◆創刊第1号 「詩を読む友へ」 2007/05/18★からぐらの風 #0001 --------------------------------------2007/05/18 ----☆「詩を読む友へ」☆---------------------------------------------- 日蓮の御書を読んでいると、これはひとつの「詩」ではないかと思うことがよくある。決して言葉が練られているという意味ではない。韻を含んでいるという意味でもない。むしろ日蓮の文体は破格である。しかし、それでも日蓮の言葉は、心の中に突き刺さり、イメージが五体を包みこんでいく。それは詩、そのものの特性だと思う。強い思い入れをもってはじめた、このニュースレターの第一号に何を書くか。呻吟するところであるが、まずは、詩を読む若い友人に贈った私自身の詩を載せることにする。 --------------------------------------------------------------☆☆---- 「詩を読む友へ」 言葉を選び、言いわけをそぎ落とし、 研ぎ澄まされた「詩」には 「人の心」を刺すものがある。 ある人は、「俺への批判か」と眼をむき、 ある人は、憂慮する またある人は、意を得たりと快哉し ある人は「敵か、味方か」と探りを入れる それこそ、百人百様の取り方が生まれる。 それが、詩であり、歴史の叙述なのだと 私は思う。 ある意味では「詩」には猛毒がある。 私はきれいな言葉の羅列を詩とは思わない。 毒のない詩は、詩ではない。 単なる美辞麗句に過ぎない。 単なる美辞麗句は人の心を掴まない。 「詩」はまた、詩人を離れて一人歩きする 読み手の中で、読み手の体温を吸収して 読み手のなかで それぞれ勝手に膨らんでいく。 私は、そんな詩を書きたいと いつも思う。 詩は、いつも韻を含んでいるわけではない。 三十一文字に縮んだり、 五行の絶句になったり 権力と権威を揶揄する魯迅の雑文になったり ジュリアスシーザーの演説になったり、 時に 虐げられたハンセン病の女の子の作文にもなる。 声にならない声が詩なのだ 詩を作るに、だれに遠慮がいるものか だから、友よ。 吾が思いを言葉の響きに載せよ 君の思いを君の言葉で語れば良いのだ。 あの人と同じ言葉、隣の人と同じ言葉 誰かに用意された言葉は詩ではない もはや言葉でもない 君の言葉を誰かが恐れるとしたならば それこそ、 権威と権力の下を己が安らぎの場としている悲しい人に 過ぎない。 詩には毒がある 詩には猛毒がある その毒に自らがしびれて 権威と権力に身を委ねた人に 狂人と見なされるならば、 おお、それこそ 詩人の勲章ではないか。 狂人の一端を体現してこそ、 はじめて歴史を綴れるのだ 凄まじい詩人たちの営みを 私も歩みたいものだと念願する (2006/11/27) ●関連記事からぐらの風・indexへ | |