御伝土代

大石寺六世日時著

富士宗学要集 5-1
系年 応永十年(一四〇三)九月二十二日、正本 大石寺蔵



 日蓮聖人は本地是レ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は即安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。

 八十六代後の堀川の院の御宇、貞応元年二月十六日誕生なり。

 八十七代四条天王・天福元年(みつのとのみのとし)、御年十二の春同国清澄寺へ御登山道善房の弟子なり。

 八十八代一院の御宇・建長五年(みつのとうし)三月二十八日・清澄寺道善房持仏堂の南面にて浄円房並に大衆当少々会合なして念仏無間地獄 南無妙法蓮華経と唱ひ始給ひ畢ヌ、然る間其日清澄寺を擯出せられ給ヒ畢、地頭東条左衛門景信大勢を卒して東条の松原に、待ち伏し奉つる、散々に射奉つる御身には左衛門太刀を抜切奉まつる御笠を切破ッて御頭に疵を被る、愈ての後も、疵の口四寸あり右の御額なり(文応元年きのへねとし十一月十一日さるときなり。)

 而して、後鎌倉ゑ上り最明寺の入道殿に向つて 云く念仏真言禅律等の当世御帰依の仏法は今生に災難多し国を失い後生には無間地獄に堕べき由を度々諫められ畢んぬ正嘉元年八月二十三日戌亥の刻の大地震に諸経の文を勘へ一巻の論を註し立正安国論と名づく。

 当今ノ御宇文応元年庚申、宿屋入道を使ひとして最明寺入道殿に奉る、然りと雖も、承引なきところに勘文の如く文永七年(つちのへたつ)閏正月十八日、大蒙古国より日本を攻べき牒状是あり。

 御書に云ク文永五年後ノ正月十八日、西戎蒙古国より攻むべし日本国に蝶を渡す、日蓮去る文応元年太歳(庚申)勘がうる如く立正安国論に少しも違わず符合しぬ、此書は白楽天の楽府にも越エ仏の未来記にも劣らず末代の不思議何事か之に如かん。

 文応元年七月十六日立正安国進覧の後弥々謗法の法師等怨嫉を成し讒奏讒言の間次の年弘長元年(かのとのとり)五月十二日御齢四十にして伊豆の国伊東の配流、其国の念仏等讎をなし毒害を思ひ、毒の菌を持来つて聖人に奉る、上人此を服して敢ゑて失なし、安楽行品ニ云ク毒不能害トこれを思ふべし、伊東の浦より海上より白髪の翁来リて聖人に向ひ奉り御赦免は今年にて候べしと云云。

 弘長三年(みずのとのい)二月二十二日赦免畢ンヌ。

 同年十一月廿三日亥の刻最明寺禅門死去。

 建長五年此ノ法門出で来る以後同七年(きのとう)十月十一日、二日両日の戌の時大地震動、同八年秋八月九月十月十一月十二月京鎌倉併しながら、いなすりと云ふ病気に人死ル事数を知らず、同八年十月五日康元と改む元年は丙辰なり。

 康元二年三月廿六日正嘉と改む。

 正嘉元年丁み八月二十三日戌亥の刻大地震動一時なり、大飢饉日本国中人民皆死ス、先代在らざる地震なり。

 正嘉三年三月廿三日正元と改む。

 正元二年(かのへさる)四月十日文応と改む。

 文応元年(かのえさる)七月十六日立正安国論進覧。

 文応二年(かのとのとり)二月廿日弘長と改む。

 弘長元年(かのとのとり)五月十二日聖人伊豆の国伊東配流。

 同三年(みずのとい)二月二十二日御赦免。

 弘長四年(きのへね)二月廿八日文永と改元。

 文永元年七月四日大長星前代未聞一天に弥り満つ。

 同五年(つちのえたつ)蒙古の牒状あり。聖人御申状ニ云ク。去ル正嘉元年(ひのとのみ)八月廿三日の戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之れを勘がうるに念仏集と禅宗とを御帰依有るが故に日本守護の諸大善神瞋恚を成して起す所の災なり、若し此を退治無くば他国のために此の国を破らるべき由勘文一通之を撰し正元二年(かのへさる)七月十六日御辺に付け奉り(宿屋入道)故最明寺殿に之を進覧す、其ノ後九ヶ年を経て今年大蒙古ノ国ノ牒状之レ有る由風聞ス等云云、経文の如くんば彼の国より此の国を責むべき事必定ナリ而ルニ日蓮一人彼ノ西戎ヲ調伏すべき仁に当る云云。

