石田次男氏論述『一念三千論』
を批判する

魯の人 拝

はじめに



石田氏の『一念三千論』は下記のサイトにて公開されている。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/11.html

 石田次男氏は、戸田先生の一番弟子を自認していた、草創期の聖教新聞の論説主幹で、小説『人間革命』の石川幸男のモデルとなった人である。
 主著として『現代諸学と仏法』がある。宗門問題のはざまに脱会したが、すでに故人となっておられる。
 ほとんどの青年にとっては、すでに過去の人ではあるが、一部では今なお、隠然たる影響力を持っているという。
 その論文は、ネットに公開されており、私たちへの批判として時おり話題にもあがる。ところが、石田氏の論述への批判を学会サイドでは公式に行っていないので、私たちが批判を放棄したかに取り沙汰する向きもある。
 石田論文は論評に値しないという声もあるが、このさい、批判文をアップしておくことにした。

 方法としては、石田次男氏の主張に対して、コメント形式で批判を展開する。
 なお、論旨をわかり易くするために、石田氏の論述テキストに若干の編集を加えてある。必要であれば、上記サイトにて、オリジナルをチェックされたい。

 なお、この『一念三千論』は問答形式になっており、
Qは石田氏への質問者(石田氏支持者)の発言。
Aがそれへ石田氏の応答である。

これに対して、魯の人のコメントを添えた。
※で囲んだ文※が、魯の人のコメントである。


その一、石田氏の『一念三千論』を批判する。前半



Q、本日は石田先生に重要な法門である一念三千について教えていただきたく思います。

A、それであれば最初にお断りをひとつ申し上げておかなくてはなりません。それは、一念三千に就いての御説明は、理的な部分は天台大師で尽きてしまって、日蓮大聖人による追加的御説明は一切遊ばされていない…という事です。

 ですから説明を私が行うとなると天台大師の言葉しか出てこなくなります。これを文上のままに呑み込まれると困るのです。全部文底義で読んで頂かないと誤りますから最初にお断り申し上げて置きます。


※ 「文底義」という言葉の使い方について
 「文底義」とは、法華経を日蓮大聖人の独一本門の立場から読むということであり、自分の説明を「文底義」で読めと、読者に要求するような論法はおかしい。それは、単に説明がまずいことの言い訳でしかない。
 日蓮大聖人が立てられた「文底義」そのものは明解なものである。むしろ、そのような言い方は、日蓮大聖人の文底義を誤解させる。
 石田氏の論法は、問題をことさらに複雑にして取り繕っているだけだ。
 しかも展開される石田氏の所論は日蓮大聖人の立義ではなく、天台義でもなく、擬似天台でしかない。それを文底義で理解せよとは、無茶な要求である。※

Q、一念三千というと十界互具・百界千如・三世間で一念三千と成る訳ですが、これは大変難しく私達は何も解っていないと思いますのでぜひ教えていただきたく思います。最初に一念について伺い、次に十界・十界互具・十如是・三世間の順にお話を伺いたいと思います。

A、まず、一念に就いてですが、一念には果位の一念と因位の一念とがある訳です。衆生各自の我が一念には果位の一念は無いから要らないのです。そして信ずる対象としては要るのです。

 果位の一念と言えば、釈尊は五百塵点劫に即座一番成道してしまって、インドで法華経を説いた釈尊は果に因を包んだところの果位の一念になる訳ですが、我々はそうではない訳です。我々は因の立場での仏道修行ですから…。

 大聖人様は仏様で、果位の教主の立場でいらしゃる訳ですけれども、なおかつ因に果を包んだ所の因位を表に立てて本因妙という事で仏法を説ていらしゃる訳でしょう。我々は教主ではないのですから、自分についての果位の一念は無いから要らないのです。我々に必要なのは自分の因位の一念なのです。これが信の一念です。


※ 「我々に必要なのは自分の因位の一念」だといっても、当たり前のことで、仏の境涯に至っていない段階で現われてもいない果位を云云する者など、誰もいない。石田氏は誰と相撲を取っているのか。
 御本尊を信ずることによって、初めて因位につくので、我々にとってはその因位が問題となる。しかし、御本尊は因果倶時であり、因位につく時には、同時に果位も具わっていると説くのが日蓮大聖人の仏法だ。
 ただ、それを直接認識しないので、誰も衆生における果位を論じるものなどいない。
 石田氏は一人相撲をとって、問題をややこしくしている。こういうやり方を韜晦という。※

