「元祖化導記」

--行学院日朝 編

読解及び入力 魯の人


元祖化導記下


第一 佐渡御流罪のこと
第二 相州と佐渡の間遠路のこと
第三 佐渡国中の謗法者詮議のこと
第四 北国諸宗群集のこと
第五 その時不思議仰せ出さるること
第六 開目抄のこと
第七 仰せの旨符合のこと
第八 佐渡の謗法者鎌倉に訴えること
第九 印性房のこと
第十 密かに二人を遣わしめ印性を責むること
第十一 鎌倉より度々の書状のこと
第十二 武蔵の前司の書札について人々に遣わさるる御書のこと
第十三 阿仏房のこと
第十四 中興次郎入道の来たること
第十五 最蓮房のこと
第十六 御帰国の先相のこと
第十七 御赦免状のこと
第十八 御帰国の路次のこと
第十九 平の左衛門尉と対談のこと
第二十 甲州身延山のこと
第二十一 身延山開闢時代のこと
第二十二 身延山入御のこと
第二十三 御檀那のこと
第二十四 行法の御こと
第二十五 武州池上の御こと
第二十六 甲州身延山に遣わさるる御書のこと
第二十七 御入滅の事業並びに六上足のこと
第二十八 御所持の仏像経巻のこと
第二十九 身延山御番帳のこと
第三十 御身骨を身延山に移し奉ること
第三十一 御葬送行列の次第のこと
第三十二 大聖人始めて之を図す御本尊の由来
第三十三 聖人御一期の間の王代年号のこと
巻末文


元祖化導記下

 元祖聖人御一期次第文明十年戊戌九月二十三日之を始む

 一、佐渡国流罪の事
 御書に云く、同十月十日に依智を立つて、同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が後見の家より北に、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野の様に死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上はふかず、四壁はあらはに、雪降り積もりて消ゆる事なかるる所に、敷皮打ち敷き、蓑打ち著て夜を明かし日を暮らす。夜は雷電ひま無く、昼は日の光もささせ給はず、心細かる住処なり。

 又御消息に北国の習いなれば、北山の嶺の山をろし風身にしむ事をば只思いやらせたまうべし。彼の国の守護も国主の御計なれば日蓮を怨む、その他の万民皆命に従う等云云。
 又御消息に云く、北国佐渡の国知行したまへる武蔵の前司の領その内の者共沙汰して彼の島へ行き著きぬ云云。

 又御消息に云く、里より遥か隔たる野と山との間に三昧原あり、彼の処に一間四面の堂あり、そらは板間あはず四壁やぶれたり、雨はそとの如し、雪内に積もれり、仏はをはさず、莚畳一枚も無し、然に我が根本より持ちまいらせ候・教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり蓑を著し笠をさして居たり、然れども人もみへず、食もあたへずして四箇年なり、彼の蘇武が胡国にどどめられて十九年が間蓑をしき、雪を食としてありしが如し、文。

 私に云く、或人佐渡の国にて申し伝えしは、初めは塚原と申す処に座したまへり、後にはその処り坂東路十里計り隔て、一の沢と申す里の山際に一間四面の堂之れ有りけるに御住みあると云云。嘉吉二年壬戌八月に日朝彼の島に参りたりし比は、その註とて一間ばかりの小堂の形之れ有り、その山の尾の上に袈裟かけの松とて一本之れ有り、御住まいの間は常に彼の松の本に御上り有りて、その御経をあそばしけるとなむ語りしなり。今の御書に野と山との間と遊ばしたるは一の沢の御事かと覚えたり。

 或る記に云く、十月十日相州相京の郡依智の郷を御出あり、その日は武蔵久目河の宿に著きたまへり、その後十二日を経て越後の国寺泊の津に著きたまへり、寺泊より御船めして佐渡の国に御著あり、彼の国にては新穂郷内塚原と云う処の小堂に住みたまへり、云云。

 私に云く、嘉吉年中日朝参りたりし時の物語には寺泊より船にめされ、佐渡のまつさきと云う浦に御著ありけると申せしなり、日朝自然として寺泊より船に乗ってまつさきの浦に著きて、その日に塚原に参り著きたりき。

 二、相州佐渡の間遠路のこと
 御書に云く、相州鎌倉より北国佐渡の国までは、其の中間・一千余里に及べり。山海遥かに隔てたり、山は峨峨として海は濤濤たり、風雨時に随ふ事なし、山賊充満し、宿宿・泊泊の民の心は虎のごとし・犬のごとし。現身に三悪道の苦を経るか。

 三、佐渡の国中謗法者僉義のこと
 御書に云く、庭には雪積もりて人もかよはず、堂にはと荒き風より外に音信する者無し、眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ昼は日に向ひ奉りて、諸宗の違目と、法華経の深義を談ずる程に年を送りぬ、何くも人の心のはかなさは、佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人会合して僉義す、音に聞く阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房、此の国に流されたり、何となくとも此の国へ流されし人の始終生けらるる事なし、縦ひ生けられても還る事無し、又打ち殺したりとも御とがめあらじ、塚原と云う所に只一人あり。何に申すなりとも、力つよくとも、人も無き所なれば集りて射殺せかしと云う者あり、又何となくとも頭を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊なれば、且く切られず、終には一定ときく、又云く、六郎左衛門尉殿に申して切らんずる計りごとをすべしと、多くの義の中に、之れについて守護所へ数百人集りぬ。六郎左衛門尉の云く、上より副状を下さる、あなづるべき流人にあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ、

