伊豆期3御書の関係について『教機時国抄に学ぶ@』池田大作監修 大阪・堺青年部編 1995年聖教新聞社刊 p13〜p24◆ 1、御述作年次について伊豆流罪以降に御述作と推定本抄(教機時国抄)の御真蹟は現存せず、刊本『録内御書』の二十六巻に収録され、写本の『録内御書』としては行学院日朝(一四二二年−一五〇〇年)による古写本がある。また中山法華経寺の日祐(一二九六年−一三七四年)の『本尊聖教録』に「教機時国抄一巻」の記述が見られる(『昭和定本 日蓮聖人遺文』第三巻二七三八ページ参照)が、これはおそらく写本と思われる。 御述作の年次については本文に「二月十日」とあるのみなので古くから異説があった。多くは弘長二年(一二六二年)説をとるが、境持日通(一七〇二年−一七七六年)の『境妙庵御書目録』には「康元(一二五六・七年)の比(ころ)」とある。 弘長二年説の根拠となっているのは、本文中の「又当世は末法に入って二百一十余年」(御書四三九ページ)、「如来の滅後二千二百一十余年」(同四四〇ページ)との御文である。 大聖人が仏滅年代については、周の穆王五十二年壬申(紀元前九四九年)説、永承七年(一〇五二年)に末法に入ったとする説を用いられていたことは周知の通りである。御述作年次の確定している御書で仏滅年代に触れられている例を挙げれば、建治二年(一二七六年)の『報恩抄』に、 「仏滅後・二千二百二十五年」(同三二八ページ) と記されている。したがって、これより十五年さかのぼる弘長元年(一二六一年)は仏滅後二千二百十年、末法に入ってから二百十年に当たることになる。本抄に記される「末法に入って二百一十余年」の「余」の字から推すれば、本抄の御述作年次は弘長年間から文永六年(一二六九年)あたりまでということになる。 さらにまた、本抄の中には「建仁より已来(このかた)今に五十余年の間」(同四四一ページ)という記述も拝される。建仁年間は建仁元年(一二〇一年)から同四年(一二〇四年)までである。したがって、建長四年(一二五二年)から、弘長三年(一二六三年)にかけてが「五十余年」に相当する。なお、大聖人は「建仁」という言葉をもって、法然出現の時を表されるとし、必ずしも「建仁」の記述が年号と一致しないとの説もあるが、建治元年(一二七五年)御述作の『神国王御書』には、 「八十三代には阿波の院・隠岐の法皇の長子・建仁二年に位を継ぎ給う」(同一五一八ページ) と仰せられており、必ずしもそうとはいえない。 以上の二点を根拠として考えあわせるならば、本抄の御述作は弘長元年、同二年、同三年の二月が有力であろう。 さらに本抄の内容面から拝するならば、本抄の末尾で法華経の勧持品第十三に記される「三類の敵人」の出現に言及されて、 「日蓮・仏語の実否を勘(かんが)うるに三類の敵人之有り之を隠さば法華経の行者に非ず之を顕さば身命定めて喪(うしな)わんか」(同四四一ページ) と述べられていることから、大聖人はこの時点ですでに王難に値われていたと推測され、したがって本抄の御述作は弘長元年五月の伊豆流罪以後と考えられる。 以上のことからみて、本抄の御述作は、弘長二年もしくは同三年の二月十日ということになるが、大聖人は弘長三年の二月二十二日に赦免になられて鎌倉に戻られているので、その直前の二月十日よりも弘長二年の二月と考える方が妥当と思われる。 ◆ 2、本抄の題号について本抄の題号は、その内容に由来する。弘経寺日建の『教機時国抄私見聞』には、 「此抄大体弘仏教者教機時国教法流布前後トヨ可弁也。去程此題号略也。具ニハ教機時国教法流布抄也(中略)是ハ当宗ノ教相也」 とあり、また一如院日重(一五四九年−一六二三年)の『見聞愚記』には、 「先宗教ノ五箇トハ、教機時国教法流布の前後也。録ノ六十九ニ教機時国教法流布の前後抄トテ一通アリ。前篇此事ヲ御遊ス也」 と記されている。 御真蹟が伝わっていないので、題号が大聖人御自身によるものなのか、後人によるものか確証はない。安国院日講(一六二五年−一六九八年)も『録内啓蒙』に、 「教機時国教法流布ノ前後是一家宗教ノ五箇也。今此鈔具ニ其旨ヲ弁明シ玉フ故ニ取テ題号トセリ。