Q、因位とか果位とかいうお話の前にもう少し一般的な一念についてのお話からお伺いしたいのですが。

A、それでは科学論にしか成りません。仏法には一般的な一念などありません。常に迷いの一念か悟りの一念かです。この為に因位と果位の立て分けをしておかないと一念の中身に入る事が出来ないのです。

 果位の一念という事になれば、まず一つには脱益の一念で釈尊の一念です。二つには下種の果位の一念で宗祖の御一念です。我々は逆立ちしてもお釈迦様になる事は出来ません。竜樹・天台になる事も出来ません。いわんや教主としての果位の日蓮大聖人になる事は絶対に出来ません。


※ このような規定が、そもそもおかしい。御書には、次のようにある。
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の竜女・キョウ曇弥・耶輸陀羅女の如くに、やすやすと仏になるべしと云う経文なり。」p554
「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり。」 p1443
「仏にやすやすとなる事の候ぞ・をしへまいらせ候はん」p1574
 日寛上人も「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」文段集p676
と述べられている。※
 日蓮大聖人の仰せにも反し、富士の教義にも相容れぬ石田教学とは、そも何なのか。

 我々の場合には六即位においても理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即の中の名字即を中心とした修行ですが、それですら日蓮大聖人の名字即に比較したら単なる理即にすぎません。理即但妄の身です。我々は進んでも分身即までで究竟即にはなれないのです。因位の一念から始まって分身即までしか絶対に成れないのです。

※ このような規定は、そもそも、六即の本意から外れる。
六即とは六つの位が即しているということだ。「即」の一字の読み方も知らないのであろうか。
 また仏の位である究竟即になれないとすれば、衆生は成仏できないということになる。こんなバカげた理論はない。
 観念的議論を弄ぶから、こんなドツボにはまるのだ。※

 ですから自分にとっては自己の刹那陰妄(おんもう)の一念について三千を論ずる事しか出来ません。刹那というのは作用念の事なのです。客観化して対象化した一念の事ではありません。対象面ではなく作用面の事を刹那と言っているのです。作用面とは働きつつある刹那という意味で、過去の一念ではないのです。
その作用面は陰妄のカラクリ(五陰の因縁仮和合のカラクリ)で働いて陰妄の結果を得るのです。それなのに「陰妄の一念から始まって悟りの一念を生む」というのが一念三千論なのです。


※ 「刹那陰妄の一念」「作用念」なる言葉は日蓮仏法には無い。
天台学にもはたしてあるのか。少なくとも天台六大部には存在しない。
出所不明の議論で読者を煙にまいている。いったいに一念三千論をそのように難解めかすのはなにゆえか。
 日蓮大聖人はもっと明解に示されてある。
「心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照す者なり。此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備わるなり。」p56
「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」p254
 日蓮大聖人の仏法は一念三千をややこしくして論じるのではなく、題目と折伏の信行具足の振る舞いのなかに一念三千は現実に現われるとする。※

 信を条件として陰妄の一念が仏果を生むというのですが、その果は究竟即の果ではなくて分身即までの果なのが我々なのです。それが我々の一念の正体なのです。しかし分身即であったからと言っても、当体蓮華である事には変わりはないのです。

※ なぜ分真即なる中途半端なところで留まるのか、そのような中途半端なものが、どうして当体蓮華といえるのか。
 当体蓮華とは、南無妙法蓮華経の姿ということだ。南無妙法蓮華経が分真即どまりなどという無茶苦茶な論理があるものか。※

 天台では衆生の一念を《陰妄》という窓口から捕らえ、宗祖大聖人はその同じ陰妄念を否定することなく《名字無解有信の信》という窓口で用いられました。
要するに「妙縁(御本尊)を頼りにして陰妄の一念から仏果をとりだす事が出来る」というその理論が一念三千論なのです。法の中から妙を取り出す事が出来ると言う話と一念の中から仏果を取り出す事が出来ると言う話とは全く同じ事なのです。


