魯ひとの日蓮と法華経の研究
からぐらの風

 フリーの研鑽者、魯ひと(ろひと)が、独自の視点で日蓮と法華経を読み開くニュースレター。既成の発想にとらわれず日蓮と法華経に即して考えていきます。不定期随時発行。無料です。 → 購読、及び停止

第109号 法華経疏・火宅の喩え
 【2009/03/18】 連載第31回。法華経は初期仏典と密接な関係があることは、これまでも度々指摘してきたことであるが、今回の「火宅の喩え」からすぐに思い起こされるのは「すべては燃えている」というブッダの警告である。譬喩品のいう火宅とは私たちの肉体、精神生活を含む三界すべてである。ここでは例外はない。産業や経済・政治はもちろん、学術も文学も、そして宗教(仏教)とて例外でない。自分の所だけは安全だと思っているとしたら、そこが一番危うかろう。

第108号 陶淵明
 【2009/03/13】 陶淵明は隠者であっても仏教者ではない。しかし、『法華経』と無縁であったとは言い切れない。陶淵明は同時代の鳩摩羅什と直接出会うことはなかったけれど、羅什と往復書簡(『大乗大義章』)を交わした廬山の慧遠とは繋がりがあった。少なくとも『法華経』漢訳に関わった人々と同じ時代の空気を吸っていたのであり、その心情、精神は意外に近いところにあったと思われる。

第107号 旅人
 【2009/03/03】 道を求めて旅に出るという話は、かのアッシリアの粘土板に記されたギルガメシュの物語以来、今日まで枚挙にいとまがない。そうではなくして、人生そのものを旅にたとえるということは、『法華経』の化城喩品を嚆矢とするのではなかったろうか。そこでは人生を宝処に向かって旅するキャラバンに譬えてある。
 この『法華経』が鳩摩羅什によって漢訳されたと同時代に、自らの人生を旅になぞらえた詩人がいた。陶淵明である。

第106号 『漢語大字典』
 【2009/02/12】 日蓮と法華経の思想をもう一度、ドグマを払って一から大乗仏教と漢字文化圏の歴史のなかで捉え直そうという試みは、否応もなく膨大な漢字文献の海にこぎ出させることとなった。懐中にあるのは日蓮の御書一冊、そして手に取る櫂(かい)はもちろん辞書しかない。この膨大な文献の山を一字一字、辞書を引きながら進むのである。それしかない。それに六十に近い晩学で挑もうとするのである。笑われても仕方がない。

第105号 「前三後一」の論理と転用
 【2009/02/01】 「前三後一」の意味について、相違する見解があって議論がなされているようだ。A君のいわく「三歩進んで一歩退く」。B氏のいわく「前へ三足、後ろへ一足の跳躍の姿勢」。そして、どちらの解釈が正しいか、と。しかし、これはどちらも本来の言葉から離れた転用であって、そんなところで正否を問うのは意味がない。せめて言葉の意味を論じるなら、その元意を踏まえておく必要があると思われる。

第104号 『仏学大辞典』
 【2009/01/12】 親しい友人とは心おきなく付き合えるが、思索のためには、仲間うちで居るより、外に出て、少し発想の違う人と付き合う方が、刺激があっていい。(もっとも、あんまり違いすぎると相手の心が読めなくて疲れてしまうということもある)。これは書物においても同じだろう。今回ご紹介するのは中国は丁福保氏の『仏学大辞典』。合せていくつかの仏教辞典をご紹介する。

第103号 ドグマを捨てることの重さ
 【2009/01/12】 仏教にはドグマはない。だけどドグマを棄てた生き方というのは容易なことではない。それは、時に背教者の生き方に似てしまう…

第102号 法華経疏・菩薩舎利弗
 【2009/01/05】 「法華経疏」連載第30回。少しずつでも進めてゆこう。譬喩品のその4回目である。舎利弗が授記を受けた。それは教理的には二乗作仏と解釈される。しかし、ここではそういう教理に走らずに、もう少し法華経本文や法華経疏の流れに即して、考えていくことにしよう。その上で法華経における授記の性格をみていると成仏の保証ということよりも、その前に釈尊の弟子たちが仏の子、菩薩として認知される儀式、物語であるように思われる。じっさい譬喩品に描かれる舎利弗はまさに菩薩の振る舞いをなしている。

第101号 「物有本末、事有終始」
 【2009/01/03】 皆さま、新年おめでとう。本年もまたお付き合いのほどを。
 さて、今年の魯ひとの書き初めは上記の言葉である。下の句は「知所先後、則近道矣」。その意味は、「物には本末があり、事には終始がある。先後をよく知れば、求めるところが見えてくる」と魯ひとは理解している。これは『礼記』の中の「大学」の章に見える言葉であるが、この言葉を初めて眼にした時、電撃を受けたような思いがした。「これは仏教の縁起の思想そのものではないか。法華経十如是のこころではないか…」