 同七年(かのへむま)八月廿八日大風大火、廿九日夜又大雨、廿八日未の時地震、二十九日、又地震、閏九月十六日七度す、総八月廿八日より始て十月地震、閏九月は鎌倉の人々は長時に身を動スなりけり。

 同ク八年(かのと未)聖人重て申状を上て云ク念仏真言禅律等の寺塔を焼失ひ彼の僧等が頚を切て由比の浜に懸ずは異国の責弥々強盛なるべし云云。

 極楽寺良観房行敏を代官として聖人を訴へ奉る。
状ニ云ク日蓮が造意の如きに至ては上古更に比類無く末代争て等輩有らん等云云。

 之に依て文永八年(かのとのひつじ)九月十二日御申状有り。

 承引なく竜の口にて切られ奉らんとす、江島より光物出来たり御所中様々恠あり、之に依つて切れず、其ノ夜相模の国依智と云ふ所に入らせ給ヒて軈て佐渡の国ヘ御配流畢ンヌ。日蓮聖人仰ニ云ク、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはば日本国の柱を倒すなり、百日の中ニ自界叛逆難起べし云云。御語に違はず文永九年(みずのへさる)二月十一日相模三郎殿乱を起し関東より討手を上せて謀叛人を禁めらる、三河愛知殿名越殿其外、人人数多禁らる。

 同十五日京都合戦、六波羅南殿を北殿討奉まつる、式部殿も用意の合戦なれば北殿うちしらまされ給フ、南殿は落ちて吉野十津河の奥に御在しますと云云。

 妙経勧持品ニ云ク悪口罵詈等シ刀杖を加ふ。又云ク悪世中ノ比丘ハ邪智ニテ心諂曲二又云ク数数擯出せられん云云。日蓮聖人三類の敵を受け一乗の法を弘め経文符合畢ぬ。
 御書ニ云ク、仏滅後二千二百二十余年の間・迦葉阿難等馬鳴竜樹等南岳天台妙楽伝教だにも未だ弘め給ざる法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の初に一閻浮提に弘らせ給フ日蓮先知りたり、和党ども二陣三陣続いてq葉竜樹にも勝れ天台伝教にも越よかし。

 文永八年(太歳かのとひつじ)九月十二日、御勘気を蒙る、平の左衛門の郎従少輔殿と申ス走り寄て日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して面を三度さいなみ散々と打ち散らし、又九の巻の法華経も兵者打ち散らして、或は足に踏ミ或は纏ヒ或は板敷き畳二三間に散らさぬ所もなし、大音声を以て只今日本国の柱倒るる云云。

 十二日の夜武蔵殿の御領(※日亨天注 「りょう」は領とよむべきも預の字の誤りか)にて頚を切らん為に鎌倉を出ず、中務三郎左衛門尉と申ス物かたゑ熊王と申ス童子を遣はしたりしが急ぎ出ぬ、今夜頚切へ罷るなり、此の数年が間願つる事是なり、此ノ娑婆世界にして雉と成る時は鷹に掴まれ、鼠と成る時は猫に殺され或は妻子の敵に身を失う事大地微塵恆よりも多く、法華経の御為には一度も失う事無し、去れば日蓮貧道の身と生レて父母の孝養の心足らず国の恩報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に廻向せん、其の余りを弟子檀那等に省く可しと申セし是なりと申セしかば左衛門の尉兄弟四人・馬の口に取付いて腰越竜の口に行ぬ、爰にてぞあらんずらんと思ふ処に案の如く兵物ども打りしかば、左衛門尉只今なりと泣しかば、日蓮申ス様不覚の殿かな・是程の悦をば咲ヘかし、如何に約束をば違へるぞと申せし時、江島の方より月の如く光たる物鞠の様にて辰己の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日の夜の明闇人の面も見エざらしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁計り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏まり、或は馬の上にて蹲まる物もあり。