※ 一念というのは入れ物ではない。そこから三千を取り出すのでも、仏果を取り出すのでもない。一念そのものが三千と現われ、仏果と現われるのだ。
 石田氏は一念三千の理解ができていない。
 そもそも天台は、摩訶止観で一念三千を説き出だした際に、石田氏のような迷妄におちいらないように縷々注意を与えている。石田氏が、こんな理解で止まっているのは、摩訶止観すら読んでいないことを露呈している。
 法から妙を取り出すというのも奇妙な話だ。一念と三千、法と妙は、能所の関係では捉えられない。
 摩訶止観も読まずに語る石田氏の天台義とはそも何なのか。※

 一切法に就いて、仏法の法は必ず《関係法》(人が関係しつつある法)…しかも作用中の現念での関係法でして、決して客観法ではありません。ですからこれは西洋哲学の《実存》から実有性を削り捨てて、一時仮存という性格を与えた《実存法》です。

※ 仏法の法が客観世界と無関係なら、どうして生活のなかで効力をもつのか。
 日蓮大聖人が、どうして「六難九易」「三障四魔」を客観的問題としてとらえたのか。
 引いては依正不二の原理、国土世間の成仏はなりたたない。
 生活から遊離した仏法は、仏法に非ず、妄論という

 南無妙法蓮華経の「法」という事は、総じて見れば森羅万象というふうに客観した法則のように見えるけれども、実は違うのです。必ず仏様の作用中の一念の十界を「法」と言っているのです。しかも九界の法の事を「法」と言っているのです。もっとつきつめれば迷いの一念の事を法といっているのです。そしてこの九界の法は我々としても仏様のそれと全く同じだ・と示されているのです。こういう因位の一念を南無妙法蓮華経の「法」と示しているのです。

※  結局、石田氏は、仏法を擬似天台の観念の中に押し込んでしまっている。誰にも見えるものが見えなくなっている。
 これでは、此人行世間の日蓮仏法が理解できるわけがない。日蓮大聖人の仏法は観念の中に押し込めるのではなく、現実世間と客観世界のなかで実証を積もうとする。それが六難九易の客観性だ。※

 御本尊を信ずる因位の一念(つまり法)の中に「妙法」というまた異なった「仏果の法」が存立している・という話が南無妙法蓮華経という話なのです。妙法という話と南無妙法蓮華経という話と一念三千という話とは全く同じ事なのです。寸分も違わないのです。それを事の一念三千というのです。

※ 一念の中に妙法が存立という表現はおかしい、それでは一念が能詮になり妙法が所詮になる。そんな文証が御書のどこにあるか。
 妙法という「仏果の法」なる表現もおかしい。妙法は仏因仏果に留まらず十界三千そのものだ。※

 それでは一念三千という仕方で現出する南無妙法蓮華経とはどういう事かと言えば、中身を分解してみれば十界と十如と三世間になってきます。三世間を分解すれば五陰と衆生と国土の三世間になるのです。この中では五陰世間が一番面倒になります。
 五陰の陰の字の体は色受想行識の下の法の識法これが九界の一念(つまり体)であり、これから妙法を取り出せば仏界の一念になるという九界即仏界・仏界即九界の一念なのです。後々から振り返ってみれば九因に即した仏果の五陰という事が南無妙法蓮華経という事なのです。


※ 自分でなにを言っているのか分かっているのだろうか。一念三千が理解できていないことは先にも指摘したが、五陰についてもデタラメである。
 迷いが覆っている九界の五陰、慈悲が覆っている仏界の五陰と、「陰」の意味も分かっていない。それすら分からず「陰の字の体は法の識法」それが「九界の一念(つまり体)」などと、知ったかぶりで何の根拠もないことを述べている。
 根拠も無しに論じるから妄論と言われるのだ。※

 もっとつきつめて見れば仏界の色受想行識という事が妙という事で・南無妙法蓮華経という事で・何も変わってはいないのです。我々は何か別のものとしてみていますが同じものなのです。教主大聖人の行果の五陰の識が南無妙法蓮華経という事ですから、その現れ方・縁起の順序が色受想行という事なのです。信心する我が身の場合・信力で御本尊様(色法)から受け取った妙法がどんな作用をしてどんな現れ方をするかが(因位の我々の)五陰問題なのです。

※ 「我々は別のものとしてみている」というが、この我々とは誰のことか。
少なくとも学会員はそんなことを見ても考えてもいない。
 すべて石田氏の妄念の中にしかない。※

