昔のブログ「魯ひとの云く…」から
魯ひと、中原(ちゅうげん)にありては異邦人、田舎者。
自らを知らずして境界(さかい)に哭する愚か者。
時の流れにひねもす針なき釣糸をたれ、何をし思う。
魯ひとの云く…
42 梵文法華経の十如是
【2006/10/10】 ちょっと古い本であるが本田義英著『仏典の内相と外相』を入手した。昭和九年に弘文堂書房というところから出た本である。内容はというと、法華経の十如是が梵文にはなく、鳩摩羅什が『大智度論』にもとづいて付加したものであるという学説を最初に唱えた本である。
41 「二つの箱の謎」
【2006/08/30】 ミヒャエル・エンデというと『果てしない物語』や『モモ』でご存じの方も多いと思います。『果てしのない物語』は映画化もされましたね。構成はファンタジーの部類に入ると思いますが、どれも人生のことをいろいろと考えさせてくれる名作ぞろいです。この場をお借りして、ちょっとこの『サーカス物語』をご紹介したいと思います。
40 聖地主義について
【2006/07/29】 『日蓮自伝考』の「結びの章」で「日蓮が旅の道中に逝ったということは、結果として、いわゆる特定の場所を神聖とする聖地主義を排したということである。到達点ではなく道中にこそ人生の意味があるということであろう。」 p384 と述べた。
39 二箇相承について …正統論議を越えて
【2006/05/24】 富士門徒ないし創価学会が日蓮の正統であるというような議論は、外部の人にとっては、なんら説得力のある話ではない。それはあくまで信仰者の自己規定にとどまることである。
38 御書の真偽論について
【2006/05/23】 日蓮の御書と呼ばれているものの中には、日蓮のものにあらざる偽書が含まれていることは、今日否定しようも無い事実である。しかし。私は信仰者や学会員が、『御書全集』に載せられている文献を、すべて日蓮の真撰の御書として、信仰の中で読むことを批判し、揶揄する気にはなれない。
37 「日蓮阿闍梨」再考
【2006/03/04】 『日蓮伝再考』において、私は蓮長から日蓮への改名説を批判して、日蓮の名はむしろ阿闍梨号に由来するのではないかとの説を提示した。(同書 p120)この私の説への批判として、日蓮の弟子への名づけは、諱に日号として「日」字を分与し、阿闍梨号は別の名を授与しているから、日蓮の名は諱とすべきではないかという説が出ている。
36 「節分談義」
【2006/02/05】 去る二月三日は節分。あちこちで豆まき風景が見られた。この「節分の豆まき」というと、もうずいぶん大昔になってしまったが、日達法主の時代に、日達法主が節分について説法しこたとがある。当時、その話を聞いて、深い失望感を懐いた。
35 風益求羅(ふうやくぐら)
【2006/01/24】 このほど篆刻で「風益求羅」(ふうやくぐら)の朱印をつくって頂いた。「風益求羅」とは『摩訶止観』に出てくる言葉で、日蓮も御書に「風の求羅を益すが如きのみ」(御書 p916)と引用している。もちろん、この求羅は「からぐら」の略記で正記には「迦羅求羅」と書く。
34 我が心を震撼せしめよ
【2006/01/24】 昨日(一月十七日)は神戸淡路の大震災から十一年目であった。私は、毎年この日、この時刻はいつも起きている。どうしても眼がさえて眠れないのだ。といっても、大阪の我が家はそんなに被害を受けたわけではない。
32 身延離山の伝承と断絶
【2006/01/09】 大石寺六世日時の作になる『三師御伝土代』(伝四世日道)のうち「日興上人御伝草案」(富要5-8)の身延離山の記事は身延離山の史実といささか違うようである。
31 民俗学の視点から覗きみれば
【2006/01/06】 第三弾『日蓮弟子考』の執筆のからみもあって、日蓮滅後の弟子たちの動きを追っているが、最近気が付いたことがある。それは、民俗学、民俗宗教学がテーマとし、課題としてきた事例が、そこに非常に多いことである。これは、日蓮滅後、その信仰観が民俗的なものと急速に同化していったことを意味しているのではないかと思われる。
30 『東征伝絵巻』について
【2006/01/04】 ちょっと興味深い史料がある。『東征伝絵巻』(重要文化財)という。淡海三船(おうみのみふね)の著『唐大和上東征伝』を絵巻物にしたもので、鑑真和尚の日本来訪の記録(物語)である。これを作らせたのが、他でもない極楽寺良観なのである。そしてこれを作ったのも鎌倉の極楽寺においてという。
28 紫陽花考
【2005/12/18】 私はあじさいの花が好きで、この花の名をよく利用する。一般にも、「団結」とかのシンボルとして使われる場合が多い。私の町の「区の花」もあじさいだ。「小さな花が寄り集まって大きな花に…」ということだろう。しかし、私の思い入れは、それとは逆だ。
05 うつ病は「身の病」
【2004/11/07】 うつ病についての相談をよく受ける。この問題は、私にとっても他人事ではありえず、また、多くの人にとっても同様ではないかと思う。ただ、この問題を考える時に、天台のいわゆる「病の六因説」はそのまま有効なのかというと私は、はなはだ疑問に思っている。少なくとも、うつ病は「業病」ではありえない。また、一口に「心の病」と言うけれど、御書で説かれている「心の病」とは、正邪の判断が出来なくなることを指している。
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