祖師御自称ノ題カ、或ハ後人ノ所置ナルヘキカ」 と註している。 ◆ 3、「本朝沙門日蓮」について本抄の題号の下には「本朝沙門日蓮之を註す」と記されている。「本朝」とは日本国のことであり、「沙門」は梵語のSramanaの音写で、出家求道者を意味する。 日蓮大聖人が御自身を「沙門」と称されたことは、数々の御書中にその例が拝見される。例えば、『立正安国論』(日興上人写本)には「天台沙門」、『顕仏未来記』『立正安国論』(広本)には「沙門」の名が記されている。 本抄と同じ「本朝沙門」の自称は『顕謗法抄』(弘長二年)、『祈祷抄』(文永九年)、『観心本尊抄』(同十年)に見られる。 また『法華取要抄』では「扶桑沙門日蓮」と名乗られているが、「扶桑」は日本国の異名であり、したがって本抄の「本朝沙門」と同じ意味と考えられる。日寛上人は『法華取要抄私記』で次のように釈されている。 「『沙門』と申すは出家の事なり。これ則ち日本の出家ぞという事なり。或は天台沙門、或は釈沙門、或は本朝沙門なりというて諸書の釈の初めに題するは、人の為、国の為、処の為となり」(『日寛上人文段集』七七九ページ) ◆ 4、「日蓮之を註す」の「註す」について「日蓮之を註す」の「註す」について考えてみる。この語は、従来より「しるす」と読みならわされており、「記す」と同意であり、特に注意を要することではないかもしれない。しかし、同年に著されたとされる『顕謗法抄』では「日蓮撰」と署名されている。この「註す」「撰す」のほか、諸御書には「記す」「勘う」「述ぶ」「造る」があり、これらの語を日蓮大聖人は何らかの意味を含めて、使い分けられたとも考えられる。 一般に「註す」の語は、経釈に対する「注記」ということで、解釈を展開する場合に用いられる場合や、先行する書物の意味を解き明かす場合に用いられることが多い。 本抄以外に「註す」と記されているのは、『当世念仏者無間地獄事』と『観心本尊抄』の二書である。『当世念仏者無間地獄事』は、法然の『選択集』を取り挙げて、その構成を示し、その論点を破折するという形態を取られている。また『観心本尊抄』は冒頭に「本朝沙門日蓮撰」と署名されているが、再度末尾に「日蓮之を註す」と署名されている。『観心本尊抄』は、日蓮大聖人の観心の法門を明かされた重書であり、「日蓮撰」が御本意であると思われるが、形態的には、本文の冒頭に『摩訶止観』の要文を標されて、「観心の法門」に対して注記されていくという構成をとられているため、文末に「註す」と記されたものと拝察される。 そのほか、『祈祷経送状』には「祈祷の事、別紙に一巻註し進(まい)らせ候」(御書一三五七ページ)と述べられ、祈祷に関する法華経の要文を抄録されたことを「註し」と仰せられている。 以上のことから考えるならば、『教機時国抄』における「註す」の語は、本抄に先立って五義に関するなんらかの経釈または御述作の存在を暗示させている。あるいは、五義は日蓮大聖人の独創的な教判であるが、あくまで仏説に則(のっと)ったものであることを「註す」という語で示そうとされたと考えられる。 ◆ 5、標・釈・結についてただし、『教機時国抄』より先に五義の名目を示された御書があったのではないかという推測は、本抄の構成の上から十分成り立つ。それは日蓮大聖人の御論述は、主に「標・釈・結」という構成をとってなされているが、本抄においては、この「標」に当たる部分がないのである。 「標」とは、標識、標示の意味で論を起こすにあたって、冒頭にこれから述べる問題について標示する部分である。主に、経釈の要文や法門の名を記される場合が多い。「釈」とは、冒頭に標示されたことがらについて解釈や視点を述べるところであり、本抄では、「五義を明かす」段、「五義を知る」段がそれに相当する。「結」とは解釈を展開した後の結論部分である。本抄では、「法華経の行者の死身弘法を説く」段がそれに相当する。 ではなぜ、本抄において「標」の部分がないのかということについて考えてみると、本抄の御真筆は現存していないことから、「標」の部分が、あるいは伝写の過程で欠落したとも考えられなくはない。