「元祖化導記」行学院日朝 編
日蓮上人伝記集(本満寺版)p13
系年 文明十年(一四七八)、原本不伝
読解及び入力 魯の人
元祖化導記目録上 巻頭文 第一 御誕生、後堀河院御宇のこと 第二 父母の御こと 第三 御登山のこと 第四 御出家のこと 第五 得名の御こと 第六 御学問のこと 第七 御学問について精誠これ有ること 第八 御学問御発心のこと 第九 御弘通発心のこと 第十 御弘通の初め建長五年のこと 第十一 立正安国論のこと 第十二 三代将軍のこと 第十三 伊東謫流のこと 第十四 長時のこと 第十五 伊東御赦免のこと 第十六 御悲母生活(蘇生)のこと 第十七 東條御難のこと 第十八 蒙古牒状のこと 第十九 文永八年辛未申状案のこと 第二十 祈雨について勝負のこと 第二十一 行敏房書状のこと 第二十二 行敏奏上のこと 第二十三 良観房書状案のこと 第二十四 奉行人に対し仰せ含めらるること 第二十五 文永八年九月十二日御勘気のこと 第二十六 九月十二日夜八幡大菩薩を諌むること 第二十七 頼基に御告げあること 第二十八 その夜怪異あること 第二十九 依智に移し奉る御こと 第三十 依智に明星下るのこと元祖化導記 上日朝類聚之元祖聖人御一期の次第、文明十年戊戌九月二十三日これを始む。 御書に云く、日蓮日本国人皇八十五代後堀河院の御宇、貞応元年壬午、安房の国長狭の郡東條の郷の生れなり。 一、後堀河院のこと王代記に云く、いみな茂仁、治十一年、後高倉の第三の子なり。御母北白河の院中納言基家の女。承久三年辛巳十二月一日即位、十歳。貞応元壬午年十月二十三日御禊、十一歳なり。同十一月二十三日大嘗会。天福二年甲午八月六日に崩ず、二十三。或る記に云く、元祖誕生日は二月十六日辰の刻と云云。およそ東條の郷の内に小湊とて小処今にこれあり、かの処に誕生寺とて小堂これあり。日家と申す中老の開闢とや申し伝えたり。 二、父母の御こと或る記に云く、その先祖は遠州の人、貫名五郎重実なり。平家の乱に安房の国に流されたり。然に重実に二人の子あり、長男はこれを知らず。次男貫名次郎重忠に五人の子これあり。一は藤太、二は幼少に死したまえり、三は仲三郎、四は元祖聖人なり、五は藤平と云云。よつて父母の法名をば、日蓮の二字を名に付け奉る。父妙日は二月十四日なり、母妙蓮は八月十五日の逝去なり。 御書に云く、仏滅後二千百七十一年に当るなり。 私に云く、御誕生の時節は末法に入りて百七十一年と見えたり。 三、御登山のこと御書に云く、八十六代四条院天福元年癸巳十二歳にして清澄寺に登れり。道善の御房にして学問と云云。或る記に云く、五月十二日御登山と云えり。 王代記に云く、四条の院いみなは秀仁、治十二年。御堀河の長子、貞永元年壬辰十二月五日即位、二歳なり、已上。およそ天福元年癸巳は四条院三歳の御時見えたり。 或る記に云く、清澄寺は慈覚建立の処、本尊は虚空蔵菩薩なり、明星池とて今にこれあり、本地垂迹の意趣を顕わすと見えたり。 四、御出家のこと御書に云く、延応元年己亥十八歳にして出家と云云。或る記に云く、十月八日の御出家なり。 私に云く、延応は四条院秀仁の御宇の年号なり。延応は元年計りあり、翌年庚子は改易、仁治元年と号しき。 五、得名のこと或る記に云く、童体をば薬王丸と号すなり。御出家の初めの仮り名は是生なり。実名は蓮長なり。後これを改め日蓮と号し奉るなり。委しくは別紙にあり。六、御学問のこと御書に云く、其の後十五年が間、一代聖教惣じて内典外典に亘って残り無く見定むと云云。私に云く、十五年は延応元年己亥より建長五年癸丑に至る已上十五年なり。その間の王代は四条院、後嵯峨院、後深草の院、已上三代と見たり。 七、学問について精誠これあること或る記に云く、御出家の最初虚空蔵菩薩の御前おいて、世に比類無き智者にしてたびたまえと強盛に御祈りありしかば、後門の方よりと覚しく気高き老僧ひとり出で来りて、虚空蔵所持の如意宝珠を手にとり持ち、汝が年来祈りたる智慧を只今与うると、聖人の御方へ投げ渡させたまえば、この玉相違なく飛び来って左の袖へ入るという夢相を蒙り、願望成ずと御悦びありて、遠く他国に趣き広く諸宗を学するほどに、南都北嶺東寺高野残り無くこれを伺い、宗宗の淵底を究めたまえりと云云。 第八、御学問発心のこと御消息に云く、 (御書 p1408)此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う方(事)なれば阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす、日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、 此等の宗宗・枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分に・はしりまはり十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、 我れ等が・はかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、いづれもいづれも心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、十悪五逆と申して日日・夜夜に殺生・偸盗・邪淫・妄語等をおかす人よりも・五逆罪と申して父母等を殺す悪人よりも、比丘・比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち心には八万法蔵をうかべて候やうなる、智者聖人の一生が間に一悪をもつくらず人には仏のやうにをもはれ、我が身も又さながらに悪道にはよも堕ちじと思う程に、十悪・五逆の罪人よりも・つよく地獄に堕ちて阿鼻大城を栖として永く地獄を出ること有るべからず(いでぬ事の候けるぞ)と云云 尋ねて云く、いささかの事ありて此の事を疑うと云云。