チェコの宗教改革--ヤン・フスに始まる歴史と理念---無名
中世のヤン・フスから始まる宗教改革の歴史は、とても興味深い。一人の人間が唱えた理念が、時代の変遷、社会の変化を越えて、担い手たちの思惑を経て、様々に展開されていった。 【第1章 ボヘミアのフス】 【第2章 フス戦争、ターボル派】 【第3章 フス運動の現実路線】 【第4章 チェコ兄弟教団】 【第5章 コメンスキー】 【第6章 終わりに】 【参考文献・資料】【第1章 ボヘミアのフス】◆宗教界の腐敗と堕落今から600年ほど前のヨーロッパ。大きく広まって絶大な権力を誇っていたキリスト教の教会は、大きく腐敗していました。 宗教的権威を手にした者は、世俗的権力も欲するようになり、それがローマ教会内部での権力抗争へとつながり、キリスト教会を統合する教皇が二人も並立する「教会大分裂」を引き起こします。そして聖職者たちは財力を手にして堕落していきます。友愛を説いたキリスト教は、その教えを奉じる者たちによって、教えの本義から大きく逸脱をしていたのです。 その余波は、当時、神聖ローマ帝国の首都であったチェコのプラハへも及びます。神聖ローマ皇帝となったカレル1世の治世により空前の繁栄を遂げたプラハにおいても、やはり聖職者たちはその立場を利用し、富を貪ります。特に高位の聖職者たちは大いに富みましたが、それ以外の聖職者たちは困窮し、また、富を独占された貴族や市民たちは不満を抱き、社会全体に矛盾が満ち満ちていました。 ◆宗教改革の思想の登場この風潮に異を唱える人がいなかったわけではありません。しかし、そんな人々はほとんどが教会権力により弾圧され、処刑されました。 そんな状況に、ますます市民たちは矛盾を感じていました。それは乾燥しつくした草原のようなもので、少しの火種が投げ込まれれば大きく燃え広がる可能性を秘めていました。 この中で、教会批判への大きな役割を担ったのがプラハ大学とその学者たちでした。特に大きく影響を与えたのが、プラハ大学にもたらされたイギリス・オックスフォード大学の神学者ジョン・ウィクリフの宗教改革の思想です。 ウィクリフの思想は、単純明快でした。「信仰においての唯一の権威は聖書であり、聖書に基づいて証明できない信仰上の事柄は全て人間の作ったものであるから拒否して構わない。教皇の権威や教会の伝承も同じである」というものです。 この思想がプラハ大学の若い学者たちに大きな影響を与え、プラハ大学を中心に広まっていきました。いわば、大学が後に200年続くフス運動の揺籃となったのです。 舞台は整いました。いよいよフスの登場です。 ◆フスの登場ヤン・フス。ボヘミア南部の村フシネツ村の貧しい家に生れた彼は、苦学してプラハ大学に学び、1409年にはプラハ大学の総長になるなど、リーダー的存在となっていきました。1402年にプラハの中心市街にあるベツレヘム礼拝堂の説教師にもなります。ベツレヘム礼拝堂はいわば改革派の拠点でした。改革派の説教師たちの話しは極めて大きな影響力があり、多くの市民たちがその信仰や生活を一変させていきました。後にフス派の将軍として反宗教改革の十字軍を打ち破ったジシュカ(次章で詳しく述べます)などもこのころにフスの信奉者となりました。フスは説教師として、何を人々に説いたのでしょうか。ポイントを整理すると、以下のようになります。 ・教皇制と教会の階層制度は神によるものではなくてこの世の人間的な起源だとして否定 ・真の教会の唯一の長はキリストであり、信仰における唯一の権威は福音書である ・聖書と共に理性と良心を真実の判断の基準とし、理性に反する命令を下す権威には抵抗すべきである ・現在の教会の堕落の原因は過剰な富であり、原始教会の清貧に立ち返るべき ・真の教会は救済を予定された人々の目に見えない共同体であり、そこには聖職者と俗人という区別はなく、不当な破門によってそこから追放されることもない フスは、このような主張をその雄弁な説教で人々に訴えました。 真実を求めよ 真実に聴けよ 真実を愛せよ 真実を語れよ 真実につけよ 真実を守れよ 死に至るまで 彼の残した言葉です。彼はこの言葉のままに、いかなる迫害があろうと不屈の信念で真実を語りぬきました。 その彼の姿に触れて多くの人が触発を受け、教会のくびきから解放されていきました。 ◆フスへの弾圧このようなプラハの宗教改革の動きを、時のローマ教会が容認するはずがありません。彼らは様々な形で弾圧を加え始めました。プラハにおいてウィクリフの教義の信奉と私的な場所での説教を禁じる勅書が発行され、ウィクリフの著作は没収され焼却される。さらにフスとその仲間たちはプラハの教会から破門を宣告されます。しかし、フス個人に対して好感をもっているチェコの人も少なくなく、時のチェコの王妃もフスを聴聞神父としていたり、当初はチェコの国自体は堕落していた教会権力よりもフス派に傾いていました。 しかし、1412年、十字軍の戦費調達の名目で、贖宥状(免罪符)の販売がチェコ王の承認のもとプラハでも開始されると、フスは「このような戦いはキリストの愛に背く行為であり、贖宥状は売られるべきではない」として激しく批判します。これに対しローマ教皇庁はついにフスを破門し、プラハにおける一切の宗教儀式を行うことを禁止します。 そして、贖宥状の販売だけでなく、十字軍そのものをも否定したフスの主張は、十字軍への参加を決めていたチェコ王の不興をかい、結局、フスはプラハにおれなくなり、地方へと去っていきます。 ◆フスの火刑折りしも、ヨーロッパ全土においては「教会大分裂」の状態を打開し、統一を図ろうという動きが出てきており、コンスタンツ公会議が開かれます。チェコの宗教紛争も話題に登り、その当事者としてフスも公会議に招かれました。真実を述べる絶好のチャンスととらえたフスは、周囲の人々の制止にも関わらず、コンスタンツへと赴きます。異端として殺されることを覚悟してのことです。 案の定、コンスタンツに到着後、身の安全を保証されていたにも関わらずに監禁され、審問を受けます。 審問の場でもフスは怯まず、「真実以外の何者にも従わない」として、妥協しません。従順を勧めるものに対しても、フスは答えます。 「現在の自分にとっては、一時の罰を免れて永遠の罰を受けることになるよりも、死ぬほうが良いことなのです。」 結局、フスは異端と宣告されて聖職を剥奪され、1415年に火刑に処せられました。フスは決然として死に赴いたと言われています。 彼が公会議という全ヨーロッパが注目している場へ死を覚悟して赴き、そこで真実を叫び処刑されたことにより、チェコという一都市の出来事であった宗教改革の運動が、全ヨーロッパをも巻き込む動きにになっていきました。 後にドイツで宗教改革の狼煙をあげたマルチン・ルターは述べています。 「我々が信奉する福音は、フスとイエロニーム(フスと同時期、同じ理由で火刑に処された人)が血をもって購ったものである。」 プラハ市中心部の旧市街広場。その真中にヤン・フスの銅像があります。市のシンボルともいえる広場に、名を成した政治家でも、軍功をあげた将軍でもなく、真実のために殉教した人の像がある。私はここに、チェコという国と民族の奥深さを感じます。 チェコの人々のルーツ、チェコ民族のアイデンティティは、実にフスの殉教から始まった。フスの死は、単なる一人の人間の死に終わらなかったのです。彼が生命を賭して遺した真実の言葉は、彼以後の後代の人々へと受け継がれていきます。 旧市街広場のフス像の台座には、次のことばが記されています。 「真実を愛し、皆に望みなさい」 【第2章 フス戦争、ターボル派】◆フス運動の開始フスの死後、フスの信奉者たちは彼の遺志を継ぎ、立ち上がります。フスの示した「キリストに返れ」「聖書の福音にもとづけ」との理想、キリスト教の原点である友愛の思想を、現実社会で実現させようとしたので、彼らをフス派と呼びます。 しかし、フス派の中に微妙な温度差がありました。 もともとフスに共鳴した貴族や富裕な市民たちは、高位の聖職者たちが富を独占していたことに不満を抱いていたことから、フスの思想へと傾いていったという経緯がありました。 それに対し、貧困層にある人々は、何の利害もなくフスの真実の言葉に感動し、共感し、フスによって大きく人生を変えられていったのです。 ここから、運動の進め方、さらには目指すものに、微妙なずれが生じてきます。フス運動はその開始の時から、矛盾を孕んでいたのです。 ◆穏健派と二種聖餐前者、貴族や富者たちは、大きな変化を望まず、現実的な路線を考えます。穏健的な行動を望んだのです。便宜上、ここでかれらを穏健派と呼びます。当時、宗教的儀式を行う際、聖職者に対しては「パンと葡萄酒」により執り行わせていたのですが、聖職者以外の俗人に対しては「パン」のみでしか行われていなかった。聖職者と俗人を差別していたわけです。フス派はここに着目しました。俗人に対してもこの「パンと葡萄酒」による儀式を行わせようとします。これを「二種聖餐」といいます。この「二種聖餐」の考え方は、貴族や富者、貧民を問わず、フス派の人々を大きく魅了します。フス派のシンボルマークとして「聖杯」が掲げられたのも、ここに起因します。そして、穏健派たちはこのカトリックの教義では異端とされていた「二種聖餐」を認めさせることをフス派の運動の目指すものとしたのです。そのため、穏健派はカトリック側とのある種の妥協も必要と考えます。 ◆急進派これに対し、フスの示した友愛の思想をこの地上に実現させることを目指した人々もいました。彼らは「二種聖餐」も一つの理想としましたが、あくまでもそれは一つの通過点に過ぎず、それよりもフスの思想を全ヨーロッパに広げ、キリスト教圏そのものの大きな変革を目指しました。便宜上、彼らを急進派と呼びます。フス運動の開始当初、その主導権を握ったのは、急進派でした。 カトリック側から見た時、フス派の思想はあまりに危険でした。彼らの思想が広まってしまえば、教会権力は失墜し、ひいてはカトリックの権威そのものも失われてしまう。その為、徹底した弾圧を加えようとします。五度に及ぶ各国からなる十字軍を組織し、チェコを攻めたのも、その理由からです。フス派としてはその脅威から身を守るため、必然的に急進派を中心として、自衛の為の軍隊を組織します。こうしてフス戦争が勃発したのです。 急進派の中心的な存在だったのが、その拠点とした都市の名から名づけられたターボル派でした。そしてターボル派の指導者となったのがヤン・ジシュカでした。彼はもともと宮廷の使用人でしたが、フスの説教(スピーチ)を聴き、フス派となりフスの側近くに仕えるようになりました、フスによって人生を変えられた者の一人です。ジシュカはその天才的な軍事の才能によりターボル派の軍隊を徹底的に鍛え上げ、無敵の軍隊へと仕上げます。