しかし、録内御書として早くから刊本となったことや古い写本の存在などから考えても、その可能性は薄いであろう。 ◆ 6、『顕謗法抄』との関係について『教機時国抄』がなぜ、「之を註す」とされたのか。本抄御論述の上で、何故「標」を略されたのか。この疑問は本抄の直後に著されたとされる『顕謗法抄』をよく検討することによって重要な示唆が得られるように思われる。 これまで『顕謗法抄』は『教機時国抄』の後で著されたと一般的に考えられてきたが、『顕謗法抄』は『教機時国抄』より先に著され、この『顕謗法抄』で初めて五義の名目を示され、同抄を承(う)けて『教機時国抄』の御執筆にとりかかられたという可能性も考えられるのである。 『教機時国抄』の成立を考える上で非常に重要になってくると思うので今しばらくこの可能性について検討してみたい。 さて『顕謗法抄』は四段に分けて構成されている。その第四段の冒頭には、 「第四に行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし、五義とは一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後なり」(御書四五三ページ) と標示されている。ここに五義の名目が整足して述べられている。ただし、その釈は「第一に教とは」と「教」のみにとどめられ、後の四義は略されている。 しかし、その前の第三段「問答料簡」の段で、 「又能化の人も仏にあらざれば機をかがみん事もこれかたし、されば逆縁・順縁のために先ず法華経を説くべしと仏ゆるし給へり」(同四五一ページ) と「機」について述べられ、また「国」についても、 「此の日本国には外道なし小乗の者なし」(同四五三ページ) と述べられている。つまり、同抄では前三段までは五義が整足して説かれていないのである。 幸いに『顕謗法抄』の御真筆二十五紙は、かつて身延に存し、近代まで伝持されてきたことが日乾の『身延山久遠寺御霊宝記録』によって確認されている。しかも、その御真筆と写本とを一字一句照合した対照本(日乾真蹟対照本)が京都本満寺に現存している。それによると、同抄の第四段の冒頭「第四に行者仏法を弘むる用心を明さば」(同四五三ページ)は「第四弘法用心抄」となっている(大石寺版『昭和新定 日蓮大聖人御書』は日乾対照本に基づいている。同第一巻四四五ページ参照)。ちなみに、先の日乾目録にも「裏に有弘仏法用心抄」(『昭和定本日蓮聖人遺文』第三巻二七五二ページ)とあり、「第四弘法用心抄」以下は二十五紙の裏面に認(したた)められたものであることが知られる。 右の事実から、大聖人はこの段をいったんは『顕謗法抄』と別の御書として著そうと意図されたのではないかと拝察されるのである。もちろん結果としては、そうされなかったのであるが、それはなぜであろうか。その理由を『教機時国抄』の成立とからめて考えると一つの可能性が浮かび上がってくる。 日蓮大聖人は「顕謗法抄」で、第一段「八大地獄の因果を明かす」、第二段「無間地獄の因果の軽重を明かす」を述べられた後、そこから提起される諸問題について、第三段で「問答料簡」として、問答形式で答えられているが、そのなかで、特に機の問題や国の問題にふれられていく時に、新たな論述の構想を起こされたのではないだろうか。 ゆえに最後の結論部分となる第四段をいったんは「弘法用心抄」という独立した御書として構想された。しかし、全体の論述の流れからいって、この結論部を外すことは不自然であることから、「弘法用心抄」を『顕謗法抄』の第四段としてとどめられ、そして次の御述作たる『教機時国抄』の御執筆にとりかかられたという可能性が考えられるのである。そのゆえに、「弘法用心抄」の「標」たる五義の標示をそのまま『教機時国抄』の標とされて、それをあえて略されたのではないだろうか。 ◆ 7、『四恩抄』との関係について伊豆期の御書に一貫した論述『教機時国抄』が『顕謗法抄』の後で著された御書であることを、さらに裏付けると思われる御書がある。それは同じく伊豆御流罪中に著された『四恩抄』である。 『四恩抄』は弘長二年正月十六日に著された御書であり、二月十日の『教機時国抄』よりほぼ一カ月前の御述作である。