだまだ不審な点があるが、瑣末にわたるので略す。 以上、文献の伝来を洗うことから始まって、内容の検討を試みた。これで演習を終える。最終判断は読者各位にまかす。 ----☆注記☆---------------------------------------------------------- 01 行学日朝『元祖化導記』、『日蓮上人伝記集』1974年、本満寺刊、60頁。 テキストは、当サイトにもアップしている。 http://www.ginpa.com/karagura/kedoki.html 02 堀日亨『南条時光全伝』1931年、杉田屋出版部刊 03 領地・姻戚については小野眞一『南条時光』1993年、富士史書刊行会刊を 参照した。 --------------------------------------------------------------☆☆---- _/_/^/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/~/_/_/ (ー_ー).。o○ からぐら文庫 : http://www.ginpa.com/karagura/ お知らせブログ : http://karagura.exblog.jp/ 魯ひとへのメールは : https://sv21.wadax.ne.jp/~ginpa-com/cp-bin/phpformmail/ ●関連記事からぐらの風・indexへ | |