 四、北国諸宗群集のこと
 御書に云く、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を小法師の頸に懸させ、或は脇にはさみて、正月十六日に集まる、佐渡国のみならず越後、越中、出羽、奥州、信濃等の国々より集る法師等なれば、塚原の堂の大庭・山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬ者百姓入道等数を知らず集りたり、念仏者は口々に悪口をなす、真言師は面々に色を失ふ、天台宗は勝つべき由をののしる、在家の者ども聞ふる阿弥陀仏の敵よとののしる、騒ぎ響くこと震動雷電の如し、日蓮は暫くさはがせて後、各しづまりたまへ、法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等はよしなしと申せしかば、六郎左衛門より始めとして、諸人然るべしとて悪口せし念仏者をば、そくびをつきをし出だしぬ、さて止観真言念仏の法門、一々に彼れが申す様を牒し挙げ承伏せさせては、ちやうとはつめつめ一言二言には過ぎず、鎌倉の真言師、禅宗、念仏者、天台宗よりも、はかなき者共なれば只思ひやらせたまへ、利劔を以てうりをきり、大風の草木をなびかすが如し、仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文を忘れて論と云ひ、釈を忘れて論と云ふ、善導か柳より落ち、弘法大師の三鈷を投げたる大日如来と現じたる等の、或は妄語、或は物にくるへる処、一々に責めたるに、或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏僻事なりと云ふものもあり、当座に念珠を捨て念仏申すまじき由、誓状を立る者もあり、皆立ち帰るほどに、六郎左衛門尉立ち帰るほどに一家の者も立ち帰りぬ。

 五、その時不思議仰せ出ださるること
 御書に云く、日蓮不思議を云はんと思ひて六郎左衛門尉を大庭より呼び返して云く、いつ比鎌倉へ登りたまふべきぞ、彼れ答へて云く、下人共に農させて七月の比と云云、日蓮が云く、弓箭を取る者は君の御大事に値つて所領を給り候こそ、田畠作るとは申せ、只今軍のあらんずるに、急ぎ打ち登り高名して所知をとらぬか、和殿原などは相模の国には名ある侍ぞかし、田舎にて田を作りて軍にはづれたらんは恥なりと申せしかば、いかにやと思ふげにして、あはてて物もいはず、念仏者持斎の在家の者共何にと云ふ事ぞとあやしむ。

 六、開目抄のこと
 御書に云く、さて皆還りしかば、去年十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻作りたり、頸切らるるならば日蓮が不思議を留めんと思ひて勘へたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱無ければたもたず、人に魂無ければ死人なり、日蓮は日本国の魂なり、平の左衛門既に日本国の柱を倒しぬ、只今世乱れてそれと無く、夢の如くに妄語出来して此の御一門どし打ちし、後には他国より責めらるべし、例せば立正安国論の委しきが如し、加様に書き付けて中務三郎左衛門尉が使に取らせぬ、付きたる弟子共もあら義かなと思へども力及ばず。

 私に云く、開目抄は文永八年の中冬の比より初めて之れを勘えたまへり、翌年文永九年壬申二月日頼基の御方へ遣わしたまふと見えたり、佐渡の住第二年の日付なり。

 七、仰せの符合のこと
 御書に云く、有る程に二月十八日島に船著きぬ、鎌倉に軍あり、京にもあり、その様申すばかり無し、六郎左衛門尉其の夜に早船を以て一門相具して渡る、日蓮に掌を合せて扶けさせたまへ、去る正月十六日の御言いかにやと此の程も疑ひ申しつるに、幾程もなく三十日の内に合ひ候ぬ、又蒙古国も一定渡り候なん、念仏無間地獄も一定にて候はんずらん、永く念仏申し候まじと申せしかば、何と云ふとも相模守殿等の用ひざらんには日本国の人用ひまじ、用ひずんば国は必す亡ぶべし、日蓮は幼若なれども法華経を弘むれば釈迦の御使ぞかし、僅の天照太神・正八幡なんどと申すは、此の国には重んずれども、梵釈日月四天王に対すれば小神ぞかし、されども此の社人なんどをあやまちぬれば、只の人を殺す七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐の法皇等の亡びたまひしは是なり、此れはそれには似るべくもなし、教主釈尊の御使なれば、天照太神・正八幡宮も頭を傾け手を合せ地に伏したまふ事なり、法華経の行者等をば梵釈左右に伴したまへり、日月前後を照したまふ、かかる日蓮を用ひれども、悪しく敬まはば国亡ぶべし、何に況や数百人に悪くまれ、二度まで流されぬ、此の国の亡びん事は疑い無し、且らく誡めをなし国を助けたまへと、日蓮がひかふれはこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰は当るなり、又此の度も用ひずんば大蒙古国より打手を向けて日本国を亡ぼさるべし、只平の左衛門尉が好むわざわいなり、和殿原とても、此の島とても、安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立ちぬ、さて在家の者共申しけるは、此の御房は神通の人、あらおそろしおそろし、今は念仏者をも養ひ、持斎等をも供養すまじ、念仏者良観房が弟子の持斎等が云く、此の御房は謀叛の内に入りたりけるか。

 八、佐渡の謗法者鎌倉に訴えること
 御書に云く、さて且らく有りしかば、世間静まる、又念仏者集りて僉議す、かくてあらんは我等餓死すべし、何にしても此の法師を失はばや、已に国の者も大体付きぬ、如何がせん、念仏者の長者唯阿弥陀仏、持斎の長者生喩房、良観が弟子道観等、鎌倉に走り上り武蔵の守殿に申す、此の御房島に候ふものならば堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河に流す、夜昼高山に上て日月に向つて大音声を放ち上を咒咀し奉る、其の声一国に聞ふと申しければ、武蔵の前司殿此を聞きて、上へ申すまでもなし、先づ国中の者の日蓮房に付くならば、或は国を追ひ、或は篭に入れよと、私に下知の文を下す、かくの如く三度、其の間の国の事申さざるに心を以ってはかりぬべし、或は其の前を通れりと云うて、国を追ひ、或は妻子を取る、かくの如くして上へ此の由を申し候いければ、案に相違して去る文永十一年二月十四日御赦免状、同三月八日島に著きぬ、云云。