彼らは好んで賛美歌「汝ら神の戦士なり」を歌い自分たちを鼓舞します。そして実際、ターボル派を中心とした急進派は強かった。五度に及ぶ十字軍をことごとく粉砕したのです。中でも、4度目の十字軍との対峙の際、ターボル派は「汝ら神の戦士なり」を歌い上げ、その迫力に圧倒された十字軍側は恐れおののき、戦わずして逃げ去ったといいます。 ◆ターボル派ここで、ターボル派について詳述してみましょう。フスの死後、フスの信奉者の一部が、ボヘミア南部のターボルに集まりつつありました。彼らはそこに、神の下での平等≠ネ世界を実現しようとします。出身や身分に関係なく、あらゆる人々が平等に生きられる共同体を形成しようとしました。そこでは農奴制を廃止し、一種の共産主義的共同体を実現させたのです。 ターボル派の宣言に、次のようにあります。 「地上には王も、主君も、家来もいなくなるだろう。そして租税や関税はすべて廃止され、なんぴとも他人から何かを強要されるようなことはなくなるだろう。けだし、万人はひとしく兄弟姉妹だからである。ターボルの町では、私のもの、君のものということがなく、すべては共有であるように、つねにすべてのものがすべての人の共有であるべきで、なんぴとも私有財産をもつべきではない。そうしたものをもつものは罪死に値する。」 そしてこれに加え、ターボル派は民衆の教育には極めて熱心だった。後に教皇となるカトリック側の聖職者は、当時のターボルを訪れた印象を次のように述べています。 「イタリアの司祭たちは恥じるがよい。彼らのうちだれ一人として、一度も新約聖書を読んだことのないのは確かだ。ところがターボル派のもとでは、旧約聖書と新約聖書に詳しくないような女っ子は一人もいまい。」 「あの悪賢い輩にはたった一つだけ良いところがある。教育好きなところだ。」 このように、一つのユートピアを築きあげたターボル派だったが、時の経過とともに組織が作られていくにつれ、徐々に位階制が出来、農奴制も復活してしまう。あらゆる組織は次第に組織自体の硬直と没落に陥っていくが、ターボル派とて例外ではなかったのです。 ◆カトリックの策略折りしも、カトリック側は五度の十字軍が打ち破られたことから、武力による制圧から外交的戦略による制圧へと戦術を変えてきます。カトリック側は、フス派内部の急進派と穏健派の間に対立があるのを見て取り、巧みに穏健派と交渉し、フス派内部に亀裂が入るように仕向けてきた。いくら弾圧しても全く倒れないから、うまく妥協を引き出して取り込みにかかったのです。◆ターボル派の消滅そして、悲劇的な結末となります。ボヘミア中部のリパニという町でターボル派と穏健派勢力が武力衝突したのです。結果は、ターボル派の惨敗でした。穏健派の巧妙な離間工作によりターボル派内部に裏切り者が出たのです。 1万人以上のターボル派兵士が殺され、ジシュカの死後、ターボル派のリーダーであったプロコフも戦死しました。 フスの火刑から19年後、友愛を説いたフスにより始まったフス運動は、内部分裂による同胞同士の殺戮という悲劇を迎えたのです。 この戦争を期にターボル派を中心とした急進派は一掃されます。代わって運動の主導権を握ったのはロキツァナを中心とする穏健派でした。 ターボル派による熱狂から、カトリックとの妥協の上にフスの示した理想を実現しようという「現実路線」へと、フス運動は大きく傾いていったのです。 【第3章 フス運動の現実路線】◆妥協の産物「協約」ターボル派を中心とする急進派を1434年のリパニの戦いで打ち破り、フス運動の主導権を握った穏健派は、打ち続く戦争による混乱を収めるために、急ぎ対立していたカトリックとの和平を模索します。「リパニ」から2年後の1436年、遂にカトリックとの間で「協約(コンパクタータ)」が結ばれます。しかし、この「協約」は、フス派本来の主張から言えば、妥協以外の何者でもなかった。文面上は多くのものを勝ち取ったように見られたものの、それには広範な制限が附されており、実際のところ有効となったのは「二種聖餐(パンと聖杯による儀式。聖職者以外にはパンのみの儀式しか許されておらず、フス派は聖俗平等という理念を、パンと聖杯の両方による儀式を認めさせることで実現しようとします)」の聖杯使用の権利のみ、しかもこれも制限付きでした。 しかし、この「協約」により、形式上、欧のキリスト教世界に二種聖餐を許す世界と許さない世界、つまり、聖と俗の差別を設ける世界と設けない世界の、全く相容れない二種の世界が存在することになります。「異端」とされていた考えを自由に信奉できるようになったのです。 フス運動は一定の成果を上げました。しかし、これで終わったわけではなかった。 カトリック側は「協約」による妥協は一時的な産物であり、いずれはチェコを再カトリック化すべき、と考えていました。 かたやフス派においては、「協約」による妥協に幻滅し、運動の中枢から離れていく者も出てくるなど、必ずしも統一されていたわけではなかった。 つまり、「協約」による和平は一時的なものであったのです。 このような状況の中で、フス派は団結する必要がありました。その領袖として担ぎ出されたのが、フス派の貴族イジーです。 ◆イジーによる現実路線の推進「協約」成立から22年後の1958年、イジーはチェコ国王に選ばれ、即位します。イジーは、フスの思想の現実世界での展開を模索し、ヨーロッパ全体における2つの信仰の共存と相互寛容に基づき、チェコの基本理念を作ります。