何ごとぞや。 或る記に云く、初めに浄土宗を習いて本山に還り寺僧等にこれを教う。その後念仏者の臨終において不審有りて浄土宗を捨つ。また諸国をめぐりて律宗を習いたまえり。然に三衣一鉢を帯び律儀を守ると雖も、小乗戒に成仏の道無き間、即ちこれを捨ておわんぬ。 また次に禅宗を習学し座禅工夫の門に入ると雖も、その証拠これ無し、ゆえに禅法を捨つ。次に真言宗に入りてこれを学びたまう。 善無畏・金剛智・慧果・弘法等の疏釈において邪見謗法の筆これ多し、ゆえに即ちこれを捨つ。また天台宗に入りて、山門三井を経て年月を送りたまえり。また奈良七大寺を経て本宗を尋ぬ。是の如く諸宗を学問し御座すに、仏教大小・権実・顕密の二教等雑乱しその誤り稱計すべからず。 宗宗の碩徳に値いこれを尋ね求むと雖も、その疑い更に更にもって散じ難きものなり。然る間自ら経蔵に入りて諸経を披覧せし処に、諸宗の元祖等悉く本経本論に違す、その科顕然なり、これに依て邪正簡別の化導を興したまえり。 九、御弘通発心のこと御書に云く、生年三十二にして建長五年癸丑三月二十八日、念仏は無間の業なりと見出しけるこそ時の不祥なれ。如何せんこの法門を申さば誰か用うべき、還って怨となすべし。人を畏れて申さざるは仏法の怨となり大阿鼻地獄に堕つべし。経文に末法に法華経を弘る者あらば、上行菩薩の示現なりと思うべし、言わずば諸仏の怨なりと説きたまえり。経の文に任せて言うならば日本国皆一同に日蓮が敵となるべし。 釈迦仏は裟婆八千度の生に尸毘王となりし時は鳩の命にかわり、薩タ王子となりし時は飢えたる虎に身を与え、雪山童子たりし時は半偈のために身を投げ、賢誓師子たりし時は猟師に身を任せ、三千大千世界に身命を捨て置かざる処はなし、 この功徳をば皆一切衆生の中には法華経を信ずる人人に与えんと誓いたまうか。我不愛身命なれば、命を捨て法華経を弘め、日本国の衆生を仏に成さん。わずかの小島の主君に恐れてこれを言わずんば地獄に堕ちて閻魔王の責めをば如何にせん。 国主の信じたまう禅は天魔なる由、鎌倉殿の用いたまう真言の法は亡国なる由、極楽寺の良観房は国賊なる由、浄土宗は無間大阿鼻地獄に堕つべき由、その外の余宗皆地に堕つべき由、一一に記すと云云。 或る記に云く、道善房の持仏堂の南面において一寺の大衆を集めて、念仏は無間の業たるの旨これを談じたまえり。師匠も座を立ち、大衆も驚き去る。このこと国中に風聞の間、地頭強盛の念仏者なるが故に、忽ちに清澄寺を擯出しおわんぬ。 然る間聖人長狭郡西條へ越えて花房の郷青蓮房に住したまえば、西條の地頭またもって念仏者たるの故に外には堂供養の導師となしてこれを請じ奉るも、内にこれを殺害せんと欲するなり。その時聖人このことを知しめすといえども、態と彼の請に趣き件の堂に到って御説法あり。仍て無縁の弥陀に帰し有縁の釈迦に違する故に堂を造り阿弥陀を安んずと雖も阿鼻大城に堕つの由、憚り無く述べたまう。 これを聞きて人々色を損じおわんぬ。既に殺害し奉らんと欲するの処に、上人供奉の方々大力人多々なる故に力に及ばず逃れ申しけるか。仍て上人御堂の縁より馬にめされ宿所に帰りたまえり。是の如き留難称計すべからず、 その後やがて鎌倉へ御上りあって名越の小庵に住したまえり。毎日名越の山中に入御あって高声に首題を唱えたまいきと云云。 十、弘通の初めのこと建長五年三月二十八日、云云。私に云く、建長は八十九代後深草院の御宇の年号なり。いみな久仁、治十三年、建長七年にて改易あり。 或る御書に曰く、四月二十八日と云云。 或る義に云く、閏三月なる故に或いは三月とも四月とも書きたまうと云云。 或る御書に云く、午の時に此の法門申し初めて今に二十七年と云云。 十一、立正安国論のこと私に云く、この論は八十九代亀山院の御宇の制作なり。これは後嵯峨第二の御子なり、諱は恒仁、正元元年己未十二月二十八日即位、十二歳なりと云云。されば安国論は即位の翌年なり、正元二年庚申なり。仍て正元二年改元ありて文応と号すと見えたり。これに依て或いは正元二年とも文応元年庚申とも書きたまえるなり。このころ関東より日本を一統に下知したる時節なるが故に、この論をば相模守時頼の見参に入れたまうと見えたり。この人は北条の四郎時政より六代の後胤か。 或る書に云く、頼朝已後三代の将軍の後、頼朝のしうと(舅)遠江守平の時政の子息に前の陸奥守義時、武蔵守泰時、修理亮時氏、左近大夫将監経時、相模守時頼と次第するなり。而も時頼出家あって法名を道崇と号し、弘長三年十一月二十二日三十七歳にして死しおわんぬ。最明寺殿と号するはこの人のことなり。その次の左馬権守時宗、相模守貞時、相模守高時と次第すと見えたり。 或る書に云く、九十五代後醍醐天皇の御宇に時政九代の後胤高時法師と云うもの下として上を犯さんとせしかば、彼を対治せんと思し召し遂に立って元弘三年癸酉歳五月十二日より軍を始めて同じく二十七日に終わり、高時法師滅亡しおわんぬ。 尋ねて云く、頼朝已来三代将軍と云える何等ぞや。 太平記に云く、頼朝天下を治ること十九年にして薨じたまいしかば嫡男の頼家相続すと云えども、幾程無く失せたまえり。征夷将軍頼朝の次男実朝右大臣左大将まで成りしかば、承久元年正月二十七日右大臣実朝鶴岡の八幡宮拝賀の時、舎兄左衛門督頼家朝臣の子に公暁と云いける法師に殺されぬ。