 九、印性房のこと
 或る記に云く、上人六郎左衛門尉に対して鎌倉に合戦有るべし上りたまへと仰せ有る折節、本間殿在座の最中、印性房と申す念仏者来りて念仏無眼の法門を難じ申す、上人仰せに云く、流人の身にして法門を申すこと其の憚り有り、殊に此の流罪の根源偏に法門に依るか、争でか聊爾に之を申すべきや、云云。印性房以ての外に勝ち乗って申しけるは、印性房の前にては法門はさすが大事にぞ候はんずらんと利口に及ぶ、上人縦ひ如何様に申され候へども、此の身に於て法門は申し難しとのたまへば、六郎左衛門尉を始めとして座に列なる諸人、是れは苦しかるべからず印性房加様に望み申し候へば少々御法門候へ、我等も聴聞致すべしと有りければ、聖人云く、面々承り候間憚りながら申すべきなり、其れ人の疑難を返答せざる者学者の義にも欠けるか、されば形の如く法門を対決有るべきか、但し此の身は流人なり、御辺は此の国の住人なり、定めて法門に負けざるの由披露有るべきかと、其の義ならば対決所詮無し、簡要自他の法門を書き付け勝負を知るべきかと仰せありければ、六郎左衛門尉云く、此の義最もなるべしとて筆墨を出せり、
 先づ印性房浄土宗の法門の立様を申すべしとて、聖道浄土と書きたり、上人御覧あって軈て其の知略を推察有って、彼が云う所を一一之を責めたまふ、述計尽きての後に、観経に六即法門之れ有り云云、聖人仰せに云く、此の事未だ承り及ばず候、観経に此の法門は有り難しと覚え候、但し此の六即は鸞・綽・導・法然等師資の中には何れの師の所立にて候やらん、印性房が云く、縦ひ祖師の所立に之れ無しと雖も其の義歴然ならば何ぞ之を立てざらんや、凡そ六即の法門は天台大師初めて之を立てたまへり、印性房も観経に六即を立て候はんに何の失有らんや、上人云く、此の身は隠者なるが故に観経の六即を之を知らざるかと存知候へば、佐渡の国に於て初めて立つると云へる六即の法門なるが故に兼ねての日に知らざるも道理にて候けるやと嘲弄せさせまいらせければ、諸人軽笑しける事限りなし、印性房赤面し当座の恥辱申す計り無し、既に守護処に於て恥辱に及びし上は此の事隠れ無しと雖も、佐渡の国中を走り廻りて印性房日蓮に法門に勝つ由披露し畢んぬ、されども其の隠れ無きの故、諸人印性房を毀ること思い遣らせたまふべし。

 十、密かに二人を遣わして印性房を責めたまふこと
 或る記に云く、佐渡公・伯耆公二人佐渡御参あり、聖人仰せに云く、此の国に、印性房と云へる念仏者之れ有り、此の方に元より有る御房達をば之を見知りて出で合わず、旁々旅装束の体にて彼の処にて行き向て法門を一言申すべし、伯耆公鈎サ(金+巣)して佐渡公法門申さるべし云云、仰せの如くして行き向はしめたまへり、
 折節浄土宗の談義始まらんとする砌なる故に、我等二人立ち寄り、談義聴聞の望みなる由のたまひければ、印性が云く、何づかたよりの修行の者なるや、答えて云く、鎌倉辺よりと云云、印性が云く、鎌倉に某し房と云う物、念仏無間の悪義を興して当国へ流罪せらる事之れを知るや、答えて云く、我等は奥州の住人なるが、此の間暫時鎌倉へ上る間左様の事は存知せず候、印性云く、さもあらん、件の邪義の法師は此の近里に有り、弥陀超世の悲願に迷へる大罪の人なり、提婆・瞿伽利は物の数ならず、二人が云く、何とて左様の悪義ならば呵責無きや、印性云く、いろうて何かせん、悪義を興せば彼が罪にこそと云云、難じて云く、さては御辺は仏法中怨の科免れたまふべからず、若し然らば定めて阿鼻地獄の大苦を招くべし、最惜し、最惜し、印性が云く此の御房達は某し房が弟子なりとて内に入りぬ、二人云く此の処に臨む事は汝権実の二教に迷惑し、邪見熾盛なる由聞き及ぶ、故に一句の法門をば示して逆縁の為めにもと思う故なり、師の迷いを以っての故に多くの人を教えて迷はす、不便の次第なり、あはれ発心あって聖人の御房に参り、捨邪帰正候へかしとて帰りたまへりと云云。
 さる程に、此の遺恨により印性房が弟子旦那百余人を引き具して守護処へ出て、様々の訴訟に及ぶ、守護処に於て問答之れ有り、謗法の科至極承伏する上、座席を追い立てられ候ひき、
 その後一両日を隔て聖人御講談の時、聴衆の中より尼公一人進み出て云く、去る比法華経の三の巻までは女と云う字之れ無しと仰せられ候つるかと云云、上人是れを聞こし召し、此の尼の体を御覧あってのたまふ様は、人々是れを御覧ぜよ、某の弟子の中に加様の懃志の人有るべしとも覚えず、是れは先日の問答にいたく詰りたる印性房を扶けんが為に来る尼公と見たり、その志有り難し、
 但し尼御前に語ることは有るべからず、凡そ此の如きの例證之れ有り、昔天竺にマトウバ外道と云う物あり、徳慧菩薩につめられて、我が家に帰りて七日と云うに死に畢んぬ、彼の外道の妻夫の恨みを果さん為に、夫を葬送して其の後王城に到り、菩薩に対し論議を望む、国王問うて云く、汝は如何なる物ぞ、女之れを答えず、徳慧菩薩ののたまはく、彼の女はマトウバ外道が妻なりと等、上件の事を目前に見るが如く述べたまひしかば、之れを聞きて発言無く帰りたり、其の後菩薩は如何として之れを知るやと問ひ奉るに、徳慧菩薩の云く、面に愁いの色有り、声に哀音あり、仍て人を遣はして之れを見せしめけるに少しもたがわずと云云、
 されば今の尼公も夫の宿意を果さんために来ると覚えたり、若し然らば悪心を翻して王経に帰すべき由仰せられければ、面目無く言無くして帰る、聴衆の中に印性房が妻なりと云へり、聖人之れを知りたまはず、奇特奇特。