ヨーロッパの安定のために、軍事力による解決よりも、広範な国際平和連合と国際法廷の設立を立案し、その実現のために積極的な外交活動を行います。カトリックの組織する反宗教改革十字軍に対抗し、チェコという国を守るために考えられたものですが、今日でいう国際連合や欧共同体のはしりとも言えるこの考えは注目に値します。そしてこのビジョンは、後世のコメンスキー(コメニウス)の唱えた思想の中でも見られるものです。しかし、イジーの懸命なる努力にも関わらず、彼の描いたビジョンは、カトリック教皇庁の妨害により、実現できませんでした。それどころか、時の教皇は1462年に「協約」の破棄を通告、1466年にはイジーを破門にし、チェコに対する十字軍を企てます。この戦いの決着がつく前に、イジーは死に、フス派は苦境に立たされます。 ◆大衆から遊離する運動チェコでは打ち続く戦争などにより、農村人口が激減していました。国力の増強と、リパニ以後主導権を握った穏健派の中心である貴族たちが自分たちの収入を増やすため、農民の移住を制限し、土地に縛りつけ、賦役を増やすことを決議しました。農民を犠牲にし、経済の建て直しを図ったのです。これに対し、農民たちの不満がつのり、各地で反乱が起き始めます。 大衆の心をつかみ、大衆が運動の担い手であった運動の初期から、貴族を中心とする穏健派が主導権を握ると、運動は次第に大衆から遊離し、大衆の犠牲の上に運動が展開されるようになったのです。 結果的に、この大衆遊離によりフス運動はその基盤が大きく揺らぎ、大衆の支持を失ったフス運動は、後年、カトリック側の攻勢にいとも簡単に敗北、フス派の滅亡へとつながっていきます。 「協約」による妥協、そして運動の担い手と大衆の遊離。 それによりフスの思想は形骸化したのでしょうか。 もうその理念は失われてしまったのでしょうか。 そうではありません。 ターボル派を中心とする急進派による武力抗争に異を唱えた人々、「協約」による妥協に大きな幻滅を感じた人々、彼らが本来のフスの精神に立ち返ることを模索し始めます。 政治的な大きな動きの水面下で、そうした人々が徐々に集まり、フス運動は大きな展開を見せるのです。 それが、かのロシアの文豪トルストイも絶賛したという「チェコ兄弟教団」です。 【第4章 チェコ兄弟教団】◆ヘルチツキーの非暴力主義チェコの宗教改革には、その運動の当初から一切の暴力を否定し、悪に対しては力で抵抗してはならないとする非暴力主義・無抵抗主義の思想がありました。しかし、カトリック勢力を中心とした十字軍の攻勢に対抗するために、結果的に運動に参画した者の大部分が武器をとり、“神の戦士”となっていったのです。しかし、その戦乱の中で、暴力そのものに異を唱えフスの思想の本来のあり方に返ろうと主張した者がいました。その中にペトル・ヘルチツキーがいました。ターボル派たちによる戦乱とその惨状を目にし、いかなる場合においても暴力を行使してはならないとしたその主張は、軍隊化していた当時のフス運動の中にあってはいささか過激だと見られていたようです。 ◆新たな展開、“兄弟”の形成へリパニの戦い後、フス派内部で急進派が一掃されてから、ヘルチツキーを中心とする運動は新たな局面を迎えます。徹底して弾圧された急進派の残党、さらに穏健派による“協約”を信仰の後退としてフス運動に幻滅した人々が、新たな理想を求めてヘルチツキーの下に集まりつつありました。1456年頃、フスの火刑から約50年後、ヘルチツキーの死後に彼の後を継いだジェホシュを中心とした人々が、東ボヘミアの地に移り住み最初の共同体を創ります。彼らは聖書とフスの精神に従い、お互いを“兄弟” “姉妹”と呼び合ったといいます。これがフスの精神がターボル派の熱狂を経て、更にヘルチツキーの急進性を乗り越え、チェコ精神史上、否、人類の歴史においても特筆大書すべき“チェコ兄弟教団”へと結実していきます。 ◆弾圧される“兄弟”しかし、この教団はその創立当初から苛烈な弾圧を受けることとなります。マサリクの言葉を借りると、「彼らほど迫害を受けてきた教団はおそらく他にあるまい」。ようやく“協約”による安定を得た穏健派たちにとって、“兄弟”の急進性は、その安定を脅かす恐れがありました。ターボル派の残党が多数流れこんでいたこともその原因かもしれません。だが、何よりも当時主導権を握っていた穏健派は、チェコにおいて異端的な存在を排除していることをカトリック側に示しておく必要がありました。いうなれば、“兄弟”はチェコの安定のためのスケープゴートにされたのです。 実際、“兄弟”には、「蝿の形をした悪魔を口に入れている」とか「破廉恥な夜の集会を開いている」とか、かなりナンセンスで事実無根の中傷が浴びせられます。“兄弟” に入団すると、このような非難を真っ向から受けることになり、結果、仕事や財産を失うことにも見舞われることになります。それでも“兄弟”たちは迫害に屈するどころか、ますます結束を強め、自分たちの信仰をより強く確信していきます。また、それにより更に多くの信者が“兄弟”に加わっていくことになりました。“兄弟”にじかに触れ合う中で、彼らの友愛に満ちた姿に逆に共感し、むしろ好意を抱き保護する領主たちも現れてくるのです。 ◆初期の教団の特徴“兄弟”はヘルチツキーとジェホシュが指導的立場にあったその初期において、以下のような特徴がありました。