Q、むずかしいですね……

A、当り前です。一念三千という事は理も事も非常ににむずかしいのです。判らないのが当り前なのです。


※ 一番分かっていないのは石田氏ではないのか。※

Q、五陰というと、人間存在とか何か色受想行識が集まって出来ている、というぐらいが今までの認識でしたがその程度での理解では実は何も判っていなかったのですね。

A、五陰というのは(実存の)一念の作用なのです。一念三千の一念とは只今作用中の現念を言うのですから、仏法は客観したら絶対に判らなくなってしまうのです。


※ 仏法は主観的なものに過ぎないというのか。ならば問う。客観なしに広宣流布は捉えられるか。それとも広宣流布も主観に過ぎないのか。
 広宣流布への展開がない仏法は日蓮仏法たりうるのか。折伏弘教こそ日蓮仏法の命ではないのか。
 まず、主観・客観の定義そのものがあやしいのではないか。
 主観一辺倒なら境智の二法、境智冥合がなりたたない。御本尊は客観世界に一幅の曼荼羅として御図顕されている。寝言をいうべきでない。※

Q、三世間も自分の一念について説かれたものなのでしょうか。

A、基本は仏様の一念に寄せて衆生各自の一念を示し教えたもので、この意味での各自自分の一念について説かれたものです。五陰が正報で、こういう自分の一念の依報として衆生世間と国土世間とが説かれるのです。常に実存の依報として説かれるのであって、誰のにせよ各自自分の一念を離れた国土世間も衆生世間もありません。


※ 依正不二も分かっていない。五陰が正報で、衆生、国土が依報だというのは誰の説か。根拠は何か。こういうのを己義という。
 日寛上人の当体義抄文段(文段集 p667)には
「十界の依正とは即ち三千の諸法なり。三千の中に生・陰二千を正と為し、国土一千を依に属するが故なり。是の故に文の意は、十界三千の諸法即妙法蓮華の当体なり」とある。
 これは妙楽大師の法華玄義釈籤十四によったものだ。
「已に遮那の一体不二なるを証す(中略)三千の中生陰の二千を正と偽し、国土の一千を依に属す。依正既に一身に居す。」(法華玄義釈籤巻14 T33-919)
 これで石田教学は、富士とも天台とも関係ないことが明らかになった。※

Q、それでは衆生世間とは自分の事なのでしょうか。

A、そうではありません。我々から見て現実に存立する色々な衆生の事を言うのです。社会的とも言えます。同じ衆生(一人物)でも、私から見た衆生とあなたから見た衆生とでは十界が違って出てきますよ。たとえば佐渡御流罪中の大聖人にとって阿仏房がいたでしょう。大聖人にとって阿仏房は諸天善神の働きをするわけでしょう。しかし阿仏房本人は自分が諸天善神だとは思っていないはずです。
しかも、この阿仏房を平左衛門の方から見たら自分のやる事を妨害している訳でしょう。平左衛門から見れば阿仏房は魔になっている訳です。

 同じ阿仏房が、仏様からは天界に見え、平左衛門から見た場合には魔になってしまう訳です。同じ衆生が見る側の境涯によって諸天にも魔にもなるのです。そのように誰かの関係する一念によって同一体の依報の十界は皆違ってくるのです。衆生世間や国土世間というものは、そのように関係当事者の一念によって十界が皆違っているのです。万人に共通な客観的に固定した十界がある訳ではありません。実存法界であって、人ごとに違ってきます。そういう各人共に十界が違っている衆生世間・国土世間なのです。


※ この人は、衆生世間はおろか十界論も理解できていないのではないか。たとえば、地獄界のひとは天界から見ようと、菩薩界から見ようと、畜生界から見ようと地獄界であることは変わらない。地獄界から餓鬼界をみれば、極楽のように見えるというが、それは地獄界の境涯が低くて、上位の世界を認識する力が無いというだけで、餓鬼界が天界に変わるわけではない。
 同じ衆生が諸天善神にもなり、魔にもなるというのは十界論の話ではない。その人との関係性、縁の話にすぎない。こんなことをごっちゃにしているようでは笑われる。※