 十一、鎌倉度々諸状のこと
 日蓮房又佐渡の国へ遣わされ候の後、両三年候も御免有るべく候、若し承りて具し下らしめ候人にも、若し殿原の中にも死罪などに行なはしむる事にも候とて加様に申し候、又御預かりのため悪しかるべく候間加様に申し候。
  九月十四日              左衛門尉頼綱在判
    次郎兵衛尉殿

 文永八年九月十五日到来、三郎太郎に奉る、私に云く、前の御書の中にも副状有り、あなづるべき流人に非ずと云云、此の状か、私に云く、文永九年か。

 一、武蔵の前司殿の書札、佐渡の国の流人僧日蓮、弟子等を引率して悪行を巧むの由、其の聞へ有り、所行の企て甚だ以て奇恠なり、自今以後彼の僧に相随ふ輩に於ては炳誡を加へしむ可し、猶以て違犯せしむる者は、交名を註進せらる可きの由候べきなり、仍つて執達件の如し。
  文永十年十二月七日                 沙弥 観恵
      依智六郎左衛門尉殿

 私に云く、前の御書の中に佐渡の国の謗法者、並びに鎌倉中謗法の輩寄合、書状を申し下す等云云、之れを思うべし、
 或る記に云く、此の書状を以って證文と為し、国中に下知の様稱計すべからず、或は日蓮房の一類、佐渡より陸地に越る者は之れを渡すべし、鎌倉より佐渡に渡る者は堅く之れを禁ずべく津毎に之れを制し、船毎に之れを禁じ、或は市町商売等其の一類を堅く禁制するの間、御住房に敢えて来る人之れ無し、其の体思い遣られてこそ候へ。

 十二、武蔵の前司の書札について、人々に御書を遣わさるること
 法華経の第四に云く、如来現在猶多怨嫉と云云、同じき五に云く、一切世間多怨と云云、
 涅槃経に云く、爾の時外道無量の人有って、乃至、心に瞋恚を生じ等云云、又云く、爾の時無量の外道和合して、共に摩訶陀の王阿闍世の前に往き、乃至、今は唯一りの大悪人有り、瞿曇沙門なり、乃至、如来現在猶多怨嫉の心是れなり、
 得一大徳天台智者大師を罵詈して曰く、智公汝は是れ誰が弟子ぞ、三寸に足らざる舌根を以って覆面舌の所説と教時を謗る、又云く、豈是れ頓狂の人にあらずや等と云云、
 南都七大寺の高徳等、護命僧都・景信律師等三百余人、伝教大師を罵詈して曰く、西夏に鬼弁婆羅門有り、東土に巧言を吐く禿頭沙門あり、此れ乃ち物類冥召して世間を誑惑すと云云、
 秀句に云く、浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり、天台大師は釈迦に信順し、法華宗を助けて震旦に敷揚す、叡山の一家は天台に相承し、法華宗を助けて日本に弘通すと云云。
 夫れ在世と滅後と正像二千年の間に、法華経の行者・唯三人有り、所謂仏と天台と伝教となり、真言宗の善無畏・不空等、華厳宗の杜順・智儼等、三論法相等の人師等は、実経の文を会して権経の義に順ぜしむるなり、竜樹・天親等の論師は、内に鑒みて外に発せざる論師なり、経の如く宣伝すること正法の四依も天台・伝教には如かず、
 而るに仏記の如くんば末法に入つて法華経の行者有る可し、其の時の大難・在世に超過せんと云云、
 仏に九横の大難有り、所謂孫陀利の謗りと、金鏘と、馬麦と、琉璃の釈を殺すと、乞食空鉢と、旃遮女の謗りと、調達が山を推すと、寒風に衣を索むる等となり、
 其の上一切の外道の讒奏上に引くが如し、記文の如くんば天台・伝教も仏記に及ばず、之を以て之を案ずるに、末法の始めに仏記の如くなる行者世に出現せんか、
 文永十年十二月七日・武蔵の前司殿より佐渡の国へ下す状に云く、自判之在り。
 佐土の国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、略、
 此の状に云く悪行を巧む等云云、外道が云く瞿曇は大悪人なり等云云、又九横の難一一に之在り、所謂琉璃殺釈と乞食空鉢と寒風索衣とは、仏世の大難に超過せるなり、恐らくは天台・伝教も未だ此の難に値はず、当に知るべし、三人に日蓮を入れ四人と為して、法華経の行者末法に在るか、喜しき哉、況滅度後の記文に当れり、悲しき哉、国中の諸人阿鼻獄に入らんこと、茂きを厭うて之を子細に記さず、心を以て之を推せよ。
  文永十一年甲戌正月十四日   日蓮 花押
 一切の諸人之を見聞し志あらん人人は互に之を語れ。

 十三、阿仏房のこと
 御書に云く、而るに日蓮佐渡国に流されたりしかば、彼の国の守護等は国主の御計らひに随つて日蓮を怨む、万民は其の命に従ふ、念仏者・禅・律・真言等は、鎌倉よりいかにしても是れへ渡さぬ様にはからい申し使はす、極楽寺の良観房等は武蔵の前司殿の私の御教書を申して、弟子に持せて日蓮を怨みなむとせしかば、何にも命扶かるべき様もなかりしに、天の御はからひにてや、いきぬ、地頭・地頭も訴訟して、念仏者等は日蓮が庵室に昼夜に立ち副ひて、通ふ人をあながちにまどさんと嘖びしに、阿仏房に、ひつをををせて夜中に度々御わたりありし事何の世にか忘れん、偏に悲母の佐渡の国に生れかはりて有りしか、乃至、又其の故に或は所ををはれ、或は科代をひき、或は家を取られなんとせしに、終に志かわらずとをさせ給いぬ、
 法華経には過去に十万億の仏につかへし人こそ、今生には退せずと説き給て候なれ、されば十万億の仏を供養する人なるべし、其の上・人の目の前に有る時は志深き様なれども、さしはなれぬれば、さてこそ候に、去ぬる文永十一年より今年弘安元年まで五ケ年、其の内に三度まで使いをかはす、いくら程の御志ぞや、大地より厚く大海よりも深し。