まず第一に、社会とのかかわりを極端なまでに拒否。急進的に政治への関わりを持っていたターボル派が失敗した轍を踏むまいとしたのかもしれません。いうなればターボル派のアンチテーゼとして成立していったのです。 第二に、“兄弟”では教理よりもキリスト教的な生活実践を重んじた。 第三に、聖書を唯一の権威と見なして聖書に根拠を持たない伝承を斥けた。 第四に、これがもっとも注目すべき点ですが、民衆教育と学校を重視します。教団の発展につれてますます教育重視の傾向が強まる。学問を重んじ、各地に学校を創り、自分たちの子弟を外国へ留学させたりした。また、自分たちの印刷所を多く設立し、母国語の聖書を出版するなど膨大な量の書籍を世に出していった。 ◆非合法的立場に立たされる“兄弟”こうして活動を進めていた“兄弟”でしたが、彼らを取り巻く状況は決して生易しいものではありませんでした。“兄弟”の共同体が形成されてから約50年後の1508年、実質的に“兄弟”を標的にした“聖ヤコブ条例”が発せられ、この条例により以後の100年間、“兄弟”は当時のチェコ内部で非合法的立場に立たされて、弾圧を受け、多いに苦しめられることになります。 ◆現実社会への接近1528年、ヤン・アウグスタが“兄弟”の指導者になると、“兄弟”は世俗社会へと接近し、創設以来の閉鎖性が徐々に打ち破られていきます。特筆すべきは当時すでに宗教改革の狼煙をあげて活動を始めていたマルチン・ルターとの接触を開始したことと、社会に“兄弟”の掲げる使命を伝えるために自分たちの学生を外国へ送るなど、積極的な活動を始めたことです。 ◆教育と教養を重視する教団へ1557年に指導的立場にたったブラホスラフは、はっきりと教育と教養を重視し言語能力を重んじて言語を洗練しようとする方向へと教団を転回していきます。ブラホスラフの時代において、“兄弟”は閉鎖的な一セクトの立場から、チェコ民族の文化性という点における指導的立場へとその存在意義を高めていった。 ブラホスラフの死後に完成した聖書のチェコ語訳「クラリツェの聖書」はその一大成果といえます。チェコ文語の金字塔とまで称えられたこの訳は、ルター派の教育でも用いられ、敵対するイエズス会もその見事さを認めたといいます。そしてこの訳は時代の下った19世紀末のチェコ民族復興運動の原動力となっていくことになるのです。 ◆“兄弟”の公認チェコ国王にマクシミリアンが即位すると、チェコ内部で活動していたプロテスタント派は彼に多くを期待します。プロテスタント派は団結してマクシミリアンに対し、信教の自由を認めさせる運動を展開する。“兄弟”もこの運動に参画し、やがてその運動は“チェコ人の宗教告白”としてマクシミリアンへ提出される。マクシミリアンの後に即位したルドルフに対しても、プロテスタント派は運動を推し進め、1609年にルドルフは遂に“チェコ人の宗教告白”を認めます。ここにチェコにおいて明確に信教の自由が公式に認められたのです。当時のチェコではカトリックの信者は人口の10%の少数派でしたが、プロテスタント側は彼らに対し暴力的に振舞うことはありませんでした。宗教の自由を敵対していた側にも適用したのです。この自由な雰囲気に引き寄せされるように、外国から多くの文化人たちがプラハに集まり、プラハに絢爛たる文化の華が咲き誇ることになります。 フス運動が実を結びつつある中、“兄弟”はプラハのベツレヘム礼拝堂での礼拝を認められます。これは“兄弟”がフスの後継者であることが正式に認められたことを示すものでした。障害を取り除かれ、その活動を合法的に認められた“兄弟”は、更に積極的に活動していきます。 この状況下において、“兄弟”内部で偉大な人物が育っていました。後に“兄弟”の指導者となり、そればかりでなく、近代教育の父として称えられるヤン・アーモス・コメンスキー(ラテン語名コメニウス)です。コメンスキーによって“兄弟”はもとより、フスの宗教改革から始まった運動は頂点を迎えることになります。(コメンスキーについては、次章で詳しく述べます。) ◆“兄弟”の消滅しかし、その繁栄も長くは続かなかった。チェコの再カトリック化を目論むフェルディナント2世がチェコ国王に即位すると、理不尽なプロテスタント勢力への弾圧が始まり、1618年、ついにカトリック勢力とプロテスタント勢力の間で戦争が勃発します。いわゆる30年戦争の始まりです。チェコでの戦況は、プロテスタント側の足並みが乱れていたこと、そしてプロテスタント勢力が農民たちを味方につけられなかったことが原因となり、カトリック側に有利に動きます。 そして、1620年、プラハ郊外の白山(ビーラーホラ)での戦闘でプロテスタント側が大敗を喫した後、カトリック側は凄まじい弾圧をプロテスタント側に加え、チェコよりプロテスタントを一掃します。大規模な裁判を実施し、プロテスタントの指導者27人を斬首(うち7人が“兄弟”)、領土の没収とプロテスタント系住民の追放、チェコ内部においてはカトリック以外の信仰は禁じられました。プロテスタント系住民は信仰を捨てるか、国外に亡命するかしかありませんでした。その結果、大量の住民が亡命しチェコでは人口が激減、代わって入植してきたドイツ系の人々によりチェコは急速にドイツ化されていきます。亡命せずチェコ内に残った人たちも、カトリックの信仰を強要され、本当にカトリックへ改宗するものも出てきました。