第100号 「こだわり」こそ文化
 【2008/12/31】 気がつけば、本年も早やおおつごもり。ことしも読者の皆様から多くの問いかけがあった。ありがたいことであったが、ほとんどお答えできなかった。改めてお詫び申し上げる。若干拾い上げると、「日本を代表する仏教研究者は?」。この設問には、すっと二三人の名が浮かんだが、書き始める段になって筆が止まってしまった。いや、日本の国というのは、本質的に中小企業の国であって、文化や学問の面でも、決して少数のカリスマによって動いてはいないという観念がわき起こってきたからである。

第99号 漢籍DB
 【2008/12/30】 長らく休載のかたちになってしまった「からぐらの風」であるが、新年にむけて、再び復活してまいりたいと思う。休載になってしまったのには諸般の事情があったが、最大の理由は自己の研鑽に没入していたからである。就中、漢籍データベースの構築作業を延々と続けていた。それは、ひとたび手を付けだすとキリのない作業で、そこから抜け出すのが容易でなく、結果として膨大な時間を消費してしまった。

第98号 法華経疏・舎利弗の授記
 【2008/09/26】 連載第29回。法華経のおもしろさは、本筋の展開にあることはもちろんであるが、その脇道にも、重要な思想があちこちで、さらりと触れられていて驚かされる。いったい、そのような重要な思想がなぜ、脇道で語られているのだろうか。じつは、ここにこそ、法華経を読み解く一つの大きなカギがあるように思われる。今回のところは舎利弗の授記を述べているのであるが、この中にさらりと触れられているのが「仏の本願」の問題である…。

第97号 法華経疏・舎利弗の歓喜
 【2008/09/22】 連載第28回。ますます、面白くなってきた。どうやら法華経の一乗の説き方は二様になっている。道生の解説も二様である。ひとつは仏は終始一貫して一乗(大乗)を説いてきたという説き方と、ひとつは仏の説法には小から大への次第があるという説き方である。両者は論理的には相容れないはずである。果たして、このことを道生自身は、気づいていたのか、気づいていなかったのか。

第96号 提婆達多品の存否
 【2008/09/21】 羅什訳法華経には提婆達多品がなかった。それが学界の常識で、その論証は確定しているという。不遜ながら魯ひとの眼には未だその論証は成立しているとは思えない。なぜなら学者諸氏が提出している論拠は、そのまま逆の論拠としても転用可能なものが多いからである。その中で、もっとも説得力があると思える論拠は道生の法華経疏には提婆達多品がないことにある。とはいえ、道生自身、あるいは他の門下の誰一人として提婆達多品がないと明言した者がいない以上、それで確定というわけにはいくまい。

第95号 問題はいつも新しい
 【2008/09/20】 私たちが、新たに何かを提起しようとする時、同じような命題を過去に誰かが手をつけ、すでに論じられている場合が多い。思い浮かんだことをうっかり口にして、「何を今さら…」「そんなこと、ワシも昔考えた…」と一蹴され、深く傷ついた経験は誰もお持ちだろう。魯ひとなども、「すでに解決済みの話を蒸し返すのは如何なる魂胆か」と無い腹を探られることも少なくない。

第94号 法華経疏・譬喩
 【2008/09/11】 連載第27回。今回より譬喩品に入る。譬喩品は法華経の中でも最長の分量を持っている。寿量品の三倍を越える。ところで譬喩というのは、譬えを以て易しく語るというのが本意であるはずであるが、何故か晦渋で、志を立てて法華経を読み始めた人も、この辺りで睡魔に堪えきれなくなり、通読に挫折してしまう。言ってみれば譬喩品のパラドックスである。このあたりのことも思索してみたい…。

第93号 法華経疏・訳文改訂
 【2008/09/09】 先にご案内のとおり、法華経疏の訳文の改訂を行いました。改訂した分は、レターの第65、66、67、68、71、77、83、84回で現代語訳、訓訳両方に渡ります。改訂文はホームページに掲載してあります。インデックスには、改訂を行った回に赤字で標示をしてあります。また改訂に当たっては先学諸氏の諸論文に引用されている訳文を参照しました。

第92号 法華経疏・比丘偈
 【2008/09/05】 連載第25回。方便品の後りに、比丘偈と通称される長い偈頌がある。ここは方便品の要旨が圧縮されてある。道生はそれをを五段に分けて解説する。内容はさすがに深く、強烈に哲学的思弁を誘うものがある。その誘いに乗って思弁の世界に没入したいという思いもあるが、しかし生活(しごと)もあるので、そうもいかない。ここは、おとなしくして翻訳とその構造の分析に細切れの時間を使っていくことにしよう。こちら方面でも面白いことに気がついた…。