継ぐべき人無くして頼朝の跡は絶えにきと云云。 或る本に云く、三代は頼朝、頼家、実朝なり。実朝は頼家の子悪禅師公暁のために討たる。源氏の世僅かに四十二年にして尽きおわんぬ。 十二、三代将軍の後藤家将軍のこと。第四藤原頼経、九条の摂政通家公の三男、時に八歳なり。この時は右大将頼朝の後室、平時政のむすめ、頼家・実朝の母、将軍の宣旨を蒙らず、只頼経公年少たるの間、彼の代官となって成敗するところなり。承久元より嘉禄元に至るまで七箇後室の成敗と見たり。嘉禄元より寛元二に至るまで二十箇年は頼経の世にてこれあり。 第五頼嗣は頼経公の一男、時に六歳。寛元二より建長四に至るまで九箇年なり。時に十四歳にして上洛す。 第六宗尊親王は後嵯峨院第二の皇子、時に十一歳なり。建長四年壬子三月十九日将軍の宣旨を下され、四月二日に鎌倉に入りて時頼の館に御す。建長四より文永三に至る十五箇年なり。二十五歳にして御上洛す。この時は相模守時頼の執権にてこれあり、最明寺これなり。陸奥守重時は同時の人なり、出家の法名は観覚。弘長元十一月二十三日に死す、極楽寺これなり。 第七源惟康、宗尊親王の皇子、時に三歳なり。文永三より正応二に至る二十四箇年なり。二十六歳に御上洛。この時、相模守時宗権威を施すか。文永元より弘安七に至る二十一箇年なり。弘安七年三月二十八日に所労、四月四日に死す、三十四歳なり、法光寺と号す。 第八久明親王は後深草院の王子なり、時に十四歳。正応二より延慶元に至る二十箇年、二十四歳にて上洛と云云。この時相模守貞時執権すか。弘安三より正安三に至るまで十八箇年、法名は崇演、最勝園寺と号す。 第九守邦王子、久明親王の御子、時に八歳。延慶元より元弘三に至る、二十六歳なり。この時相模守高時の治世か。正和五より嘉暦元に至る十一年なり。同三月十六日二十四歳にして出家と云云。已上前代の分なり。 私に云く、安国論は王代九十代恒仁、関東の将軍は宗尊親王、執権は時頼、使者は宿屋左衛門入道なり。安国論のことは別にこれを書くべしと云云。 御書に云く、立正安国論を作りて宿屋の禅門を使いとして見参に入らしむ、これ生年三十九の年文応元年庚申なり。日蓮が立て申す法門を一偈一句答うる人これ無しとや。 或る記に云く、正嘉の大地震に驚いて勘文一巻立正安国論と号し去る文応元七月十六日宿屋左衛門入道について最明寺の殿に見参に入れたまえり。御沙汰有るべきの由存ぜらると雖も、皆これ念仏者の弟子旦那なるゆえ御沙汰に及ばず、由なく閣おきおわんぬ。然る間念仏者等数千人の旦那を引率して、夜中に聖人の御房に押し寄せ殺害せんと欲す。御弟子能登公、進士太郎疵を蒙るなり。聖人多勢の中を破りその夜の殺害を遁れたまえり。然りと雖も夜討ちの輩を念仏者等ついに罪科無くしてやみにき。これらは鎌倉名越の小庵にての御事なり。 十三、伊東のこと。御書に云く、生年四十、弘長元年辛酉歳五月十二日に伊豆国伊東の庄へ配流。伊東八郎左衛門尉の預かりにて三箇年なり。同三年癸亥二月二十二日赦免と云云。私に云く、王代等は安国論にこれ同じ、安国論は三十九歳、伊東の御難は翌年なるが故に、将軍執権等は全体同じきものなり、これを見るべし。 或る記に云く、伊豆国伊東の庄は七郷なり、七郷の中に留津の浦に著きたまえり。かの浦に三十日計り経たまいて、その後八郎左衛門尉の宿所の近辺に移し奉る。屋形と申す処に置き奉りて三年を経たまえり。 弘長二年正月の御消息に云く、この身学問仕りしこと漸く二十四五年に罷り成る、法華経を信じまいらせし事は僅かにこの六七年よりこの方なり。 また信じ候しかども懈怠の身の上たる上、或いは学問と云い、世間の事にさえられて、一日にわずか一品一巻題目計りなり、今去年の五月十二日より今年正月十五六日に至るまで二百五十余箇日が程は、昼夜に法華経を修行し奉らんと存じ候、その故法華経の故にかかる身と成りて候えば、行住坐臥に法華経を読むにてこそ候え。人間に生を受けこれ程の悦び何事か候べき。 凡夫の習い我とはげみて菩提の心を起こして後生を願うといえども、おのずから思い出て十二時の間に一時こそ願い候、これは思い出さぬにも経を読み読まざるにも法華経を行ずるにて候と云云。 御消息に云く、今日本既に大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見るに、これを知りながら申さずば、たとい現世には安穏なりとも、後世無間地獄におつるべし、後生を恐れて申すならば流罪死罪一定なりと思い定めて、去る康元の比最明寺殿に申し上げぬ、されども用いたまう事無かりしかば、念仏者等この由を聞きて上下の諸人をかたらい打ち殺さんとせし程、かなわざりしかば長時武蔵守の殿は極楽寺殿の御子なりし故、おやの心をしりて理不尽に伊豆国に流罪したまいぬ。 されば極楽寺殿と長時かの一門皆ほろぶるを各の御覧あるべし。その後いくほどもなくして召し還されぬ。また経文の如くいよいよ申しつよる。 私に云く、建長七年乙卯康元元丙辰正嘉元丁巳と次第す。されば建長五年以降康元の比頻りに天下を諌めたまえるか。