あるいは、自らの信仰を無理やりたたき折られたことにより自己欺瞞と不誠実に陥っていったのです。 もちろん、“兄弟”も例外ではありませんでした。彼らもチェコから追放され、各地に散らばり、“兄弟”という教団はその創設から約150年で壊滅してしまったのです。 フスの殉教から始まったフス運動は、約200年後にあっけなく消滅してしまいました。 【第5章 コメンスキー】◆生涯チェコ兄弟教団最後の指導者ヤン・アーモス・コメンスキー(ラテン語名・コメニウス)は、1592年、チェコ東部の町で“兄弟”の家庭に生まれました。彼は“兄弟”付属の学校に通い、優秀な成績を収め、19歳の時、教団の資金援助によりドイツへ留学しました。 3年後、故国に戻ってきたコメンスキーは、チェコ民族の教養を高めることにより自民族に奉仕しようとの希望を持ち、著述活動を開始します。この頃、兄弟”自体も長年の非合法的存在であったのがようやく正式に公認され、積極的な活動を進めていました。彼もその雰囲気の中で、チェコ語の辞典の編纂などに着手していったのです。私生活でも結婚して男児をもうけ、幸福で充実した人生を送りつつありました。 しかし、1620年の白山(ビーラー・ホラ)の戦い後、カトリック側による徹底したプロテスタント弾圧を避けるため、国内逃避行を余儀なくされます。その渦中で貴重な蔵書や著作を焼失し、妻と二人の息子を疫病で失い、最終的にチェコを離れてポーランドへ亡命します。 亡命中に“兄弟”の最高指導者に選ばれたコメンスキーは、前にも増して自分の仕事に取り掛かり、教育と世界の平和のための著述活動を行います。当時の代表的著述“平和への道”では、キリスト教的な教養を広げることで当時の混乱状況を収拾する道を探ります。“光の道”では教育による社会変革と平和の実現を構想、学校教育の改革と世界の学識者のアカデミー(光の協会)の設立を提言します。これらの著述活動により、コメンスキーの名はヨーロッパ中に知られることになり、彼はヨーロッパ各国を歴訪し多くの人に影響を与えました。また何よりも“兄弟”の最高指導者として教団運営の様々な仕事に追われていました。コメンスキーはこうした活動を通して、平和の実現、“兄弟”の復興、そして祖国への帰還を目指していました。 しかし、その彼の願いも空しく終わることとなります。1948年に締結されたウェストファリア条約により、チェコ(ボヘミア)はカトリック側に属することが決定され、チェコと“兄弟”の復興という彼の悲願は実現の道を断たれてしまいました。コメンスキーは“死にゆく母、兄弟教団の遺言”を著し、自身の悲願を未来への希望として託していきます。 1656年、亡命先のポーランドとスウェーデンの間で戦争が起こり、コメンスキーのいた町も多大な被害を受け、またも財産、蔵書、著作の原稿のほとんどを焼失します。特に、長年精魂を傾けてきた辞書“チェコ語の宝”が焼失し、彼は「私の息がある限り、私はこの著作の焼失を嘆くことをやめることは決してないだろう」と語っています。 その後、オランダに移ったコメンスキーは、祖国と“兄弟”の復興を願いながら、1670年にアムステルダムで78年の生涯を閉じました。 ◆思想の特徴コメンスキーの思想は、同時代はもとより後代にも大きな影響を与えたといわれています。ここでは「教育思想」「平和へのビジョン」の2点に注目してみたいと思います◆教育思想 “全ての人に全ての知識を教える”世界を平和にしていくには何が必要か。コメンスキーは次の確信に至ります。「人類の破滅を救うには、青少年を正しく教育するより有効な道はほかにない。」 「破滅した人類の救済策を立てなければならないとするならば、それは何よりもまず、青少年の、注意深い、用意周到な教育を通じてでなくてはならない、ということであります。それはちょうど、庭園を新しく造り直したい人が、そこに新しい苗木を植え、若木がよろこんで育って行くように、心を配って面倒をみなければならないのと同じことです。」 「もし私たちが秩序のある、花開く教会と国政と家政とを望むのでしたら、なによりもまず学校を秩序あるものにし、これに花開かせ、学校が本当の、生きた人間の製作場となり、教会と国政と家政の苗床となるようにしたいものです。このようにしてこそ初めて、私たちは目的を果たすことができるはずですし、またこれでなくてははたすことができないのです。」 コメンスキーの思想では、真の教育によってこそ社会の発展がある。そして人間はそのままで人間になるのではなく、教育によってこそ人間になれ、そのような努力をしなければならない。その人間を製作する場が学校である。 この思想から更に発展し、「すべての人にすべての知識を教える」という考えに行き着きます。人は生まれてから死に至るまで、つまり胎教、幼児教育、学校教育、成人教育といったように、一生涯、世界という学校で学んでいかなければならない、と提唱したのです。 また、「すべての知識」として社会の事象を体系化しようとします。彼はそれを「凡知」と呼び、そうした知識を人間として身につけるべきだと主張しました。その中で生まれたもののうち代表的なのが“世界図絵”です。今日で言う絵本の発祥とも言える書籍で、ヨーロッパでは「200年ほどのあいだ、コメニウスの“世界図絵”をこえるほどの教科書があらわれなかった」とも言われています。かのゲーテも幼少の頃、“世界図絵”が面白くて仕方がなかったようです。