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『末法燈明記』 2007/05/21





★からぐらの風 #0002 --------------------------------------2007/05/21
----☆『末法燈明記』☆---------------------------------------------------

 本年年頭に読者にお送りした年賀状には、からぐら文庫で最澄を語り『末法燈明記』の考察を連載する旨を記していた。連載は、ML上で昨年末から始まって三月まで二十五回にわたって続いて終了した。その分量はゆうに一冊の書物の量に達した。執筆の動機は、日蓮・日興の師弟観を調べるうちに、その前に日蓮が師匠として私淑した最澄と日蓮の間における師弟観を理解しておく必要性を感じたからである。

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 ただ、そのために『末法燈明記』を選ぶに当たっては、偽書説の強い文献だけに逡巡もあったが、それでも『末法燈明記』には強く引き付けるものがあった。その第1は、日蓮自身が最澄の著作として自らの著作に引用していることであった。ゆえに真偽を明らかにしたいという欲求もあった。それだけではなく、『末法燈明記』は内容的に日蓮の思想と強く響きあうものがあり、同時に異質なものをも併せ持っており、それを日蓮がどのように消化し、昇華したのかを理解したいと思ったことである。

 連載は、仮説として『末法燈明記』が最澄の真撰だという前提で始めた。にも関わらず、考証していくうちに、逆に『末法燈明記』が偽書であるとの確信に到着してしまった。まず気になり出したのが引用文献の扱いの粗雑さであった。ほとんど孫引きであり、やがて『末法燈明記』が参照したであろう文献に到着してしまったのである。それらの参照文献は、最澄より後世のものであった。

 偽書説については、私自身が新たにつかんだこともあるが、その紹介は、ここでは控えて、考察中に、『末法燈明記』の偽書説をほぼ決定ならしめた、先行論文を知ったのでその論文をご紹介する。

 鶴岡静夫『日本古代仏教史』1955年、文雅堂書店、所収論文『末法燈明記の基礎的研究』

 鶴岡氏の精緻な論証は、それまでの擁護論を、顔色なからしめたばかりではなく、源信・覚超の師弟が、『末法燈明記』の真の作者であるとして考察されているのである。最澄の名に仮託して作られたのは、当時叡山を支配していた僧綱の圧迫に対して、最澄の名でもって抵抗したもののようである。

 それはともかくとして、『末法燈明記』が日蓮の思想と響きあう一番の思想は、何と言っても「名字即」への注目であろう。
「末法には、ただ名字の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。たとい末法の中に持戒の者あらんも、すでにこれ怪異なり。市に虎あるがごとし。これ誰か信ずべけん。」(D1-418=伝教大師全集)

 この文証は一般には戒律否定の文として理解されることが多いが、ここに示されているのは単純な戒律否定ではなく、「名字の比丘=名字即」との対比で述べられていることから明らかなように、戒律の持破から妙法への信不信への発想の転換と理解されるべきであろう。名字即とは初めて妙法を信受する者の位である。

 ゆえに日蓮は、『四信五品抄』において「仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪えざれば信を以て慧に代え、信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(s1296.03,h1112.09,p339.15)と述べ、妙法信受の名字即を詮要とする思想を確立していくのである。

 『末法燈明記』では、名字即は単に「名字の比丘」とのみ表現されており、その実体については何ら触れることはなかった。しかるに日蓮は『顕仏未来記』に「彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」(s740.11,h677.01,p507.08)とあるように自身の姿を通してその実体を明らかにしていったのである。ここにおいて日蓮は『末法燈明記』を乗り越え、伝教最澄の立場をも凌駕してゆくのである。

 そういう意味で日蓮の『報恩抄』は、自身の到達点から師最澄への報恩を語るものとなっている。『報恩抄』は決して幼学の師としての道善房への報恩を語っているだけではない。それよりもまして、『報恩抄』全編にわたって述べられているのは伝教大師最澄の事跡の宣揚であり、最澄への報恩なのである。

 ここに日蓮自身の師弟観、報恩観が浮かびあがってくる。それは単なる師への給仕ではなく、師の言葉の祖述でもない。師の思想を受け継ぎ、師の思想をさらに発展させ、自らの姿をもって、日蓮は師最澄に応えたのではなかったろうか。

 (私のこの考察は『日蓮と最澄』―末法燈明記を読む―と題して、自家製本して一冊の書にまとめたが、いずれ機会があれば、再考察して公開したいと思っている。)


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    ☆2007年年賀状☆

     新年のお慶びを申し上げます。
     さて、「弟子」をテーマにした私の思索の旅は、いま最澄という大きな巌の上を歩いています。年末より「からぐら文庫」で最澄の末法燈明記の考察の連載を始めました。
    本年は私にとって数えの五十六歳となりますが、いつのまにか、私も最澄の最晩年の年を歩いているのですね。日蓮−最澄の軸は、従来あまり論じられることの無かった分野ですが、どれだけ新しい視点を提示できるかが問われる所です。読者の反応もずしりと感じています。追い風と向かい風と、それが人生の実相ならば、砂嵐は私の人生の風景なのかも知れません。「からぐら」とは春先の砂嵐、あらゆるものを呑みこんで駆け抜けよう。 元旦
                 魯ひと 拝

    『日蓮伝再考(一)』平安出版、『日蓮自伝考』水声社、好評発売中!

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    訓訳『末法燈明記』
    http://www.ginpa.com/soko/toumyoki.LZH

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