十四、長時のことおよそ陸奥守重時その子に武蔵守長時なり。最明寺の子息時宗の年少の間、彼の代官となさしめ、長時成敗を令るなり。仍て伊東流罪は重時父子の所行と覚えたり。極楽寺殿は弘長元年十一月二十三日死しおわんぬ。聖人伊東へ流罪し奉るその年の暮れと見たり、長時は文永元八月二十一日に死しおわんぬ。十五、伊東御赦免のこと。伊東の御赦免は、生年四十二歳なり。上人は二月二十二日御赦免、その年の暮れの弘長三年十一月二十二日最明寺死しおわんぬ。十六、悲母生活のこと或る記に云く、弘長三年に伊東より赦免あり、翌年に慈父の御墓を拝せんがために安房国に御下りあり。その比八旬に及びたまえる老母御わしき、聖人を見奉りて歓喜したまうこと限りなし。然りと雖も生死の習いなれば病苦を受け即ち死にたまえり。聖人悲嘆の余り深精誠祈念したまう様、我若し弘通の功を遂げて法華遂に一閻浮提に広宣流布せしむべくんば、老母の命今度計り助けたまえと念じたまい、人を遣わし山野において華を折り浄水を結びて道場を荘厳し読経念誦したまう処に、老母速やかに活きたまえり。平復かくの如きか、これを見聞の輩誠に以って奇異の思いを作しおわんぬ。その後四箇年存命したまう。その後道善の御房に向い奉り種々問答これあり。即ち念仏を申し止めて、釈迦の像を持仏堂に安置したまうと云云。 尋ねて云く、安房の国清澄寺に本化の御法門始めたまう素意これ有りや。答えて云く、別してその素意相伝の御義これ有るやらん、これを知らず。 或る御消息に云く、建長五年四月二十八日安房国長狭郡内東條の郷に天照太神の御厨あり。右大将の立て始めたまえるなりと、日本第二の御厨今日本第一なり。この郡内に清澄寺と申す寺の諸仏房の持仏堂の南面にして午の時この法門申し始めて今二十七年なりと云云。弘安二年巳卯の御書なり。 私に云く、この御文章はその素意を述べたまうかと覚えたり能々これを尋ぬべきなりと云云。 十七、東條の御難のこと御書に云く、如来現在 猶多怨嫉 況滅度後なれば、日蓮この法門の故に怨まれ死せんこと決定なり。今度旧里へ下り親しき人々をも見ばやと思いて、文永元年甲子十月三日に安房国に下りて三十余日なり。同十一月十一日に安房国東条の松原と申す大道にて申酉の時計りにて候に、数百人の念仏者の中に取り籠められ、日蓮は只一人物の用に合うべき者は僅に三四人候しかば、射る箭は雨のふる如く打つ太刀は電光の如し、弟子一人は当座に打ち殺されて候、二人は大事の手を負い候ぬ、自身計りは射られ切られしかども如何が候らん打ち漏され候て鎌倉へ登ると云云。或る御書に云く、頭にぎずを蒙り左の手をうちおられぬと云云。 或る記に云く、西條華房の青蓮房の所より東條左衛門の宿所を過ぎたまう時、前の大道にて景信の徒党数百人を引率して合戦を致しおわんぬ。御弟子一人左近の丞と云う者打ち殺されたまえり。鏡忍房疵を蒙り身に完たき処無く、左藤次疵を蒙ると云云。 御書に云く、本は安州の者にて候しか、地頭東條左衛門尉景信と申せし者、極楽寺殿の藤次左衛門入道一切の念仏者にかたらわれて、度々問注ありて結句は合戦をして候、極楽寺殿御方人理をまげられしかば東條郷をせかれて入ること無し、父母のはかを見ずして数年なり。 十八、蒙古牒状のこと或る記に云く、文永五年戊辰後の正月蒙古国よ日本を襲うべきの由牒状これを渡す。この牒状について安国論に符合の旨書状を以って諌めたまえり。その御札に云く、其の後は書絶て申さず、不審極り無く、抑去る正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震、即ち諸経を引いて之を勘えたるに、念仏宗と禅宗等とを御帰依有るが故に日本守護の諸天善神瞋恚を作して起す所の災なり、若し此れを対治無くんば他国の為に此国を破らる可きの由し勘文一通之を撰して、正元二年庚申七月十六日に御辺に付け奉り故最明寺入道殿へ之れを進覧す、其の後九箇年を経て今年大蒙古国の牒状之れ有る由し風聞す等云云、経文の如んば彼の国より此国を責めん事必定なり、而るに日本国中に日蓮一人当に彼の西戎を調伏す可き人に当り、兼て之を知り、将た亦之を勘ふ君の為国の為め神の為め仏の為め内奏を経らる可きか、委細の旨見参を遂げて申す可く候、恐惶謹言。 文永五年八月廿一日 日蓮在御判 宿屋左衛門入道殿 蒙古の牒状に云く、上天の命を眷くる大蒙古国の皇帝、書を日本国王に奉る、朕惟みれは古より小国の君として境土相接つて尚務て信を講じ睦を修む、況や我祖宗、天の明命を受け区夏を奄有し遐方異域威を畏れ徳に懐つく者悉く数ふ可からず、朕即位の初め高麗無辜の民を以て久く鋒鏑に瘁る、即兵を罷め其彊域を還し、其の旄倪を反へさしむ、高麗の君臣咸く載せて来朝す、義君臣と雖も歓び父子の若し、王の君臣を計るに亦已に之を知る、高麗は朕が東藩なり日本密に高麗に邇し、開闢より已来亦将に中国に通せんとす朕が躬に至つて一葉の便り無し以て和好を通せず、尚恐くは王国之を知るや、未だ審かならず、故に将に使を遣して書を持て朕が志を布告す、冀くば今より以往間を通し好を結び以て相親睦せん、且聖人は四海を以て家と為す相通好せざるは豈一家の理ならんや、以て兵を用るに至ては夫れ孰か好む所、王其れ之を図れ不宣、 至元三年八月 日。 或る記に云く、この牒状公家に参着すること文永五年二月一日なり。これについて返状あるべきや否や、牒者の首を切るべきや否や、諸道の勘文を召し公卿詮議数箇度あり、異義様々なりしかば、反牒無くして牒使計り返しにけり、これ則ち虎を野に放ち狼を飼うに異ならず、この牒使夜々に筑紫の地を見めぐり、船の津・軍場まで委しく差図し人の景気を相し所案内を注し帰りにけり。その後文永十一年十月五日の卯の時に対馬の国府の八幡宮の仮殿の中より火炎おびただしくもえ出ず。国府の在家の人等焼亡出来やと見る程にまぼろしなり。こはなにと云う程に、同日申時に対馬の西面、ざすの浦、異国の船四百五十艘三万人打ち乗せて寄せ来る等と云云。 十九、文永八年辛未申状案のこと一昨日見参に罷り入り候の条悦び入り候。抑も人の世に在る誰か後世を思わざらん。仏の出世は専ら衆生を救わんが為なり。爰に日蓮比丘と成りしより、旁(かたがた)法門を開き、已に諸仏の本意を覚り、早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是なり。