そのくらい、魅力のあるものとされていたのです。 ◆平和へのビジョン 社会秩序の復活、国連の雛形コメンスキーの偉大なところは、自身の思想を単なる教育理論に終わらせなかったことです。30年戦争の真っ只中、亡命の身で希望など全く見出せない中にあって、彼は世界秩序回復のためのビジョンを描きます。具体的には、民族の幸福のためには世界が平和でなければならないと考え、国際機関の設立の必要性を訴えます。要約すると、以下のようになります。 ○学問・教育・文化の普及・発展を目指す「光の協会」 ○正義・平和・安全の実現・保障を目指す「平和の裁判所」 ○信仰・道徳の向上を目指す「神聖なるものの理事会」 コメンスキーは以上の三重の世界的組織の創設を提唱しました。これはいうなれば、今日の国連の存在と重なりあうものとして注目されています。国連とユネスコはコメンスキーのこの思想をユネスコの理念の先駆的提唱者として讃え、1957年にコメンスキーの記念祭を大規模に開催しました。 ◆コメンスキーの思想の影響コメンスキーの思想には「人間自身を教育によって変革していく以外に、世界の平和の実現はない」という信念があると言えます。そして、その偉大な事業が、財産と精魂傾けた著述を戦火に焼かれ、大切な教団が滅亡の憂き目に会い、自身の民族の存亡の危機にあったという状況下で生み出された、という点に注目したいと思います。 絶望的な状況下にあって、彼はあれだけの事業をなし遂げたエネルギーをどこから得たのでしょうか。おそらくは、150年間、弾圧を耐え忍んできた“兄弟”の精神的伝統に、その答えがあるではないでしょうか。 彼の成し遂げた事業は、“兄弟”の滅亡により消滅することはありませんでした。 彼の死後、100年以上にわたってチェコ民族にとっての暗黒時代が続きましたが、19世紀に民族復興運動が起こります。彼の著述はもとより、“兄弟”の歴史上作られてきた様々な遺産が再評価されます。有名なスメタナの“モルダウ”もこの流れの中で創り出されたものです。“モルダウ”は連作交響詩“我が祖国”の中の一曲ですが、“我が祖国”の中にはフス戦争の情景を描いた“ターボル”と名づけられた曲もあります。 その後登場した哲人政治家マサリクにより、ヤン・フスから始まった宗教改革の歴史はチェコの歴史上にきちんと位置づけられます。 そして、その精神的伝統は、20世紀後半に登場したバーツラフ・ハベルにより更に具現化され、チェコ民族はついに本当の意味での独立を勝ち取ることができたのです。 コメンスキーは、ウェストファリア条約の締結により祖国の復興と帰国の道が断たれた時、“死にゆく母、兄弟教団の遺言”を著し、自身の悲願をこう未来に託します。 「我々の罪によって我々の上にふりかかった怒りの嵐が過ぎた後で、 おお、チェコ人よ、汝の事柄の統治は再び汝の手に戻るだろう。」 「神に捧げられた民族よ、生きていよ、滅びることなかれ!」 コメンスキーのこの叫びは、無駄に終わりませんでした。 彼の悲願は、彼の死から300年後についに実を結ぶことができたのです。 【第6章 終わりに】2001年3月、私は中欧チェコの古都プラハを訪れました。ドヴァルザークやスメタナを生んだ地、不遇を囲いつつあった晩年のモーツァルトを受け入れた地、また、数々の歴史の舞台となった地に、数年前からぜひ行ってみたいと願っていました。 それは、恋と言ってもいいものかもしれませんでした。 ついにその願いが実現し、プラハの地に立つことができた時、その恋は裏切られることはありませんでした。むしろ、更にその想いは深く、強くなりました。 歴史の舞台となり、宗教改革のリーダーであったヤン・フスの像が中央に立つ旧市街広場。 プラハのメインストリート・バーツラフ広場の中央には、ヤン・パラフの記念碑がひっそりとしめやかにありました。彼は、1969年、ソ連の軍事介入に対し自らの身を火で焼き抗議して死んでいった1人の青年です。 市の中央にはブルタバの流れが滔滔と流れていました。ブルタバは長い間ドイツ語名のモルダウと呼ばれていました。こんなところにもチェコという国の置かれてきた歴史を垣間見ることができます。チェコの人々は自らの国の誇りである川にさえも、他国語の名前がつけられてきたのです。 そんな有名な場所でなくとも、街並の全てに歴史の重みがありました。 もしかしたら、ここをモーツァルトが、スメタナが歩いたかもしれない。また何よりも、無数の無名の人々がここを歩き、歴史を創り、歴史の流れの中に消えていった。 石畳の一枚一枚にそうした無名の人々の血や涙がしみこんでいるのではないか。 そんな深い感慨を抱きながら、プラハの街を歩いていました。 それから、チェコという国に興味を抱き、歴史を深く学んできました。 プラハは中世には神聖ローマ帝国の首都として栄えていましたが、その頃から大国の思惑に翻弄されていました。 それは現代に入っても同じでした。 20世紀に入り、ついに独立を勝ち取るものの、東西冷戦の時代に入ると、米ソ大国の狭間で人々は苦しめられてきました。 しかしそんな中にあってもチェコの人々はしたたかに生きてきました。チェコの国民的アイドル「兵士シュベイク」のように。 その歴史の中でも、中世のヤン・フスから始まる宗教改革の歴史は、とても興味深く感じました。1人の人間が唱えた理念が、時代の変遷、社会の変化の中、更に担い手たちの思惑を経て、様々に展開されていきました。 