第91号 法華経疏・信と不信と
 【2008/09/03】 連載第24回。今回は信ずる者と信じない者を立て分けているところである。ただし、経典が「信ずる者は救われる」と説いた時、「では、信じない者は救われないのか」と問い返す感性は必要だろう。じつはここにこそ、法華経最大のテーマがある。竺の道生が蘇山に流され、日蓮が二度の流罪に遭ったのも、この問題と真摯に向き合ったからだ。道生は多少、在来の発想に流れることがあったとしても、そういう意味で法華経の精神はつかんでいたと思われる…。

第90号 法華経疏・五濁悪世
 【2008/09/01】 連載第23回。法華経が自分たちの時代を五濁悪世と捉えていることは注意を要する。それは日蓮が自らの時代を末法濁悪の時代と規定したことと軌を一にしている。翻訳者羅什においても自らの時代を同様に捉えていたであろう。だからこそ法華経を翻訳したといえる。そういう厳しい現状認識がなければ法華経信仰は出発しえないのかも知れない。本当はこの問題にもっと突っ込みを入れたいのであるが、道生の問題意識は少しずれていく。しかたがない、我々も今は船頭さんに随うことにして、船頭さんの心を探ることにしよう…。

第89号 法華経疏・一大事因縁
 【2008/08/26】 連載第22回。今回は表題の通り、方便品の中でもクライマックスともいえるところであるが、正直なところ道生の解釈には少々幻滅してしまった。このあたりの論理があまりにも平板であることと、今までせっかく法華経が序品以来、既成の観念をしりぞけながら、やっと説かれた開示悟入だというのに、それを既成の体系、構築物ともいうべき十住位に当てはめて解釈してしまうこの神経にはあきれてしまう。
 道生の一乗と三乗についての捉え方もどうやら底が見えてきたようだ。道生には、法華経が小乗対大乗、声聞(二乗)対菩薩の対立を止揚するためにできた経典であるという大きな視点が、そっくり欠落している…。

第88号 法華経疏・五千退座
 【2008/08/24】 連載第21回。舎利弗の重ねての懇請を受け容れて、釈尊が説法を始めようとするその矢先、五千人の四衆が座を立って去ってゆく。このドラマチックな場面は『枕草子』など多くの文学でも語られ、その意味についても古来多くの議論が為されてきた。「いや、実際はその場を去ってはいないのだ」などと…。

第87号 法華経疏・舎利弗の問い
 【2008/08/22】 連載第20回。今回は思わず、うーんと唸ってしまった。ここでは法華経の信と疑の関係をみごとに明かしている。「法華経の信」は、キリスト教などのように「不合理なるゆえに我信ず」のようなものでも、ただ「疑うべからず」というようなものでもない。日蓮が「疑ひを強くして答をかまうべし」(s561.02,h542.02,p203.11)と述べた構造そのものである。疑いなくして「法華経の信」は起こらない…。

第86号 法華経疏・信力堅固
 【2008/08/20】 連載第19回。今回の道生の釈の中には、後年の日蓮の信仰観の、その萌芽が見られる。法華経の信仰観というと譬喩品の「以信得入」が有名であり、それが日蓮の「以信代慧」の思想を生み出すのであるが、その前に方便品のこの箇所にすでに重要なカギがあるように思われる。ただ、その表現が逆説的であるが故に、今日まで、見落とされてきたのではないだろうか。そこの所を羅什は弟子たちに丁寧に教えていたのではなかったか…。

第85号 法華経疏・十一事縁
 【2008/08/18】 連載第18回。今回は前半の最大のヤマ場、十如是の所である。道生は「十一事縁」と呼んでいるが、じつに重要な問題を含んでいる。これがあるから十如是は後世の書き換えではないことが証明されるわけであるが、同時に羅什が弟子たちに十如是について詳しく語っていたであろうこともはっきりする。現代の法華経学者のほとんどは、現存梵文に十如是がないことから、それを思想として論じることをせず、翻訳論議とレッテル貼りでお茶を濁しているように思われる…。

第84号 法華経疏・以三表一 訳文改訂2008/09/08
 【2008/08/15】 連載第17回。前回の道生の「三乗皆権」に対する説明、今回の「以三表一」に対する説明をみると、天台の解釈とは大いに違っており、道生が三車家の元祖と見なされる理由が歴然とする。こういう三車家の解釈に対して、天台、あるいは日蓮を擁護する立場から、1500年来の三車四車論争に参加するというのは、あまり生産的とは思えない。また梵文の翻訳問題として決着をつけようとするのも、本質を見失っていないであろうか。この論争は翻訳問題というよりは、哲学であり思想問題だと思う。その見地に立って、冷静に両者を分析する必要がある。ここでは「哲学すること」にしよう…。