一乗の崇重、三国の繁昌の儀・眼前に流る、誰か疑網を貽さんや。 而るに専ら正路に背いて偏に邪途を行ず。然る間聖人国を捨て、善神瞋を成し、七難並に起つて四海閑かならず。方今・世悉く関東に帰し、人皆土風を貴ぶ。 就中日蓮生を此の土に得て豈に吾国を思わざらんや。仍て立正安国論を造りて故最明寺入道殿の御時、宿屋の入道を以て見参に入れ畢んぬ。而るに近年の間多日の程、犬戎浪を乱し夷敵国を伺う。先年勘へ申す所、近日符合せしむる者なり。彼の太公の殷国に入りしは西伯の礼に依り、張良の秦朝を量りしは漢王の誠を感ずればなり。是れ皆時に当つて賞を得。謀を帷帳の中に回らし勝つ事を千里の外に決せし者なり。 夫れ未萌を知る者は六正の聖臣なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり。而るに日蓮忝くも鷲嶺・鶴林の文を開いて鵞王・烏瑟の志を覚り、剰へ将来を勘えたるに粗符合することを得たり。先哲に及ばずと雖も定んで後人には希なるべき者なり。法を知り国を思うの志尤も賞せらるべきの処、邪法、邪教の輩讒奏、讒言するの間、久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず。 剰へ不快の見参に罷り入ること、偏に難治の次第を愁うる者なり。伏して惟みれば泰山に昇らずんば天の高きを知らず、深谷に入らずんば地の厚きを知らず。仍て御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す。勘え載する所の文は、九牛の一毛なり、未だ微志を尽さざるのみ。 抑も貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安じ国を安ずるを忠と為し孝と為す。 是れ偏に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐惶謹言。 文永八年辛未九月十二日 日蓮在御判 平左衛門尉殿 二十、祈雨について勝負のこと或る記に云く、去文永八年辛未六月十八日より二十四日に至るまで一七日の内に天下の仰せを蒙り、極楽寺の良観房雨をふらすべき由披露せり。聖人の仰せに云く、小事たりと雖もこの砌に現証を以って法門の邪正を顕わすべきのもなりとて、その比周防公入沢入道と申す念仏者これあり、これに対して言いたまう様は、汝等は念仏者なり、未だ法華経を信ぜず所詮現証を以って法の邪正を知るべし、七日の内に雨降らば八齋戒の念仏を以って浄土に往生すべしとこれを信ぜん、若し雨降らざれば一向に法華経を信ずべしと仰せありしかば、二人大いに悦び良観房の許に至って申す様日蓮の御房のたまい候は、良観房日来御歎きを承り及ぶに、日本国の僧尼には二百五十戒五百戒、男女には五戒八齋戒等一同に持たせんと思う処に、日蓮この願を障る由時時に歎きたまうと聞えたり、若し七日の間に一雨も降るならば、忽ちに御弟子と成りて具足戒を持ち念仏は無間の業なりと云う法門を申すまじき由のたまい候如何と申したりしかば、良観房ななめならずこれを悦び、七日の内に雨ふらすべしとて百余人の弟子を集め、身より雲煙を立て声を天に響かし、或いは念仏、或いは晴雨経、或いは法華経、或いは真言、総じて小法大法残り無くこれを行ずと云えどもその験もこれ無く、已に四五日に至れども更に以って雨の気これ無し。 また聖人使いを遣わして七日雨を祈りて已に半ばを過ぎぬ、何として雨の気これ無きやらん、急ぎ速やかに雨を降らし大旱魃の憂愁を救いたまえかしとありしかば、良観房以ての外に迷惑し、極楽寺、多宝寺の数百人の弟子を召集して、肝胆を摧きて祈れども露程の雨も降らず。 七日も漸く過ぎしかばまた聖人使いを以って仰せらるる様は、伝え聞く和泉式部と云える淫女、能因法師と云いし破戒の僧は三十一字の和歌を以って雨を降らすと見たり、良観房は持戒の上人ぞかし、法華真言その義理を極めたまえる上に、慈悲深重の名称あり、また一人二人ならず、数百人集会して丹精を抽きてたまう処に七日の内に一雨も降らず、大いに以って不審なり、二百五十戒を設くるは拙しと云うとも誑言綺語の和歌に劣るべき様は有るべき、これを以ってこれを思うに、一丈の堀を越えぬ者二丈三丈の堀を越うべきか。雨の祈り小事すら成就せざる人、大事の仏道を成ずべきや。 かくの如く七日の内に三度に及び使いを遣わして責めしかども二七日にて雨降らず、結句炎旱いよいよ強盛なる上風頻りに吹く、人民の歎き限り無し。 されば聖人自今以降日蓮を誹謗したまうなよ、所詮後世を畏れたまわば来たりたまえ、降雨の法と成仏の法を教え奉らん。 第七日にて御使いありし時良観房を初めとして数百人の弟子旦那等汗を流し声を立て皆悲泣して云云、然る間良観房道心あらば忽ちに翻邪せんか、然らざれば山林に身を隠すべき処に、敢えてその義無くいよいよ邪義を興し、念阿弥が弟子行敏を使者と為し、無尽の讒言を構え、書状を以って処々にこれを訴え、聖人を失い奉らんと結構せしこと称計すべからず。 然れば則ち文永八年九月十二日の竜口の御難これ等の讒奏に由るものなり。 二十一、行敏書状のこと未だ見参に入らずと雖も、事の次を以て、申し承るは常の習に候か。抑も風聞の如くんば、所立の義最も以て不審なり。法華の前に説ける一切の諸経は、皆是れ妄語にして出離の法に非ずと。是一 大小の戒律は、世間を誑惑して悪道に堕さしむるの法と。是二 念仏は、無間地獄の業為りと。是三 禅宗は天魔の説、若し依つて行ずる者は悪見を増長すと。是四 事、若し実ならば仏法の怨敵なり。仍つて対面を遂げて悪見を破らんと欲す。将又其の義無くんば、争か悪名被らざらん。痛ましきかな。是非に付けて委しく示し給わるべきなり。恐惶謹言。 七月八日 僧行敏 在判 日蓮阿闍梨御房