 十四、中興次郎入道のこと
 御書に云く、或は天過無き由を御覧有りけん、島にても・あだむ者の多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人有りき、彼の人は年ふりたる上心賢く、身もたのしくて、国の人にも人と思はれたりしか、此の御房は故有る人かと申しけるかの故に、子息達もいたうにくまず、乃至、
 然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはすなり・御前は又よめなり、いみじく心賢かりける人の子と・よめとにてをはすればなり、故入道殿の跡をつぎ、国主にも御用ひ無き法華経を御用い有るのみならず、法華経の行者を養はせたまひて、年々に千里の道を送りたまへり。

 十五、最蓮房のこと
 御書に云く、あまりにうれしく候へば、契約一つ申し候はん、貴辺の御勘気、疾く疾くゆるさせ給いて都へ御上り候はば、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとのたまひ候とも、諸天等に申して鎌倉へ還り、京都へも音信申すべく候と云云。

 十六、御帰国の先相
 御書に云く、況や日本国の人人、父母よりも重く、日月よりも高く憑み奉る念仏を無間の業と申す、禅宗は天魔の所為と云い、真言は亡国の邪法と云い、念仏・禅宗・律僧等が寺を焼き払ひ、念仏者どもが頸を刎ねらるべしと申す上、故最明寺・極楽寺の両入道殿を阿鼻地獄に堕ち給ひたりと申す程の大科在る身なり、此れ等の大事を上下万人に申し付けられぬる上は、縦ひ虚言なりとも此の世には浮かびがたし、何に況や、皆これは朝夕に申し、昼夜に談ぜし上、平左衛門尉等の数百人の奉行人に申し聞かせ、何に科に行わるとも申しやむまじき由、したたかに云い聞せぬ、されば大海の底の千引きの石は浮かぶとも、空より降る雨は地に堕ちずとも、日蓮は鎌倉へは還るべからず、
 但し法華経の実にてをはしまし、日月は我を捨て給はずんば、還り入りて又父母の墓をも見るる辺もありなんと、心強く思ふ、
 梵天・帝釈・日月・四天は何に成りたまふぞやらん、天照大神・正八幡宮は此の国にをはさぬか、仏の御起請を虚しくして法華経の行者をば捨てたまふか。
 もし此の事叶はずば、日蓮が身のいかにも成らん事をば惜しまず、各各現に教主釈尊と多宝如来と十方の如来の御宝前にして誓状を立てたまへるが、今は守護せずして捨てたまふならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるなるべし、
 十方三世の諸仏を誑かし奉る御失は、提婆達多が大妄語にも越へ、瞿伽利尊者が虚誑罪にも勝れたるべし、
 縦ひ大梵天として色界の頂に居し、千眼天と云れて須弥の頂に御座すとも、日蓮を捨てたもふならば、阿鼻の炎には薪と成り、無間大城をば出づる期をはさじ、此の罪をそろしとおぼさば、急ぎ急ぎ国土にしるしを出だし給ひて、本国へ還したまへと、高き山に登りて大音声を放ち叫びしかば、
 九月の十二日の御勘気、十一月に謀反の者の出で来り、還る年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども由無く打ち殺されぬ。天の責めと云う事明らかなり。此れにや驚きけん、弟子共を免されぬ。
 而れども未だ免さざりしかば、いよいよ強盛に申せしに、頭の白き烏飛び来りぬ。彼の燕の丹太子の馬、烏の例、日蔵上人の山烏の頭も白く成りにけり我還るべき時や来ぬらんと吟せしも是れなりと、申しもあえず、
 文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国に着ぬ。

 十七、御赦免状のこと
 日蓮法師御勘気の事免許候所なり。
                行兼 在判
                清長 在判
                行平 在判
                光綱 在判
  文永十一年二月十四日
   藤左衛門入道殿

 武蔵の前司殿の書状のこと
  日蓮法師御勘気の事、御免許有るの由仰せ下さるるなり、早く赦免せらるべきの由に候なり、仍て執達件の如し。
  文永十一年二月十六日       兵部亟 行兼 奉る
 山城兵衛入道殿

 十八、御帰国の路次のこと
 御書に云く、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日島に着きぬ、念仏者等僉義して云く、是れ程の阿弥陀仏の御敵、善導法然を罵る程の者が、たまたま御勘気を蒙りて此の島に放たれたるを、御赦免有るとて生けて還さんは心うき事なりとて、様々のしたく有りしかども、何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来つて島をはなれしかば、あはいあしければ五十日百日にも渡らず、順風には三日なる処を須臾の間に渡りぬ、
 越後の府中、信濃善光寺の念仏者、持斎、真言等は雲集して僉義す、島の法師等は人かつたいなり、今まで生けて帰すと云ふ、我等がいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば、透すまじと僉義せしかども、又越後の府中より兵共あまた日蓮にそいて善光寺を透りしかば力及ばず、三月十三日に国を立ちて、同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。

 御消息に云く、同十三日に国を立てまうらと云ふ津に下り、十四日は彼の津に留まり、同十五日に越後の寺泊の津に着くべきが、大風に放たれ幸ひに二日路を過ぎてかしはざきに着きぬ、次の日はこうに着きて、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入ぬ。