第83号 法華経疏・三乗皆権 訳文改訂2008/09/07
 【2008/08/12】 連載第16回。今回の翻訳も随分手こずった。難解なのは文章に省略があるからだ。二転三転して、ようやく確定する。それでも訳文が完成したときの喜びは大きい。味読すれば、多くの思索が触発される。今回のところで注意されるのは道生の「一乗」のとらえ方が、智などと大きな違いがあることである。同じ羅什門下でも慧観などは智と同じである。そしてこの違いはやがて、ゆうに1500年を越える史上最長の大論争を巻き起こすことになる。現在もなお論争は継続している…。

第82号 法華経疏・方便
 【2008/08/11】 連載第15回。方便と言えば、天台は法用・能通・秘妙の三方便を説いた。天台の体系はいつも精緻だ。しかし精緻なものがいつも高度な認識とは限らない。日蓮はそういう天台のガチガチの理論を≪脱構築≫してしまった。日蓮の本領はシンプルさにある。後には、その日蓮をまたガチガチに構築してしまった理論家も現れた。いまは天台以前の形態を眺めることによって、構築されてしまった日蓮のタガをも外したい。

第81号 鳩摩羅什の時代
 【2008/08/07】 法華経を理解する上で、鳩摩羅什が法華経を訳した時代がどんな時代であったかを知っておく必要があると思われる。一口に言えば、大変な動乱の時代であった。羅什自身が祖国の滅亡に遭遇し、他国の軍隊に戦利品として捕らわれ、十七年に及ぶ抑留生活を体験しているのである。彼が中国に連れてこられたのは、中国では彼を渇仰する人々が多くいるため、彼に商品価値があるとされたからである。

第80号 横超慧日氏
 【2008/08/04】 羅什訳法華経の価値を改めて痛感させられ、羅什の周辺を探っているわけであるが、意外に基本文献がまとまった形で整理されておらず、現代語訳もほとんどなされていない。これほど多くの人が読誦し、親しんでいる羅什訳でありながら、羅什研究がそれほど進んでいるとは思えないのは不思議であり、悲しいことである。そのために多くの誤解が蔓延している。もっとも心ある学者がいなかったわけでも、深い研究の蓄積がないのでもない。ただ広く人々の許に届いていないことを悲しむのである。

第79号 日蓮と無量義経
 【2008/07/31】 法華経疏の連載は少しお休みして、これまでの連載で論じ残したことを整理しておこう。まずは無量義経の問題。件の横超慧日氏の論文は未だ手に入らないが、無量義経の出現にまつわる胡散臭さ、法華経との矛盾点など、こちらで考察できる範囲でいってももはや文献学的な側面で擁護することは不可能に近いと思われる。日本の梵語学の第一人者とされる荻原雲来氏なども厳しい批判を提示しているよしである。

第78号 法華経疏・日月燈明仏
 【2008/07/30】 連載第14回。超難解であった序品もようやく最終回。道生の文も難解だが、法華経序品そのものも難解。ゆえに名だたる学匠たちも未解明のまま素通りしているところが少なくない。今回の日月燈明仏もよく分からないが、その日月燈明仏の補処たる徳蔵菩薩ともなれば謎の存在である。そもそも「補処(ふしょ)」とは何なのか…。

第77号 法華経疏・仏の十号 訳文改訂2008/09/08
 【2008/07/29】 連載第13回。仏の十の呼び名が列挙される。これは決して仏の称号を列挙して称賛しているわけではない。仏とは何かということを過たず伝えるために十の角度から説明しているわけである。ここで注意すべきは、二番目に「応供」という表現があることである。これは阿羅漢(arhat)のことである。大乗仏教ではともすれば、二乗弾呵の立場から声聞を揶揄して使われることが多いが、本来は仏の別名である…

第76号 法華経疏・弥勒の疑問
 【2008/07/28】 連載第12回。聴衆の疑問が最高潮に達したところで、弥勒菩薩が聴衆の疑問を代弁する形で文殊に質問し、その回答が未だ不十分なまま、次の品へ引き渡すという展開は、寿量品の直前、涌出品において強いて疑問を起こさせる動執生疑と全く同じである。この大がかりな展開は方便品と寿量品の思想が法華経の中心であることを示している。そして法華経における「疑問を問う」という行為のいかに大切であるかということ…

第75号 法華経疏・眉間白毫相
 【2008/07/23】 連載第11回。法華経序品の「無量義」について結論していうならば、それは「諸法実相」そのものといえると思う。序品においては釈尊は終始無言であり、一言も発しない。しかし、法華経の会座はすでに開かれている。ここでもし「無量義」について説法したとするならば、ここに「法華経無量義品」が置かれねばならない。しかし、そのような説法はなく、沈黙のまま次の方便品に入り、「諸法実相十如是」の説法に落着するのである。まさに序品の「無量義」「眉間白毫相」「弥勒と文殊の対話」は「諸法実相」を際だたせる大きな舞台まわしということになる…。