御返事条条御不審の事。
私の問答は事行い難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるるの趣に随つて、是非を明かせらるべく候か。此くの如く仰せを蒙り候条、最も庶幾する所に候。恐惶謹言。 二十二、行敏奏状のこと僧行敏謹言上早く日蓮を召し決せられ邪見を摧破し正義を興隆せんと欲すること 副え進らす 一通は行敏書状の案 一通は日蓮返状 右八万四千の教々而も出離の教にあらずと云うことなし、大小顕密の法々而も解脱の法にあらずと云ふことなし、譬えば葛氏一百の方は病に依て以て薬を施し匠石長短の材は物に随て以て器を成するがごとし、一を是し諸を非す理、豈に然る可けんや。 而るに日蓮偏に法華一部に執して諸余の大乗を誹謗す、所謂る法華の前説の諸経皆妄語にして更に衆生出離の法に非ず、念仏是れ無間地獄の業、禅宗即天魔波旬の説、大小の戒律は世間誑惑の法なりと云云。 然る間無智の道俗頑愚の男女仰いで信受し伏して頂戴す、或は年来の本尊弥陀観音等の像を火に入れ水に流し、或は多日薫修の念仏持戒等の法、唇を反へし毀謗す、逆悪の余り法華守護と号して兵杖を家内に貯へ凶徒を室中に集む。 此れ等の所行去る弘長流罪の日已に露顕せしむるの上、当時殊に興盛なり、幸に哀憐を蒙て免許せられば須らく前非を悔ゆべきの処に邪見の憶い弥よ高く悪行の計こと倍す盛なり。 近日旱魃の事に依て諸寺に於て雨を祈らるの時、日蓮弟子を良観上人の所へ遣して両三度則ち申して曰く今御祈祷の人と称する天台、真言、禅、律僧等、雨の祈祷は甚た神慮に叶う可からず、率土の旱魃、東西の夷戎、興起して他に非ず併ら禅戒念仏等の繁昌に拠る、然らば建長寺、極楽寺、多宝寺、大仏殿、長楽寺、浄光明寺以下の諸伽藍を焼き払い、及び禅僧念仏僧等の諸僧の頚を斬て由井が浜に掛るの後に、旬に雨一天に潤い徳風四海に静ならんと云云。 彼の弟子等同く処々温室堂社見物等の所に於いて悪言を吐く事、称計す可からず、此れ等の伽藍は忝くも関東鎮護の霊場仰崇他に異なり、霞軒甍を顕し月輪面を並ぶ彼等の僧侶は又当世英傑の竜象、帰依誠有り戒香身に薫し道風人を化す、而るに寺を灰焼地と成し僧を斬刑罪に宛てられんと擬するの条、下愚愁憤を懐く、上聞争てか痛思せざらん、摩訶提婆の真言を五縁に乱るや未た必す寺宇を焼かず、守屋逆臣の仏法を一時に滅すや未た必も僧頭を斬らず、日蓮が造悪の如に至ては上古に更に比類無し末代争か等輩有らん。 啻だ一身の悪見のみに非ず普く百人の謬誤を致す、茲に因つて行敏悲哀に堪えず今月八日状を遣わし問うて云く四箇条事書状に見る事若し実ならば仏法の怨敵なり之を対破せんと欲す、 日蓮報じて云く私の問答事行き難きか上奏を経られ是非を明む可し云云、然らば則ち且は仏法興隆の為め且は衆生利益の為め日蓮を召出され悪義を停止せば白法森羅として鎮えに公家武家の安全を祈り蒼生聯綿として普く今世後世の仁恩を戴かんのみ、懃歎の余り言上件の如し、 文永八年太歳辛未。 有る云く、行敏は乗蓮の弟子、乗蓮は念阿の弟子なり。(是誤解、乗蓮は行敏の後名) 二十三、良観房の書状案のこと。その後は良久しく見参に罷り入らず候、罷り出で候便宜の時を以て参上仕り候、何事も申し承る可く候、兼て又此の参られ候僧の申さるる旨候、便宜を以て入道殿の御辺に伺い申さしめ給はる可く候やらん、心事参上の時を期し候、恐惶謹言。 七月二十二日 忍性在判 忍性は良観なり 治部入道殿 信濃判官入道殿二十四、奉行人に対し仰せ含めらるること。御書に云く、念仏者持斎真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶わざりしかば、上郎尼御前に取り付いて種種にかまえ申す、故最明寺入道殿を無間地獄に堕つと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏殿等を焼き払えと申し、道隆聖人・良観聖人等の頸をはねよと申す。御評定に云く、なにとなくとも日蓮が罪科免れ難し、且つは上件のこと一定申しけるかと召し出だして尋ねんとて召し出だしぬ。 又奉行人の云く、上への仰せ是の如しと申せしかば、 上件の事一言もたがわず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄と云うことは虚事なり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり、 所詮上件の事どもは此の国を思うて申す事なれば、世を安穏にたもたんとおぼさは彼の法師原を召し合せて聞し食せ、さはなくして彼れ等にかわりて理不尽に失に行わるる程ならば、国に後悔有るべし、 日蓮御勘気を蒙らば、仏の御使を用いぬに成るべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流死罪の後、百日一年三年七年が内に自界叛逆難とて、この御一門どしうちはじまるべし、その後は他国侵逼難とて、四方より殊には西方より責られさせ給うべし、その時後悔あるべしと平左衛門尉等に申しつけしかども、太政入道のくるいし様にすこしもはばかる事なく物にくるう。 二十五、文永八年九月十二日御勘気のこと。御書に云く、平左衛門尉地を大将として数百人の兵者にどうまるきせ、えぼし懸けして、眼をいからし声をあらうす。