 相模の依智とゆふ所へ入らせ給へと申ス、馬に任せて行く午の時計りに依智と申スに行キ付キぬ、本間の六郎左衛門の家に入る、九月十三夜なれば大に晴てありしに、大庭に出て月ニ向ヒ奉リて自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣法華経の文あらあら申シて、抑も今の月天は法華経の御座に列なりまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅を受け付属品にして、仏に頂きを摩られまいらせて如世尊敕当具奉行と誓状を立し人ぞかし、仏前の誓ひは日蓮なくば虚しくてこそおわすべけれ、今斯る事出で来たれば急ぎ悦ヒをなして法華経の行者にも代わり仏勅をも遂げさせ給ハん、いかにいまに験しのなきは不思議に候ものかな、いかなる事も国に無くしては鎌倉へも帰るとも思わず、験こそなくとも嬉顔に澄渡らせ給フはいかに、大集経には日月も明を現ぜずと説れ、仁王経には日月度を失ひと説れ、最勝王経には三十三天各生瞋恨とこそ見へたるに、いかに月天月天と責しかば其験しにや天より明静の如くなる星落て前の梅の木の枝にあたりしかば、武士ども皆?より下りて或ひは大庭に平臥し或は家の後に逃ぬ、やがて即天かき曇り大風吹きて江島の鳴とて空響事大なる鼓を打が如し。

 佐渡の島に放され北国の雪の下に埋まれ、北山の嶽の山おろしに命も扶すくべしとも覚へず、年来の同朋にも捨てられ故郷へ帰る事は大海の底の千引の石の思にして流石に凡夫なれば古の人々も恋しく、弘長には伊豆の国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及び留難重畳せり、仏法中怨の誡責我早々免る、然れば今山林に路を入る々事を進みおもひしに、人人語る様々なりしかども、存スる旨あるによりて当国当山に入リて已に七年の春ををくる。

 報恩抄ニ云ク、文永八年佐渡国ヘ行ク、同ク十一念(きのへいぬ)二月十四日に赦されて、同ク三月廿六日鎌倉ゑ入ル、同四月八日平の金吾に見参、今蒙古一定寄べしト申シぬ。

 同五月十二日鎌倉を出で此の山に入ル是偏へに父母の恩三宝の怨国恩を報ぜんが為に身を破り命を捨ツとも破れずさでこそ候へ。

 文永十一年(きのへいぬ)十月蒙古国寄す。

 同十二年(きのとい)正月下旬蒙古国人鎌倉へ下ル後又五人下ル。

 同九月六日蒙古人九人竜の口に於て頚斬れ畢んぬ。

 建治元年(きのとい)六月一日大日蝕、文永十二年三月廿七日あらたむ。

 弘安元年(つちのへとら)建治四年二月二十九日改元。

 弘安五年(みつのへうま)十月十三日辰の時聖人御遷化、此ノ時に大地震動す、此ノ時鎌倉万民一同に日蓮の御房他界と云云、ふしぎふしぎ、一閻浮提之内、仏の御言を扶けたる人唯日蓮一人也。

 撰時抄下ニ云ク外典ニ云ク未萌ヲ知ルヲ是ヲ聖人と云う内典に云く三世を知るを聖人と云う予に三どの高名あり、一には去ル文応元年太歳かのえさる七月十六日立正安国論を故最明寺入道につげ奉リて、宿屋入道に向テ云ク、禅宗念仏宗をうしなひ給フべしと申させ給へ、この事を御用ひなきならばこの一門より事起こつて他国に責められさせ給フべしこれ一。

 二には去ル文永八年九月十二日さるとき左衛門尉ニ向テ云ク、日蓮は日本国の棟梁なり、予を失なはゞ日本国の柱を倒すなり。

 只今自界叛逆難とて同士打して他国侵逼難とてこの国の人々他国に打殺さるゝのみならず、多くは生取にせらるゝべし、建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏殿、長楽寺等の念仏者禅宗等が寺塔を急ぎ焼払つて彼等が頚を由比の浜にて悉く切べし、然ラずは日本国は必ズ亡ぶべきなりと申シけり。

 第三に文永十一年四月八日平ノ左衛門の尉に語りて云ク、王地に、うまれなば身は従ひ奉まつるべからず、念仏の無間地獄禅の天まの所為なる事は疑がひなし、ことに真言宗がこの国の大なる禍いにて候なり、大蒙古国を調伏せん事真言師等に仰せ付べからず、若仰付らば急いで此国亡ぶべしと申せしかば、頼綱問テ云ク何つの頃一定寄候べきや、予が語経文にはいづれの日とは見ゑ候はねども天の御気色怒り少なからず急に見ゑて候、今年は過し候はじと語申シたりき、此ノ三の大事は日蓮が申シたるにはあらず、只偏へに釈迦如来の御使い我カ身に入リかわらせ給ヒけるこそ、わが身ながら悦ヒ身にあまれり、法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり、経ニ云ク所謂諸法如是相と申スは何事ぞ、十如是のはじめの如是相ガ第一の大事にて候へば仏は世にいで給フ、智人起りを知る蛇は自から蛇を知るとはこれなり。

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