第74号 法華経疏・無量義
 【2008/07/20】 連載第10回。序品の中心命題へと入ってゆく。ここで我々は、嫌でもある問題と直面しなくてはならない。法華経序品で説く「無量義」といわゆる法華経の開経とされる「無量義経」との関係である。序品をよく読む限り、両者は別のものだろう。道生も無量義経には触れていない。ただし、今、巷間行われている「無量義経の偽書説」は随分乱暴なものでおよそ学問の名に値しない。後述…。

第73号 法華経疏・人天八部衆
 【2008/07/19】 連載第9回。法華経の会座には人のようで人には非ざる多くの衆生が連なっている。いわゆる神々と八部衆と一括される異形の衆生である。彼らは人界と天界の狭間に住むとも、人天をを行き来するともいう。彼らに対して今日的な視野から合理的解釈を施しても、あまり意味がないと思われるが、経典の編集者たちは、彼らの実在を信じていたことだけはおさえておいた方がいいだろう。
 ところで、今回問題提起しておきたいのは、人界の代表として登場する阿闍世王の法華経における位置についてである。後述…

第72号 法華経疏・菩薩
 【2008/07/16】 連載第8回。今回の所には、ぞくぞくするようなことが述べられている。菩薩のあり方、そこに大乗仏教の神髄が要約されてある。菩薩はいかなる「到達点」をも問題にしていないのだ。特別な人だとか、境地・境涯だとか、幻想のような広宣流布観、絶対者のごとき本仏、そんな所に大乗仏教はなく、ただ誓願をもって立ち上がった「発心」の所に全てが備わっているとする。そして求めるところは、目の前にいる苦悩する人(たとえば孤児!)にいかに手をさしのべるかという極めて具体的な問題である。

第71号 法華経疏・声聞の列衆 訳文改訂2008/09/08
 【2008/07/15】 連載の第7回。ここにブッダのもとで活躍した実在の20人の比丘と2人の比丘尼の名が列挙される。このような名が列挙される理由は何か。道生はその徳を賛嘆するためであるという。それは分かる。しかし、私はもう一歩、この人たちがどのように生きたのかを知りたいと思う。それが本当にその人たちを顕彰することになると思うからである。そして、それがそのまま法華経理解をふくらませていくことになると思うのである。訳文のあとでもう少し…

第70号 法華経疏・与大比丘衆
 【2008/07/14】 連載第6回、引き続いて五字のうちの「誰とともに」のくだりである。歴史の証人とでもいうのであろうか。ともあれ法華経は、編纂当時の状況をその表現の中に色濃く反映させている。またこれを漢訳した羅什たちもまた、同じ問題の中にあった。今回のくだりにも歴史を読み取る重要なキーワードがある。声聞の比丘衆を「内」とし菩薩大衆を「外」とした表現から何が読み取れるであろうか。

第69号 法華経疏・一時
 【2008/07/13】 連載第5回。前回「如是我聞」に引き続いて序品の「五事」を述べてゆく。「五事」とは、「如是我聞」以下の1誰が、2何時、3何処で、4誰と倶に、5如何なる法を聞いたかということである。これはその経典の存在証明のようなものである。ゆえに訳出に当たった羅什三蔵はこの点に大変な神経を注いでいる。また羅什は、この五事について別途『大智度論』で詳論している。しかし大乗仏典が「五事」を強調すればするほど、あるジレンマに突き当たっていく。しかし、その葛藤こそが、大乗仏教を大きく発展させた思想的原動力となったと思われるのである。訳文のあとで…

第68号 法華経疏・如是我聞 訳文改訂2008/09/07
 【2008/07/11】 連載第4回、「聞は仏より来たる」と。含蓄のある言葉だと思う。かくは真摯な気持ちで法を求めたい。と同時に、どのような世界であれ、「聞く」ことを自粛させてしまうような雰囲気が、もしあるとすれば忌むべきことだ。聞くこと、質問することを誰も制止してはならないのだ。法華経は疑問から出発する。

第67号 法華経疏・概要 訳文改訂2008/09/07
 【2008/07/10】 今回から序品に入る。その冒頭に、法華経全体の構成についての概要が述べられている。全体を3つのブロックに分けているが、本迹に二分した天台との発想の違いが見られる。それだけではなく、嘱累品の外に置かれた六品について、注目すべき見解が示されている。通常経典は、嘱累品で終わることが多いが、それに対して、羅什訳法華経では、薬王品などの六品を、嘱累品の後に置いている。このことについて古来より多くの議論がなされている。訳文のあとで、少々魯ひとの解説を記す。

第66号 法華経疏・題号釈 訳文改訂2008/09/07
 【2008/07/09】 第2回は題号釈。天台の精緻な体系に比べて、随分シンプルではある。しかし、ここには出発点に立つ者の一つの感動がある。すべて体系化されたものは、ひとたびは解体され問い直されるべきなのだ。魯ひとの云く、体系の中にちんまり納まった理解を「ドグマ」というのだ。