 十九、平の左衛門尉と対談のこと
 御書に云く、同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、先には似るべくも無く和ひで威儀をただしく敬ふと見ゆる上、或る入道は念仏を問ふ、或る俗は真言を問ふ、或る人は禅を問ふ。平左衛門尉は爾前得道の有無を問ふ。一一に経文を引いて申す。
 平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答へて云く、今年は一定なり。其れに取ては日蓮已前より、勘へ申しつるを御用ひ無し、病の起りを知らざる人の病を治せば病いよいよ倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥よ此の国軍にまくべし。穴賢、穴賢、真言師総じて当世の法師等を以って御祈り有るべからずと云云、

 撰時抄下に云く、 第三には、去年文永十一年四月八日、平の左衛門尉に語つて云く、王地に生たれば身は随ひ奉る様なれども、心をば随えられ奉るべからず。念仏は無間地獄、禅は天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国の大なる災ひにて候なり、大蒙古を調伏せん事、真言師に若し仰せ付けらるれば、急に此の国亡ぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、何の比一定寄せ来るべく候やらん、予が云く、経の文には何日とは見へ候はねども、天の気色・瞋り少なからず、よも今年をすごし候はじと語り申したりき。
 同七月蒙古国より寄せて壱岐対馬にて合戦有り、多く人亡ぶるのみならず、生け取り数を知らずと云云、

 或る記に云く、卯月八日頼綱に対して委細之れを述べたまふと云へども、敢えて承引無し、其の比旱魃有り、阿弥陀堂の加賀の法印に仰せ付けられて、雨の祈り之れ有りと云云、聖人云く、只今国土損亡すべし、同じく四月十三日小雨降る、諸人歓喜す、即時に大風吹き、多く人屋を損じ、樹木をそこなふ、之れに依て国土以っての外に飢饉せしと云云。

 二十、甲州身延山のこと
 御書に云く、又、同じき五月十二日に鎌倉を出でて此の山に入れり、乃至、又賢人の習い、三度国を諌むるに、用いざれば山林に交わると云う事定まる例なり、

 私に云く、聖人御年五十三なり、

 或る記に云く、五月十二日鎌倉より酒輪までなり、十三日竹下、十四日車返、十五日富士の大宮、十六日南部、十七日波木井、

 御消息に云く、文永十一年六月十七日初めて庵を結ぶ等と云云、此の御文章の御消息を、日朝不慮に感得して、大坊に之れを納め奉り畢んぬ。

 二十一、身延山開闢時代のこと
 王代は九十代後宇多院諱世仁、大覚寺殿と号し奉る是れなり、文永十一年甲戌三月二十六日即位、八歳なり、仍って身延山は其の六月十七日なり、関東の将軍惟康、執権は時宗なり。

 二十二、身延山入御のこと
 頼基に賜う御書に云く、同十一年の春の比、赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ、つらつら事の情を案ずるに、今は我身に過あらじ、或は命に及ばんとし、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及び留難重畳せり、仏法中怨の誡責をも身には免れぬらん、然れば今は山林に身を遁し道を進まんと思いしに、人人の語・様様なりしかども、かたがた存ずる旨有るに依りて、当国当山に入りて已に七年の春秋を送ると云云。

 私に云く、弘安三年庚辰十月八日の御書と見たり、抑も今の御文章に人人の語・様様なり等とは、或は篭居の在所を伊豆と望む人も有り、或は下総なんどと各々所帯の地に入御有るべきの由様様なりしかどもと云う事なり、また方方存ずる旨と云云、御所存定めて軽からず、此の御文体に意を入れて之れを案ずるべき者なり、其の外別に之れを記す故に此の一段此を略す。

 二十三、御檀那のこと
 私に云く、南部の六郎、法名日円、俗名実長なり、凡そ継図の趣、粗之れを云はば、五十六代清和天皇の一品式部卿貞純親王六孫王経基、始めて源氏の姓を賜う多田新発満仲四男、河内の守頼信、伊予の守頼義、亦陸奥の守嫡子八幡太郎義家、当時将軍の御先祖なり、頼義の三男新羅三郎義光、義清、清光、遠光、光行、実長なり、仍って清和天皇より以来十二代の末葉か、

 御書に云く、此の山に入りて九ヶ年なり、仏滅度後二千二百三十余年なりと云云。

 二十四、行法のこと
 或る記に云く、凡そ一期の行儀稱記し難し、毎日の所作は、早旦に持仏堂に入り法華経一巻づつ、十日に十巻を読誦之れ有り、幾度び此の如し、一巻経の後日天の御前に於て方便品、寿量品、宝塔品、勧持品、涌出品、神力品等、要品之れを誦したまふ、此等の事二た時計りなり、日中には法門談義之れ有り、日夕には同音に方便寿量の二品之れを読みたまへり、其の外の昼夜朝暮の行学稱計すべからずと云云。

 二十五、武州池上のこと
 或る記に云く、弘安五年壬午九月八日午の刻身延の沢を出御有って、其の日は下山兵庫四郎の所に一宿、九日大井庄司入道、十日曾祢の次郎、十一日黒駒、十二日河口、十三日くれじ、十四日竹下、十五日関下、十六日平塚、十七日瀬野、十八日の午の剋に武蔵の国荏原郡千束郷池上村に着き了んぬ。
 同九月二十五日鎌倉田中より信者の輩上下参り集まる、折節立正安国論の御談義之れ有り、皆人座に列なるの砌に聖人仰せに云く、我今三七日の内に死ぬべしと云云、又鎌倉の三室の人人参るに種種の法門を述べたまへり。
 凡そ悉達太子は十九にして王宮を出でて、壇特山頗利那山と云ふ所にして剣を抜き髪を切り御出家の後難行苦行を積み、三十成道の後五十年、一代聖教を説き、御年八十歳にして跋提河の辺りに滅を示したまへり、生死無常の理をば仏も尚免れ給はずと見えたり、況や予は凡夫なり、
 然れば則ち武州田波河の辺りにして入滅すべし、其の時節堅牢なる地神等身を振るい、悲嘆有るべし、定めて其の印有るべし、我入滅の後墓をば身延山に立つべし、老人等行歩叶はずして、自身の参詣の力之れ無くば、花の一枝なりとも誂いてもまいらすべし、我則ち之れを納受す等仰せ有りければ、老者の類は何にも悲涙押さへ難く罷り却けると見へたり。