大体事の心を案ずるに、太政入道の世を取りながら国を破らんとせんに似たり。ただ事ともみえず。日蓮これを見て思うようは、日ごろ月ごろ、思いもうけたりつる事はこれなり。さいわいなるかな法華経のために身を捨てん事よ、くさき頭を刎られば、砂に金を替え、石に珠をあきなえるがごとし。 さて平左衛門尉が一の郎従に、少輔房と申す者走りよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して、おもてを三度までさいなみて、さんざんにうちちらす。又九巻の法華経も兵者ども打ちちらして、或いは足にふみ、或いは身にまとい、或いは板敷・畳等に家の二三間にちらさぬ所もなし。 日蓮、大音声を放ちて申す、あら面白や平左衛門尉のものにくるうを見よ。とのばら只今日本国の柱をたをすとよばわりしかば、上下万人あわてて見えしなり。日蓮こそ御勘気を蒙れば、おくして見ゆべかりしに、さはなくして、これは僻事なりとや思いけん、兵者ども色こそ変じて見えつれ。 十日並びに十二日の間、真言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事・つぶさに平左衛門尉に云い聞かせてありしに、或はどつと笑い、或は瞋りなんどせし事どもは、しげければしるさず。 所詮、六月十八日より七月四日まで、良観が雨の祈りして、日蓮にかかれて雨ふらしかねて、汗を流し、涙を流す、雨をふらさざりし上に、逆風ひまなくてありし事、三度まで使いを遣わし、一丈の堀を越えぬ者、十丈二十丈の堀を越うべきか、和泉式部が色好みの身にして、八斎戒に制せる歌をよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として、歌をよみて天雨を下せしに、いかに二百五十戒の人人、百千人集まりて、一七日・二七日責めさせたまうに、雨の下らざる上、大風は吹き候ぞ。これを以って存じさせたまえ。各各の往生は叶うまじきぞとせめられて、良観が無き事を人人につきて讒奏せし事、一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどをし・かなえずして、つまりふしし事どもはしげければ書かず。 二十六、九月十二日夜八幡大菩薩を諌めたまうこと。御書に云く、十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び、頸を切らんがために鎌倉を出でしに、若宮の小路に打ち出でぬ。四方に兵の打ちつつみてありしかども、日蓮云く、各各さわがせたまうな、別の事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしおりて高声に申す様は、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気の清丸が頸を刎られんとせし時は、長け一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経を講じさせたまいし時は、紫の袈裟を御布施に授けさせたまいき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。その上身に一分の誤り無し。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城に堕つべきを、助けんために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国を責るならば、天照太神・正八幡とても安穏にはおはすべきか。その上釈迦仏、法華経を説きたまいしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神あつまりたりし時、各各に法華経の行者におろかなるまじき由の誓状まいらせよと責められしかば、一一に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願を遂げさせたまうべきに、いかに此の処には落ち合せたまわぬぞと高々と申す。 さて最後には、日蓮、今夜頸切られて霊山浄土へ参りたらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬ神にて候けれと、指しきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたましとをぼさば、いそぎいそぎ御計らいあるべしとて、又馬打ち乗ってゆいのはまに打ち出でぬ。 二十七、頼基に御告げあること。御書に云く、御りやうの前に至りて又曰く、しばらく殿原、これに告ぐべき人ありとて、中務三郎左衛尉と申す者の許へ、熊王と申す童子を遣わしたりしかば、いそぎ出でぬ。今夜頸切られにまかるなり。この数年が間願いつる事はこれなり。この娑婆世界にして、きじとなりし時はたかにつかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。或は妻子の敵に身を失いし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失うことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力もなし。今度頸を法華経に奉りてその功徳を父母に回向し、そのあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉兄弟四人、馬の口に取り付き、こしごえ龍口にゆきぬ。 