第65号 詳訳『法華経疏』第1回 訳文改訂2008/09/06
 【2008/07/08】 竺道生撰『法華経疏』(X27-n577)の現代語訳及び訓訳。長期連載。第1回は、その冒頭部分「巻頭の辞」。誤読や誤解があればご批正を請う。
 ところで、今回分には「事と理」の概念が出ていることが注目される。この考え方は、後年、日蓮の注目するところとなり、富士派の教学のなかで特異な展開を見せることになる。いずれ、じっくり考えたいと思っているテーマの一つではある。

第64号 竺道生撰『法華経疏』について
 【2008/07/07】 先にご案内の通り、これから最古の法華経注釈書たる竺道生撰『妙法蓮華経疏』を自力で読んでいくことになる。長期の連載になるが、ともに学んでいきたいと思う。
 竺の道生は、『開目抄』に「竺の道生は蘇山に流され」とあるように、権力と対峙して弾圧を受けた人であり、その生き方と思想は、もっと注目されるべきであろう。それだけではなく、羅什門下の四傑の一人で法華経翻経の席に連なった人でもある。ゆえに彼の『法華経疏』は最古の法華経注釈書であるだけでなく、今日的な法華経研究の上で無視できない重要性を持つと思われる。

第63号 なぜ羅什訳法華経なのか
 【2008/07/06】 法華経というと、現在では直接梵文から日本語の現代語に翻訳したテキストが幾種類も公刊されている。そういう中で、私が古い漢訳にこだわっていることに対して「何故に?」という問いかけがある。
 それは文化を形成し、歴史を動かしてきたのは梵文法華経ではなく、羅什訳法華経であったという文明史的な視点を大切にしたいということと、法華経のテキストに対しては、大きな誤解が蔓延していると思うからである。

号外 レター再開
 【2008/07/05】 体調のこともあって、長らく休止していた「からぐらの風」を再開します。実のところ負担も少なくないので、ウェブサイトの「からぐら文庫」自体の廃止も考えていました。
 しかし、読者の方から、「語り続けてゆくことの大切さ」を、るるお話いただきましたので心機一転して、もう一度挑戦していくことにいたしました。

第62号 テキストでさくさくとサンスクリットを読み書きする方法
 【2008/04/10】 この春より、よんどころなくサンスクリットを学びはじめたが、こちらの読者にもサンスクリットを学んでおられる方が少なくない。サンスクリットを学び始めて、まず閉口したのが、その文字のパソコンでの入力と文書の取り扱いであった。ローマ字表記でやるといっても、付加記号のついた特殊文字が多くて直接入力が難しい。ネットを通じてのファイルのやり取りも、文字化け現象に悩まされることになる。
 しかし、必要は発明の母とか。魯ひとは、在来の方法よりは、もっとお手軽でテキストエディターでさくさくとサンスクリット(パーリ語も可)を読み書きする方法を見出したのでご紹介する。

第61号 信仰心の蒸発
 【2008/03/26】 一部の知識人の間で、ブッダは信仰を説かなかったとか、信仰を否定したという議論がある。この議論の多くは、たとえば中村元氏が、『スッタニパータ』の1146番偈の訳出で「信仰を捨てよ」という表現を使ったこと、およびその解説文に端を発しているようである。ブッダは信仰を説いたのではなく哲学を語ったのだと。
 中村元氏の真意がどこにあったかは分からないが、このような議論は理に合わない。

第60号 実りある対話のために
 【2008/03/19】 おかげさまで当レターも60号となった。こうした文章が綴れていくのも、読者の皆さまの触発のおかげである。また、読者がいればこそ、書き続ける励みにもなる。あらためて御礼申し上げたい。ということで、今回は対話について述べてみたい。対話の良さは、立場や意見の違う者の出会いによって認識が深まったり、新しい認識が生まれるところにある。だから対話を論理学で弁証法ともいう。仏法でいう縁起もまた弁証法であり、対話の原理である。

第59号 さらに霊鷲山
 【2008/03/17】 もう少し霊鷲山にこだわってみよう。そしてショペン氏の説(第55号参照)に対して魯ひとは少し修正を加えたいと思う。ショペン氏は大乗仏教が起こったのは僧院の中としたが、しかし内部で争っている間においては、それはまだ部派仏教の内部矛盾でしかなかった。大乗仏教の誕生は、その僧院を退出して山林を目指すというその行動にこそあったと思われる。その行動によって質的転換、質的昇華が起こったのである。

第58号 そして大乗のこころ
 【2008/03/16】 前57号のつづき。「僧院を退出して山林へ」という呼びかけは、法華経にも散見される。それが「ブッダの心に帰れ」という運動だったことは前号で述べたとおりである。その場合、大乗派の人々が捉えた「ブッダのこころ」が取りも直さず「大乗のこころ」「大乗の原点」ということになる。では彼らは、ブッダのどこに大乗の原点を見ていたのであろうか。それは法華経方便品のなかに極めてストレートに表現されている。