 二十六、甲州に遣られたる御書のこと
 畏みて申し候、道の間別の事候はで池上に着きて候、君達に守護せられまいらせ候て、難なく是れまで着き候事、恐れ入りながら悦びに存じ候、さてはやがて帰り参り候はんずる道なれども、所労の身にて候へば不定なる事も候はんずらん、さるにても日本国に若干もてあつかうて候身を九ケ年まで御帰衣候ひける御志申す計りも無く候、縦ひいづくにて死に候とも、墓をば身延の沢に立てさすべく候、恐惶謹言。
  弘安五年壬午九月十九日          日蓮 在御判
   進上波木井殿

 二十七、御入滅のこと並に御弟子のこと
 十一月七日波木井殿其の外の方々への御状に云く、釈迦仏は霊山に居して八箇年法華経を説かせたまふ、御入滅は霊山より艮に当る東天竺倶尸那城跋提河の西純陀が家にして御入滅なりしかども、八ケ年法華経を説かせたまふ山とて、御墓は霊山に建てさせ給ひ候ひき、されば日蓮も此の如く身延山より艮に当る武蔵の国池上の右衛門太夫の家にて死すべく候、縦ひいづくにて死に候ふとも、九ケ年の間心安く法華経を読誦し奉る山なれば墓をば身延山に立てさせたまふべし、未来際までも心は身延山に住すべく候と云云。

 或る記に云く、九月十八日池上地頭左衛門太夫宗仲の家に御入り有りと云云。

 十月八日本御弟子六人定めたまへり。
     定 弟子六人の事 次第不同
 一、蓮華阿闍梨  日持   一、伊与公 日頂
 一、佐渡公    日向   一、白蓮阿闍梨  日興
 一、大国阿闍梨  日朗   一、弁阿闍梨   日昭
   右六人は本弟子也 仍つて向後の為めに一一定むる所件の如し
    弘安五年十月八日           右筆 日興

 或る人云く、各々の裏判之れ在りしなり。

 或る記に云く、十月十二日酉の刻、北に向て座したまへり、御前に机を立て花を供え、香を焼き年来御安置の立像の釈迦仏を立て参らせんと申しければ、目を挙げて御覧あって面を振りたまふ、ある御弟子御自筆の大曼荼羅を懸け奉るべきかと伺い申されければ、最もと答えさせたまふ間、仏像を少し傍らへ押し寄せ参らせて、其の後に御直筆の妙法蓮華経の曼荼羅を懸けたまふを御覧有り、
 其の後十三日の卯の国計りに、かまくらより宗仲夫妻共に参りて御枕本にて只今参る由申しければ御目を開き有って答えたまふ、
 即十三日、辰の刻即御遷化了んぬ、御年六十一なり、其の時大地大いに真道して釈尊御入滅の砌に人天大会最後の供養慇懃なりしか、末法の仏の勅使の上人御涅槃の折節四部の弟子達供養し奉る有様誠に貴し云云、兼日仰せの如く堅牢なる地神までも身を振るひ、悲嘆有る色顕れて地震等御座しけるか。

 或る記に云く、御終焉近くなて、日朗以下の老僧達に対して仰せられけるは、我死するならば全身を瓶に奉納して其の儘身延山に送り之れを置くべしと云云、日朗申されけるは、一日半日の間ならば仰せの如く之れ有るべきか、既に三日四日の路次の伝を野に臥し山に臥す様にては届け申し難し、存生の折節さへ謗者充満の国なれば路頭も輙からず、況や御身骨を左様に致さん事は叶へ難かるべし、簡要穏便に葬送し奉りて御身骨を残さず身延山に入れ奉るべき由申されければ、此の義最もなり、然れば日朗等宜しく相計らふべきの旨仰せられけりと云云、此の趣は下総本土寺開山日典記録抄物に之れ有り、日朝慥に之れを見て注し置く者なり、若し疑い有る者は彼の所に之れを尋ぬべき者なり、之れに依て池上に之れを葬し奉ると雖も、御身骨は悉く身延山に納めらるる条、于に今其の現證分明なり。

 二十八、御所持の仏像経巻等のこと
 御遺言に云く、釈迦像は墓所の傍に之れを安置し奉るべし、経は(私集最要文註法華経と名く)、同く墓所の室に籠め置き、六人香花当番の時披見有るべきなり、自余の聖教等は沙汰の限りに非らずと云云、仍て御遺言に任せ記する所件の如し。
  弘安五年十月十六日   筆者日興

 二十九、身延山番帳のこと   書類聚之れ有り少異有り
   定 墓所守る可き番帳の事 次第不同
 正月    弁阿闍梨     二月    大国阿闍梨
 三月    越前公      四月    伊予公
 五月    蓮華阿闍梨    六月    越後公 下野公
 七月    伊予公 筑前公  八月    和泉公 治部公
 九月    白蓮阿闍梨    十月    但馬公 紀伊公
 十一月   佐渡公 丹波公  十二月   寂日房
    右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむ可きの状件の如し。
 弘安六年正月  日

 三十、御身骨を身延山に移し奉ること
 或る記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、十月二十一日池上より飯田まで、二十二日湯本、二十三日車返、二十四日上野南条七郎宿所、二十五日甲斐の国に入りたまへり、同十月二十九日御そ木を取り、御影像建立之れ在り、作者日法、七七日御仏事御入堂之れ在り、一百ケ日御墓立て了んぬ、軈て御舎利奉納等と云云。