同抄では、冒頭に「此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり」(御書九三五ページ)と標示されて、「大なる悦び」と「大なる歎き」の二つの大事について論を進めておられる。 「大なる悦び」では、法華経身読をもって報恩とする悦びを述べておられる。一方「大なる歎き」では、日蓮大聖人が折伏を行じられることにより、 「我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く」(同九三九ページ) と述べられて、謗法の問題に説き進まれるのである。 しかし、『四恩抄』は謗法の問題に触れて、大集経の文を引用されるとすぐに文を閉じられている。このことから、従来、『四恩抄』は後半が欠落したものと理解されてきた。欠落説の根拠としては、「大なる悦び」の段に比して「大なる歎き」の段が極端に短いことが挙げられている。今この説に同調してさらに挙げるならば、この御書には「大なる悦び」「大なる歎き」について釈された後で述べるべき『四恩抄』全体の「結」が欠けているのである。 しかし、この後半部の欠落説にも難点がなくはない。それは、文末の日付、御署名、宛名が残っているからである。 さて『四恩抄』『顕謗法抄』、『教機時国抄』の三書の関連から見れば、『四恩抄』および『顕謗法抄』の文末の欠落感は、『教機時国抄』において補われるとともに、『教機時国抄』の「標」の欠落は二御書によって解消されると考えられる。 つまり、『四恩抄』の後半部は欠落しているのではなく、大聖人は『四恩抄』を意識的に打ち切られたのではないだろうか。その根拠は、まず「大なる悦び」の段に比して「大なる歎き」の段が極端に短いが、両者の論法が全く違っていることを挙げられよう。 「大なる悦び」の段では、その段の結語たる「是れ一つの悦びなり」(同九三九ページ)にいたるまでに、魔の出現、御流罪と仏記の符合、さらには四恩についてとさまざまな問題について述べられている。それに比べて、「大なる歎き」の段では、まず「第二に大なる歎きと申すは」(同ページ)と標示され、法師品の一文を引用されて、すぐ「我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く」(同ページ)とこの段の結を示されているのである。 その意味で「大なる歎き」の段は短いとはいえ、一応完結しているといってよい。あとの大集経の引用は結論に対する補足となっている。前の段に比べて、この段ではすぐに結論を示されたのは『四恩抄』を打ち切られる御意志があったからと推測されるのである。 では、なぜ、日蓮大聖人は『四恩抄』の歎きの段をこのような形で打ち切られたのであろうか。それは、日蓮大聖人の「大なる歎き」を本当に理解させ、御自身の御境界を示されるためには、謗法の問題を広く洗い直してみる必要を感ぜられたからではないであろうか。そう考えると八大地獄の因果を明かすことから始まる『顕謗法抄』を伊豆御流罪の最中に著された理由も理解できるのである。 次に、「大なる悦び」と「大なる歎き」を合する『四恩抄』全体の結が欠けているが、それを示そうとすれば、二つの大事を貫く日蓮大聖人の御境界を示されるほかにないであろう。 その意味で『教機時国抄』において、伊豆流罪という大難を受けられている日蓮大聖人御自身がまさに宗教の五義を弁えた真実の日本国の国師である、と同時に法華経に予証されている三類の強敵を招き寄せた真実の「法華経の行者」であることを宣言されていることに深く意をとどめるべきであろう。つまり、日蓮大聖人は『四恩抄』『顕謗法抄』『教機時国抄』という流れで御自身の御境界を示されたと拝される。 言い換えれば、『四恩抄』の「大なる歎き」の段を広く再説したものが『顕謗法抄』であり、『四恩抄』の総結が『教機時国抄』であると考えられるのである。またこの三つの御書は、『四恩抄』が標、『顕謗法抄』が釈、『教機時国抄』が結という、いわば標・釈・結と一貫した論述ととらえることもできるように拝察されるのである。 |