第57号 なぜ霊鷲山なのか
 【2008/03/14】 「釈尊は最後の八年間に霊鷲山で法華経を説きました」という話を、法華経を信じる知識人の中でどれくらいの人が信じているであろうか。そのような統計はどこにもないが、おそらく「大乗非仏説」は受け容れざるを得ないというのが本音のところにあると思われる。しかし、もう一面、法華経が訴えかけるもの、および日蓮の生き方から、法華経に否定できない「真実」を強烈に感じていることも事実であろう。

第56号 大乗仏教と山林
 【2008/03/12】 前(55号)回では、大乗の興起について述べたが、いろいろ賛否両論の反響があった。お声はお声として拝聴したいと思う。魯ひととしては、ここで読者と論争をするつもりはないが、大乗仏教のその後の歴史ともからめて、魯ひとの見解を補足しておきたいと思う。私が平川彰氏の説をとらない理由は、その後の大乗仏教の展開を考えるとやはり不自然だと思うからである。

第55号 大乗の興起と流転
 【2008/03/10】 古代インドにおける大乗仏教の興起と流転に関しては、依然として謎が多い。今日一般には平川彰氏の唱えた仏塔信仰と菩薩ガナの存在についての仮説が説明として用いられているが、必ずしも普遍的な説得力をもたない。とくに大乗仏教がインドに大きく広がったという物的根拠がなく、大乗仏典を読んで感じる印象からも、インドでは少数派に過ぎなかったのではないかと思われる。

第54号 「不軽菩薩」再考
 【2008/03/07】 日蓮の修行観は不軽菩薩の実践に尽きると言ってよいと思う。「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(s1397.04,h1174.12,p1174.14)
 この不軽菩薩について、通途の解釈ではなく、日蓮に即して、経典に即して考えてみると新たな感興を覚えるのである。

第53号 『ブッダと龍樹の論理学』
 【2008/03/01】  日蓮の著作(疑書含む)の中には龍樹の主著である「中論」については、ほぼ二十箇所にその名がみえる。「大智度論」の引用となると魯ひとのカウントでは88箇所におよぶ。龍樹は、日蓮を学ぶ上において無視できない大きな存在といえる。ただ日蓮が直接論じていたのは天台智ギであって、龍樹と四つに取り組んだのは、むしろ、その天台智ギであった。「摩訶止観」の論述は「中論」をベースにしている。

第52号 自立と縁起
 【2008/02/29】  明日からは春三月。近隣の学校から卒業式の案内状が届く。この時期よく語られるスピーチに人の字の成り立ちに関する俗解がある。「互いに依り合って生きているのが人だ。人は一人では生きられない。人間関係を大切に」と云々。あまりよくできた話ではない。この話がまた仏法の無我と縁起の説明に転用されると、なお厄介なことになる。

第51号 「世間の事法」
 【2008/02/27】  前(50)号を投じた直後、「しまった!」と思った。間違えたということではない。あの文章を「白米一俵御書」で閉めてしまえば、韜晦とも受け取られかねないからである。誤解を呼ぶ可能性は少なくない。じっさい、外道即仏法、仏法即世法とし、法華経に縁しさえすれば、何でもよしとするならば、それこそ思想の根腐れ、精神の堕落以外の何ものでもない。

第50号 仏法は道理
 【2008/02/26】  仏法は道理であり、普遍的なものである。もし、道理に反することがあれば、たとえそれがブッダの言であろうと、日蓮の文であろうと、誰の説であろうと用いてはならない。このことは日蓮自身が明言していることである。それゆえに日蓮の御書には一定の安心感があるといえる。しかし、日蓮の御書として伝えられるものの中には疑問を感じてしまうものもある。そういう時は、道理と論理の上できちっと分析すべきなのである。それこそが日蓮の本意に適うあり方であろう。

第49号 虚構と真実
 【2008/02/22】  日蓮のいた中世社会においては、『源氏物語』の知識がインテリたちの必須の教養となっていた。と同時に、『源氏物語』を書いた紫式部が地獄に堕ちたという話が広く語られていたようである。じつは、このことが日蓮と法華経を考える上で、重要なヒントを提供してくれる。

第48号 善知識について
 【2008/02/18】  仏教用語の「善知識」が良き友のことであることは、比較的よく知られている。法華経などでは、そのまま「善友」と表記していることろもある。では、どんな人を良き友とするのか。天台智ギは、摩訶止観で興味深い分析をしている。
 まずは冒頭の一文。「善知識とは、これ大因縁なり、すなわち化導して仏に見ゆることを得せしむ。阿難は『知識は、得道の半ばの因縁なり』と説き、仏は『まさにしかるべからず、全因縁を具足す』とのたまえり」(T46-p043a)