 三十一、御葬送行列の次第
 一番大続松、次郎三郎(鎌倉米町) 二番大宝花(赤白各二)、四郎次郎(上野住人) 三番幡(左は三郎右衛門 右は右門衛) 四番鐃バチ鈴、五番香炉、富木入道、六番華瓶、南条九郎、七番燭台、太田左衛門入道、八番立像仏、大覚殿、九番御経、金吾殿、十番文箱、富田四郎太郎、次御沓、源内三郎

   下野公  治部房       伊賀房  摂津房
 右 紀伊公  侍従公     右 信濃房  筑前房
先陳大国阿闍梨        後陳弁阿闍梨
 左 郷房   和泉房     左 太輔公  丹波房
   出羽公  但馬房       三位公  寂日房
             
 次天蓋、太田三郎、次太刀、兵衛志、次御腹巻、椎地孫四郎、次御馬、四郎次郎、龍王丸事、其の外之れを略す。

 三十二、大聖人始めて之れを図す御本尊のこと
 御筆に云く、文永八年太歳辛未九月十二日大難を蒙り佐渡の国に遠流さる、同十年太歳癸酉七月八日之れを図す、此の法華経大曼荼羅、仏滅後二千二百二十余年一閻浮提の内に未だ曾て之れ有らず、日蓮始めて之れを図し、如来現在、乃至、度後法華経弘通の故に、留難有ること仏語虚しからず、

 私に云く、此の御事書之れ有り、仍ち之れを写し奉る者なり、此の御本尊には鬼子十女等までも帰命あそばすなり、之れを拝すべし。

 三十三、聖人御一期の間、王代記年号のこと

八十五代後堀河院 諱茂仁
 貞応元 壬午 聖人御誕生
 貞応二 癸未
 元仁元 甲申 十一月二十日改元
        相模守左京大夫陸奥守義時六十三卒
 嘉禄元 乙酉 四月二十日改元
 嘉禄二 丙戌
 安貞元 丁亥 十二月十日改元
 安貞二 戊子
 寛喜元 己丑 三月五日改元修理亮時氏二十八早世
 寛喜二 庚寅
 寛喜三 辛卯 十一月十一日土御門院阿波国に於て三十七御年崩
八十六代四条院 諱秀仁
 貞永元 壬辰 十二月五日四条院即位二才四月二日改元
 天福元 癸巳 四月十五日改元
 文暦元 甲午 十一月五日改元 八月六日後堀河院崩二十三
 嘉禎元 乙未 九月十九日改元
 嘉禎二 丙申
 嘉禎三 丁酉
 暦仁元 戊戌 十一月二十三日改元
 延応元 己亥 二月七日改元
        二月二十二日後鳥羽院隠岐国於て崩御六十なり
 仁治元 庚子 七月十六日改元
 仁治二 辛丑
八十七代後嵯峨院 諱邦仁
 仁治三 壬寅 三月十八日後嵯峨院即位二十三武蔵守左京大夫泰時六十五卒、
        九月十二日順徳院佐渡国に於て崩四十六、
        正月九日四条院十二崩御
 寛元元 癸卯 二月二十六日改元
 寛元二 甲辰
 寛元三 乙巳
八十八代後深草院 諱久仁
 寛元四 丙午 後深草院即位四歳
        左近大夫将監経時三十三(ママ二十三なり)卒
 宝治元 丁未 二月二十八日改元
 宝治二 戊申
 建長元 己酉 三月十八日改元
 建長二 庚戌
 建長三 辛亥
 建長四 壬子
 建長五 癸丑 聖人御弘通始御年三十二、三月二十八日
 建長六 甲寅
 建長七 乙卯
 康元元 丙辰 十月五日改元
 正嘉元 丁巳 三月十四日改元
 正嘉二 戊午
 正元元 己未 十二月二十八日亀山院即位十二歳
        三月二十六日改元
 文応元 庚申 四月十三日改元
        安国論作御年三十九
 弘長元 辛酉 二月二十日改元
        伊東配流御年四十
        相模守陸奥守極楽寺重時是なり、六十四卒す
 弘長二 壬戌
 弘長三 癸亥 左近将監相模守時頼最明寺三十七卒、
        伊東赦免
 文永元 甲子 二月二十八日改元
        十一月十一日東條御難
        時宗左馬権頭相模守法光寺時宗
        自文永元至弘安七、二十一ヶ年在世(ママ)
 文永二 乙丑
 文永三 丙寅
 文永四 丁卯
 文永五 戊辰
 文永六 己巳
八十九代亀山院 諱恒仁
 文永七 庚午
 文永八 辛未 聖人竜口御難佐渡配流御年五十
 文永九 壬申 二月十七日後嵯峨院五十二崩
 文永十 癸酉
九十代後宇多院 諱世仁
 文永十一 甲戌 三月二十六日後宇多院即位八歳
         身延山開闢、御年五十三
 建治元 乙亥 四月二十五日改元
 建治二 丙子
 建治三 丁丑
 弘安元 戊寅 二月二十九日改元
 弘安二 己卯
 弘安三 庚辰
 弘安四 辛巳
 弘安五 壬午 十月十三日聖人御涅槃、六十一、
        仏滅後二千二百三十一年に当ると云云。
 およそ、一期の間、王代は六代、年号は二十三と見たり。目安にこれを注しおわんぬ。これを以って御書年号等これを存知すべきなり。

 右日朝五十七、片阿沢(かたくまざわ)行学院篭居の時節、別の報謝の儀無くして、黙止し難きに依てこれを注し、報恩の一分に擬すものなり。この功徳に依て、現広宣流布の大願が忽ちに成就し、当に一切の慈雲が隔てなき群生に普く覆われん而巳。
 御本に云く、文明十年戊戌十月十三日これを書しおわりぬ。 日朝在判

元祖化導記下巻 寛文六年版

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入力者 魯の人 拝