此にてぞあらんずらんと思う処に、案にたがわず兵士ども打ちまわりてさわぎしかば、左衛門尉申す様、只今なりとなげく。日蓮申す様、不覚の殿原かな、これほどの悦びをば笑えかし。いかに約束をばたがうるぞと申せし時。 二十八、その夜の怪異のこと。御書に云く、江の島のかたより月のごとくひかりたる物、まりの様にて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけがたなれば人の面もみえざりしが、物のひかりは月の夜のようにて人人の面もみな見えぬ。兵士の者共興さめて畏れおり、或は馬よりおりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまる者もあり。日蓮申す様、いかに殿原、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近くうちよれや、うちよれやと高々とよばわりしかども、いそぎよる人もなし。さて夜もあけしかば、いかにいかに、頸きるべくばいそぎ切るべし、夜明けなばみぐるしかりなんとすすめしかども、兎角のの返事もなし。或る記に云く、良久ありて兵士の方々使者を以って鎌倉へ腰越の子細を注進あり。また鎌倉より使者の立ちて腰越へ申さるる様は、鎌倉中に大いなる物の怪これあり。日蓮房誅すべからざるの由これあり。両方の使い七里が浜にて行合いおわんぬ。これに依てその夜の死罪は御延引ありと云云。 或御書に云く、九月十二日丑の時頸の座に引きすえられ候いきと云云。 二十九、依智に移し奉ること御書に云く、夜明けなば見ぐるしかりなんとすすみしかども、兎角の返事も無し。はるかばかり有りて云く、相模の依智と云うところへ入らせたまへと申す。此の道知る事なし。先き打ちすべしと申せども、打つ人も無し、さてやすらう程に、或る兵士の云く、其れこそ其の道にて候ぞと申せしかば、道に任せて行くに、午の時計りに依智と申す所へ行きつきたりしかば、本間六郎左衛門尉の家に入りぬ。 酒とりよせてもののふ共にに呑せて有りしかば、各々帰るとて、頭をうなたれ、手を合せて申すやう、此の程は、何なる人にてかをはすらん。我等が憑み候阿弥陀仏を、謗じ給い候と承てにくみ候いつるに、まのあたり拝みまいらせつる事共、貴く候へば、年来申しつる念仏を捨て候とて、火打袋より、珠数を取り出だして捨つる者もあり。今より後念仏申さじと誓状を立つる者もあり。 六郎左衛門が郎従等、番をば請け取りぬ。左衛門尉も還へりぬ。 其の日の戌の時計りに鎌倉より、上の御使とて立文を持て来りぬ。頸切れと云う、重ねての御使かと、もののふ共には思いて有りし程に、六郎左衛門が代官、右馬の允と申す者、立て文持ちて走り来り、跪きて申す、今夜にて候べしと、あらあさましやと存じ候つるに、かかる御悦びの文来りて候なり。武蔵守殿は今日卯の時に熱海の湯へ出にて候へば、急ぎあやなき事もやと、まづ是へ走り参りて候と申す。鎌倉よりの御使いは、二た時ばかり候。今夜の内に熱海の湯へ走り参るべしとてまかり出でぬと云云。 第三十、依智に星下りのこと御書に云く、追状には此の人は失無きなり。今且らく有りて許させたまふべし。あやまちしては後悔あるべしと云云。其の夜は十三日、兵士共数十人番して、大庭に並居て候いき。九月十三日の夜の月大に晴れてありしかば、夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて、自我偈少少読誦し奉り、諸宗の勝劣、法華経の文あらあら申す、 抑も今の月天は法華経の御座に列りまします名月天ぞかし。宝塔品にて仏勅を蒙りぬ、嘱累品にしては仏に頭を摩られ奉り「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状を立てし天ぞかし。仏前の誓は、日蓮なくば空くてこそをわすべけれ。今かかる事の出来せば、急ぎ悦びをなして、法華経の行者にも代り、仏勅をもは果たし、誓言の験をも遂げたまふべし。何に今しるしのなきは不思議に候ものかな。何なる事も国になくしては鎌倉へ還るべしともをほゑず。験こそ無らめ、うれしがほに澄み渡らせたまふはいかに。 大集経には「日月明を現ぜず」と説かれ、仁王経には「日月度を失う」と書かれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに、いかに月天、いかに月天と責めしかば、其の験にや天より明星の如くなる大星下り、前の梅の木の枝に懸りて有りしかば、もののふ共、皆縁より飛び下り、或は大庭にひれ伏し、或は家の後へ逃げぬ。やがて天かきくもり大風吹き来りて、江の島のなるとて空に響きたる事、大なる鼓を打つがごとし。 明けぬれば十四日、卯の時に十郎入道と申す者来りて云く、過ぎし夜の戌の時計りに守殿に大なる騒ぎあり、陰陽師を召して御占い候へば、申けるは大に国の乱るべく候、此の御房の御勘気の故なり。急ぎ急ぎ還さずんば、世の中いかが候べかるらんと申せば、許させたまへと申す人も有り、又百日の内に軍あるべしと申し候へば其れを待つべしとも申す。 依智にして三十余日、其の間鎌倉に、或は火を付くる事七八度、或は人を殺す事隙無し。讒言の者共の云く、日蓮が弟子共の付くる火なりと。さもやあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、三百六十余人と記し、皆遠島へ遣すべし。篭に有る弟子共の頸を刎ねらるべしと聞く。さる程に火を付くる者は、持斎・念仏者が計り事なり。其の由は繁ければ書かずと云云。 元祖化導記上巻 終 |