Q、衆生世間も私は縦型に見るのかな、と思っていたのですが。

A、そうではないのです。衆生世間は横なのです。横にバラ―ッといるのです。しかし、こっち(自分)が関係してくると衆生世間の十界が変化するところは縦と言えます。正報についてにせよ依報についてにせよ、十界論は自分の作用面について論ずる場合は横に並べる訳にはいきません。作用面ではこの時間にはこれ一つ、次の時間にはこれ一つと決まっているのですから、一つの時間に一個体についてバラ―ッと十界が同時に出る訳ではありません。自分についても他人についても十界の移り変わりという面から見れば誰でも縦になっているのです。本当に十界を論じようとすれば縦の論ずるしかないのです。横に論ずるのは単なる手段・方便にすぎません。その方便のままに論じたらアビダルマの「有論」のようになってしまいます。客観して科学的に見えるけれども間違いになるのです。


※ 縦だ、横だと概念規定もなく話すのは、韜晦者の常套手段だ。
 電話口で、相手の位置も確認せず、「右に曲がって、左に折れて」と道案内するより愚かなことだ。
 独りよがりな、このような議論に何の価値も無い。

以上、その一おわり ※


その二、石田氏の『一念三千論』を批判する。後半



 前半は石田氏の発言へのコメントとして展開したが、
後半は非常に専門的な述語が多く、
かつ、石田氏はご自分の発言への根拠をいっさい示していないので、
コメント形式では、冗長になってしまう。
読者の皆さまにとっても、分かりにくいと思われるので、
後半は、方法を変えて概括的に論じたいと思う。

 後半で展開されているのは十如是論である。
ここでの石田氏の所論で問題になるのは、
なにを根拠として依処として論じているのかということである。

 私たちが法を論じ、法を語るのは、知識を披露するためではない。
共通の認識に立つためである。
そのためには、立論の根拠を示していく必要がある。
誰人がそれを元にして再検証しても、同じ結論に達するならば、
初めて認識を共有することができるのである。
万人に認められるのである。

 日蓮大聖人が文証を大切にされるのも、そういうことだと思う。

 ところが石田氏は、そういう文証を示さず、一遍の御書すら示さない。
一貫して、高みから説法するというスタイルをとっている。
 ただ一箇所、文証らしきものを示しているところがあるが、
何の文とも示されていない。
こちらで、検索して『法華文句』の文だということが分かったが、
なぜ、そういうことを最初から明示しないのであろうか。

法華文句 T34-43a
「仏界とは相に非ず、不相にあらず、而して如是相と名づく。」

しかも、石田氏の引用は原文に忠実ではない。
石田氏の引用は「相に非ず不相に非ずして如是相なり」

 これでは、孫引きのそしりを免れない。
いったい石田氏は『法華文句』をじっさいに読んでいるのか。はなはだ疑問である。
 このように典拠を明確にしないことと合わせて、
石田氏の立論には、もう一つ大きな問題点がある。
それは、どうやらご自分で作られた述語が多すぎることである。

 実存十界、理仏界、事仏界、縁起体、現念、作用念、
対象我、対象念、被作用体、縦型縁起の実存法、
横型思考、縦型反省論法、業作の法理、実存宇宙
因体、不変真如の心


 さて、皆さん、こんな言葉を概念説明もなく、理解できるであろうか。
 こうして並べると、石田氏の所論がいかに虚飾にまみれているか一目瞭然となる。

 石田氏において、実存という言葉が多用されているが、もともとこの言葉は、石田氏の嫌う西洋哲学の言葉である。
 その言葉を、元来の意味から離れてかなり臭みのある使い方をしている。それならば、こういう言葉も、きちっとご自分なりの概念規定を示すべきだと思う。

 このようなありさまでは、対話が成り立たないわけである。

 よしや、これらの彼の論法を認めたとして、
なぜ、日蓮大聖人の一念三千を説明するのに、
このような天台ずれした説明をしなくてはならないのであろうか。
しかも、だれにも理解できない説明を!!