第47号 直説と解釈と
 【2008/02/15】  日蓮の思想を学び(ここは信仰を学ぶ場ではない。それは魯ひとの任でない)、普遍性を獲得してゆこうと思うならば、何が日蓮の直説であり、何が後世の解釈に属するものなのかを立て分けることが必要だろう。なぜならば解釈は、場とともに、時代とともに変わって行くものだからだ。また変わって当然なものである。しかし、直説の部分は変えてはならない。そこを変えればもはや日蓮の思想ではなくなるからである。

第46号 「紙墨もて伝持す」
 【2008/02/14】  前45号のつづき。「耳根得道」など、現代に説得力を持つとは思わないが、この発想のもとになったと思われる考え方は『法華玄義』に記されている。さっそく、読者からご教示があった。読者のなかには素晴らしい学究がたくさんおられるので、大変心強く思っている。
 この『法華玄義』の当該箇所のいわんとすることを、一言で言うならば、法は言葉によって伝えられるということではないだろうか。

第45号 耳根得道ということ
 【2008/02/13】  今まで仏法を学んできた中で、いささか違和感を感じる教義も少なくない。だからといってそれを強調して回りと諍いを起すつもりはないが、ただ私はそのような違和感を自分の中で封じることなく、なぜかという問題意識は大切にしてきた。そして自力で解決すべく努めてきた。その中のひとつに「耳根得道(にこんとくどう)」がある。その意味を簡単に言ってしまえば、私たちはお題目の音声を耳で聞くことによって成仏できるという考え方である。

第44号 「進退惟れ谷まれり」
 【2008/02/12】  レター42号に関して、読者より異見が寄せられている。大変ありがたいことで、触発されて、さらに思索を進めることができた。直接メールでの応答をも考えたが、公開した文章に対するコメントなので、ここで応答した方が誤解がなくてよいと思われる。異見というのは、私の「絶望」という言葉の使い方に関するものである。

第43号 朋あり遠方より来る
 【2008/02/08】  学問している者の喜びのひとつは、何と言っても、同学の朋が遠方より尋ねて来てくれた時のことだろう。相手が若い人なら、世代の違う発想を知ることができて楽しいし、同世代の人なら、すぐに意気投合してしまって時間を忘れてしまう。
 こういう出会いには構えがない。こちらも普段着だし、仕事着のままということも多い。

第42号 言葉は信頼できるか
 【2008/02/06】  前(41)号で法華経や日蓮には「言葉というものへの全幅の信頼があった」と書いたら、予期せぬ反響があった。物書きにとって嬉しい一瞬である。それは、法華経は「言葉では真実を語れぬ」という立場にあるのではないかというものである。じっさい、それらしき文言は法華経の中に何度か出てくる。
 果たして法華経が言葉に絶望しているか否かについては、法華経学者の見解も聞いてみたいと思うが、いまはもう少し愚見を述べてみたい。

第41号 「唯仏与仏」のパラドックス
 【2008/02/04】  法華経での釈尊の説法は方便品から始まるが、開口一番、釈尊は説法を止めると言い出す。なぜかというに、根本の真理は仏と仏にしか分からないというのである。仏ならざる聴衆としては面食らってしまう。
 日蓮の説法も同じである。おそらく立教後最初の著作と思われる「一代聖教大意」には「此の経は相伝にあらざれば知り難し」と述べてある。相伝などと縁遠い一般大衆としては、やはり面食らってしまう。

第40号 逆転した認識
 【2008/01/31】  女性を差別した表現として「五障三従」という表現がある。女性をことさらに業が深いとしたものである。しかし、このような認識は日本古来のものではなく、ほかでもない法華経の流布によって広められたものである。「五障」を説いたのは法華経であり、「三従」を説いたのは華厳経であった。
 もちろん法華経が「五障」を説いたのは、「五障」を否定するためであり、それによって女性の即身成仏を強調する狙いがあった。しかし、歴史的には女人成仏より「女性の業の深さ」がより強く焼き付けられることとなってしまったのである。

第39号 正座の習慣について
 【2008/01/04】   読者の皆様、お年賀ありがとうございました。

 信仰というものは、まず坐ることから始まる。対話ということも、また坐ることからはじまる。立ったままの礼拝はどこか儀礼的だし、立ったままの対話は、いつも表面的に流れてしまう。時に対決姿勢を崩せないことも多い。そういう意味で信仰と対話は似ているといえるし、本来、同質なのかもしれない。
 「まあ、坐りいな」

第38号 「桜梅桃李」再考
 【2008/01/01】  新年おめでとうございます。今年もご愛読のほどお願い申し上げます。

 「年年歳歳花あい似たり 歳歳年年人同じからず」
 花は毎年毎年、同じようにきれいに咲くが、人は月ごと年ごとに変わっていく。ひとの言葉もまた同じである。人が変われば、その使われる言葉も微妙に変化していく。

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