この歴史は、自分の今の信仰とその信仰を奉じる団体のことを思索する上で、とても示唆に富んでいました。 当初、私はチェコの宗教改革の歴史を、私の属する団体の正当性を意義付けるものとして捉えていました。 しかし、その私の意識はここ数年で大きく変化しました。 それは、その歴史を深く学んできたからかもしれませんが、もう一つ、大きな要因がありました。 その団体の置かれた状況、団体の方針、更に団体に属する人たちの意識というものと本来その団体が持っている理念との間に、明らかに矛盾が生じている状態に気づいたのです。 「方針を出す人の問題か、皆の意識がもう変わってしまったのか、時代状況が変ったから仕方がないのか」。 これは問題意識として認識していない限り、誰も矛盾とは考えないことです。そのためこの疑問に対して、誰も明確に答えを返してくれませんでした。いや、恐らくは誰も返すことができなかったのでしょう。 そんな私に対し、チェコの宗教改革の歴史が大きな示唆を与えてくれました。 つまり、今の状況は今急に起こったものではなく、いろんな流れの中で形成されてきたもので、決して一過性のものではない。組織である以上、時代の状況、人々の意識の変化により、右にブレ、左に傾き、時に後退を余儀なくされることは、必ずある。 その中で一番大切なのは、常に理念をはっきりとさせておくこと。 理念さえあれば、何があろうとそこに返ることでまた再出発できる。 フスがベツレヘム礼拝堂でスピーチを始めた時、誰が後に200年続くフス運動を予想したでしょうか。 急進的なターボル派がリパニで大量虐殺された時、誰が友愛に満ちた兄弟教団の出現を予想したでしょうか。 白山(ビーラー・ホラ)の戦い後、兄弟教団がチェコから追放され、教団が壊滅した時、全ての人がチェコ民族の没落とフス運動の終焉を感じたことでしょう。しかし、それから150年後、民族復興運動が興り、言語復活や文化運動が展開され、20世紀初めマサリクによりついに独立を勝ち取ります。東西冷戦などでまた苦しめられたものの、20世紀末にはハベルを中心としたビロード革命によりやっと本当の意味での独立を実現させた。その歴史の流れを一体誰が予見できたでしょうか。 その歴史の中で、常に意識され、叫ばれ、チェコ民族の誇りとされてきたのが、ヤン・フスから始まる宗教改革の歴史と理念だったのです。 いまや、その歴史はチェコ史において欠くことのできないものとして位置づけられています。 最も大切なことは理念を遺すことではないのか。 チェコの歴史を学んで、深くそのことを思います。 私の信仰の創始者は次のような宣言をしています。 「私の人々を思う一念が広大であるならば、 この信仰の理念は一万年はおろか、遥かな未来にまで流れ伝わっていくだろう。 一切の人々を真に目覚めさせる力がある。 苦しみの連鎖を断ち切ることができる。」 「私一人から始めたこの信仰は二人、三人、百人と唱え伝わっていくだろう。 この世界に私の理念が大きく広がっていくことは、 大地を的とすれば決して外れることのないのと同じで、確実なことである。」 プラハ市内に流れるブルタバにかかるカレル橋。その橋のたもとに偉大な作曲家スメタナの記念館があります。 そのスメタナ記念館から眺める景色は素晴らしかった。 目の前には滔滔たるブルタバ。 そこに架かる美しいカレル橋。 その更に先には、フラッチャニーの丘の上にプラハ城と聖ヴィート教会が堂々と聳え立っていました。 この風景は、決して一朝一夕で築かれたものではありません。 さながらブルタバの流れのように、時に激しく、時に滞り、時にゆったりと、長い時間をかけ築かれてきたものなのです。 無名の一滴として、歴史を創る偉大な事業を、今、自分の足元から開始したい。 2006年6月4日 無名記す 【参考文献・資料】◆書籍『マサリクとチェコの精神』 石川達夫(成文社)※主にこれを中心にまとめました。 『マサリクの講義録−チェコスロバキア小史』 T・G・マサリク(恒文社) 『プラハの異端者たち−中世チェコのフス派に見る宗教改革−』 薩摩秀登(現代書館) 『世界史リブレット20 「中世の異端者たち」』 甚野尚志(山川出版社) 『プラハ歴史散策 黄金の劇場都市』 石川達夫(講談社+α新書) 『プラハを歩く』 田中充子(岩波新書) 『プラハの春』 春江一也(集英社) 『世界図絵』 コメニウス(平凡社) 『コメニウス教育学の研究』 井ノ口淳三(ミネルヴァ書房) 『世界の戦争・革命・反乱 総解説』 (自由国民社) 『週刊 世界遺産19 「チェコの歴史地区」』 (講談社) ◆ウェブサイト『コメニウス研究』http://www.u-aizu.ac.jp/~k-ota/COMENIUS/ 『チェコの歴史』 http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/checmokuzi2.htm 『翻訳家の部屋(チェコ文学のページ)』 http://www5b.biglobe.ne.jp/~tasai/hon00.html 『ターボル戦記』 http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/tabol/top.htm ◆CD『スメタナ「我が祖国」』 小林研一郎/チェコフィルハーモニー(ポニーキャニオン) |