 ご本人、石田氏は次のように開き直っている。

「考えられないものは認識できないじゃないか」と言っても、認識なんか出来なくても反省自覚すれば良いのです。感応できれば良いのです。そこを本感応とか、本神通とか言うのです。要は津々と御題目を上げる事です。

 それじゃあ、はじめから、日蓮大聖人の言葉に即して、
一念三千を語ればよいではないか。
何の為に、得々と天台の理論を語ったのというのか。

 私は、故人を鞭打つために、批判を展開したのではない。
その、学問的迷彩ゆえに、いまなお若い人に影響力を持っているからである。

 私は、石田氏ほどの切れ者が、
どうして、魯の人如き末端の田舎者に批判されてしまうような
陳腐な論理しか構築できなかったのか不思議でなならない。

 現役時代に、これほど陳腐な理論を振り回していれば、
まさか戸田先生の目に止まることはなかったろうし、
聖教新聞の論説主幹がつとまるはずもない。
いったい、どこで、どう間違ったのであろうか。

 後輩に追い抜かれた屈辱感が、怨念となって、
氏を腐らせてしまったのであろうか。

 それにしても、それにしても… 私には理解できない。
今はだだ、故人のご冥福をお祈りするのみである。


その三、石田氏の『一念三千論』を批判する。追加



「未だ事了えず」

ぶり返しではないが、石田氏の冒頭の発言の中で
気になったことがある。

「一念三千に就いての御説明は、理的な部分は天台大師で尽きてしまって、
日蓮大聖人による追加的御説明は一切遊ばされていない…という事です。」


気になりながら、コメントしなかったのは、
同じようなものの言い方は、先輩方の口から、今までたくさん聞いてきたからである。

「理論的部分は天台大師で完成しているのだ」と。

しかし、こういうものの言い方に何か根拠があるのだろうか。

たしかに開目抄には次のようにある。
「されば日蓮が法華経の智解は、天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、
難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをも・いだきぬべし。」 p202

ここには一見、日蓮大聖人の智解は天台伝教に及ばないと述べられているかに見えなくもない。

また、五大部御書と天台三大部とを比較すれば、そのボリュームは圧倒的に天台が勝っているのも確かである。

しかし、いくらボリューム(量)があろうと、
質の違うものを同じ秤にかけるわけにはいかない。

また、圧倒的な慈悲と行動の人が、智解において学窓の人に劣るとも思えない。

ましてや、報恩抄 (p328)に、
 「問うて云く、天台・伝教の弘通し給わざる正法ありや。
答えて云く、有り。
求めて云く、何物ぞや。
答えて云く、三あり、末法のために仏留め置き給う。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。」

と、明言されてあれば、
「天台が理論的に完結している」とは、とてもいえないと私は思う。

あたえていっても、天台大師に究まるのは法華経文上の解釈に過ぎない。
法華経にこめられた法理の解明は天台で尽きているとは、絶対にいえないと思う。
未解明の部分はあまりにも多いのであるから。

日蓮大聖人が天台・伝教を讃歎し宣揚される理由は、
天台・伝教が法華最勝の義を明らかにして、
権実のケジメを明確にしたからだと思う。

それがなければ、後の本迹相対、種脱相対をつうじて
日蓮大聖人の法門を明かすこともできなくなる。

第三法門抄(p981)
「日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず。所詮末法の今に譲り与えしなり。」

「未だ事了えず」であってみれば、
なんで「理論的部分は天台大師で完成しているのだ」などと
寝言のようなことをいえるであろうか。

草創の時代にあっては、このような表現も、それなりに意味があったのかも知れない。
理論と実践のコントラストを際立たせ、実践を説く意味もあったであろう。
しかし、いつまでも、根拠不明な言葉を引きずっていれば、
後世よりの「知的怠慢」の誹りはまぬかれないであろう。

ましてや、石田氏のように、
「日蓮大聖人による追加的御説明は一切遊ばされていない…という事です。」

などといっていれば、笑われる。
日蓮大聖人の立場は天台学ではないわけだから、
天台宗のための追加説明などされる道理がないのである。

日蓮大聖人は、日蓮大聖人の次元から、一念三千を捉え直されたのである。
その一念三千は、天台理論で説明することは不可能なのだ。
日蓮大聖人の一念三千からみるならば、天台の一念三千は有名無実、
実がないものを、どうして完成しているなどといえるのか。

ここが性根にいっていないから、天台のボリュームに圧倒されて
天台学に恋々としてしまうのだと思う。
ちょうど、石田氏の『現代諸学と仏法』のボリュームに、
圧倒されてなびいてしまった人々のように。

くれぐれも、みかけに、たぶらかされてはならない。
見かけではなしに、その質を正面から問い詰めていける力を、
さらに培っていきたいものだと思う。

魯の人 拝 2004/12/06


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